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Mana 第一部~始まりの物語~  作者: 福島真琴
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1. 覚醒

 ピー、ピー、ピー、ピー……

 一定間隔で聞こえてくる電子音。時計の針の音にも聞こえるが、その音よりは間延びした音だ。キラキラと光る珠が、ゆっくりと下から上に移動してゆく。否、光の珠だと思っていたそれは、小さな気泡だった。そもそも光の珠に見えてしまったのは、まだ彼女の意識が覚醒し切れていないから、という理由もあるのだろう。

 徐々に彼女のぼんやりとした視界から、薄い膜を取り払うように、クリアなものになってゆく。

(この人たちは、何をしているんだろう……)

 様々な電子機器を前にした人々は、一心不乱にモニターを見つめている。たくさんのコード、灰色の配管、どこかの工場か何かのように、天井には剥き出しの鉄筋が幾本も流れている。そこかしこに、試験管やそれらを照らす照明、泡の吹き出すビーカー、遠心分離機、その他あらゆる道具や機械が置かれている。

彼女はその光景を、そしてそこに集う人々を、不思議なものでも見つめる眼差しで、見下ろしていた。

「あっ!」

 職員の一人が彼女のほうを指差し、声を上げた。それにつられるように、次々と他の職員もその方向に視線を移す。

「な、なぜだ……」

「……ありえない!!」

「覚醒したのか!?」

 職員たちは彼女の側に駆け寄り、口々にそんな言葉を吐いた。当の本人、その女性は、未だぼんやりとした表情のまま、そこに佇んでいた。否、浮んでいたと言うべきなのか……。そう、彼女がいる場所は水の中だった。水族館などにありそうな、円柱形の透明な水の柱。その中にその裸体の女性は浮んでいた。

「ラボナを投与しろ!! 早く!!」

 一際大きな男の声があたりに響き渡った。その声に弾かれたように、まわりの職員は動き出す。ノート型パソコンのキータッチ音が、室内に木霊する。

「ラボナ投与開始」

「脈拍、心拍数、異常なし」

「血圧は?」

「正常値です」

「脳波計は?」

「興奮状態にあったようですが、徐々に落ち着いてきています」

「そうか……」

 職員たちの混乱の沈静化と、円柱形の中の彼女の状態は、比例するように収束を迎え始めている。多数の職員が安堵の息を漏らす中、指示を飛ばす男性職員だけは、じっと息を殺して円柱形の中の彼女を見つめていた。

 Emergency、Emergency――

 唐突に館内放送は、狂ったようにその単語を繰り返した。設置されている巨大モニターに赤い文字で、画面全体を塞ぐようにその文字を浮かび上がらせる。館内の各部屋入り口の赤色灯も、救急車のサイレンのように回り始める。

「主力電源ダウン、主力電源ダウン。緊急災害モードに移行します」

 電子的な女性の声が、館内の危機を知らせる。そして室内の照明は、予備電力用の小さな橙色の明かりに変わった。

「か、館長!! 一体これは、どういうことでしょう!?」

 経験したことのない原因不明の危機を前にして、職員は怯えも隠さず、館長と呼ばれた男に縋るようにして訴えた。

「検体CX-01の容体は!?」

 それでも取り乱すことなく、館内の異常よりも、目の前の検体の様子を聞く館長に、職員は薄ら寒い怖さを感じた。それでも職員は、予備電力で動くパソコンのモニターをチェックした。

「何も……異常はありません……」

「……そうか」

 そこで初めて、冷徹なまでのその男は息を吐き出した。

(取り越し苦労だったか……)

 内心を吐露するかのように、男は口の中で独り言をそう呟いた。男の頭の中では過去の映像が再生されていた。尤も、そのときの映像は、円柱形の中にいた人物は男だったが。

 だが、唐突にあたりは真っ暗闇に襲われた。混乱と恐怖の感情に支配された者たちの声で、室内は覆われる。

「落ち着け!! 落ち着くんだ!!」

 そう叫びながらも館長は無意識のうちに、検体のほうに走り出していた。

(また同じ失敗を繰り返すわけにはいかない!!)

 暗闇の中、必死で伸ばしたその手の先に、何かが派手に壊れる音がした。と同時に、何かを叩きつけたような大きな音も……。

(滝だ……)

 緊急事態で判断力がどこか麻痺してしまったこんな頭でも、館長の中で唯一浮かんだ言葉だった。やがて冷静になった頭が、何かが崩れて水が流れ落ちる音だという認識に到る。

 しかし戦慄したのも束の間だった。それを見てしまったからだ。それは、闇の中に白く薄ぼんやりと浮んでいるように見えた。

(幽霊か?)

 館長はまさしく、そんな風に思った。そう思ってしまったのは、彼女の瞳を見てしまったから。その瞳を見た瞬間、館長は動けなくなってしまったのだ。

 美しいからとか、そんな柔らかい感情からではない。彼女の瞳には力があった。それは、指示を出す仕事の上司のそれのようなものではなく、もっと人間以外の力を感じさせるようなもの。神域に入ったときのようなそれに近かった。

 だから彼は、怖れた。危機に対する恐怖という感情よりも上の恐怖、畏怖だった。それは彼にとって、決定的な構図だった。例えば、人間がその身一つで、獣の群れの中に放り込まれたような、荒れ果てた自然の中に転がされたような、認めざるを得ない自然界の構図。人智を超えた力で、今彼女は館長を威圧していた。それどころか、

(く……苦しい……息が……ッ!!)

 彼女はその力で、館長の喉元を締め上げていた。見えないその力で。

(なんだ、この力は!! こんな力は、……ありえない!!)

「館長!!」

 職員が叫ぶその声と同時に、集中力が途切れたかのように、急に締め上げる力もなくなった。駆けつけた職員の腕の中で、館長は空気をむさぼりながらも、激しく咳き込んだ。それでも意識だけは失うことなく、途切れ途切れに言葉を発した。

「……っあの、……検体は……げほっ!! ど……こへ……!」

「検体? そんなことよりも、館長の身が……!!」

 職員の心配などには聞く耳さえ持たずに、館長は検体を追おうとする。しかし暗闇には、飛び散ったガラスの破片と、雫が滴り落ちる音が響き渡っているだけだった。

「館長!! これ以上は危険です! まずは、この現場の収束への指揮をお願いします!!」

 呆然と立ち尽くす館長の背に、職員はそう追いすがった。しばらく逡巡した館長は、やがてこう言った。

「……わかった。主力電源室の点検に向かおう。それと本部に連絡してくれ。検体が、また(・・)一体、逃げ出したと」


 この施設は、深部に降りるにつれて予備電力による明かりの光量が強くなっていた。ということは、深部にこそ重要な部屋が配置されているということなのだろう。彼女は一通りそう考察してから、さらに階下に降りた。

 赤色灯の明かりの下、扉の近くに掲げられたネームプレートを見る。どうやらそこは、警備兵の物品が置かれている部屋のようだ。ここまでまさに、裸一貫で降りて来たとは言え、さすがに明かりの数も増えてきている。こんな姿でうろついていたら、見つかりやすいどころか、いろいろと危険である。

 彼女はそのドアノブに手をかけた。だがやはりその扉には、鍵がかかっていた。人の気配がないかを注意しながらも、しばらく思案する。

(やはり、これしかないか……)

 目を閉じ、集中する。その眼裏には、鍵穴の光景が細部までやけにリアルに、再現されている。自身が蚤か何かの小さな生物になり、シリンダー部分から進入して行くような映像が頭の中に浮かぶ。フロント面の借締であるラッチボルトと本締のデッドボルト付近に意識は移動する。そこに力を集中させてみたが、びくともしなかった。彼女の意識は、フロント面を影が侵入するかのように、するりと潜り抜け、サムターンへと辿り着いた。透明な手のようなものが、それに触れるイメージが頭の中に広がったとき、

 カチッ――

 その音が彼女の前に下された。ドアノブを回し中に入ると、予想通り、期待していたものはそこにあった。警備兵の制服、警棒、ライト、中には銃弾は入っていなかったが、拳銃まで無防備に置かれていた。

彼女はその部屋に飛び込み、部屋の中から鍵をかけると、急いでその服を着込んだ。サイズは男物だったせいか、かなり大きかったが、それでも裸よりはいい。腕まくりをしたり、裾を折り込んだりして、なんとかごまかした。

 彼女は、警棒、ライト、銃弾の入っていない拳銃、誰のものかわからない職員のネームプレートを携帯し、薄く扉を開けた。廊下の様子を窺う。人の気配はなかった。静かに扉を閉めて、気づかれぬよう素早く走った。

 曲がり角に達する直前、人の話し声がその耳に届く。

「緊急事態? 一体、上の階で何があったんだ?」

「寝ててよく聞き取れなかったが、何かが逃げ出したとかなんとかって……」

「職員か?」

「馬鹿言え! 職員の脱走でここまでの騒ぎになるか!」

「それもそうだなぁ……」

 暢気な会話を繰り広げる二人の男は、警備兵の制服を着ていた。彼女の目にはその腰に帯びている拳銃が、目的のものとして映る。静かに息を吐き出して、その曲がり角を曲がる。

「ご苦労様です! こちらの廊下は、異常ありませんでした!」

 敬礼のポーズと共に、二人の前に佇む。一瞬、二人の警備兵は訝しんだが、すぐに警戒の色は解かれた。

「……お前、見ない顔だな……。しかもその髪、どこで染めてきたんだ?」

「サイズも合ってないじゃないか!」

 警戒を解いたというよりかは、ニヤニヤ笑いを浮かべている。警戒云々よりも、興味のほうがどうやら勝ったようだ。にじり寄るように近づいてくる男の腰に、彼女は手を添えた。

「お! なんだ、随分と積極的じゃないか!」

「話がわかる女はいいねぇ」

 男のうちの一人が、彼女の身体に触れようとした。だがその手は触れることができなかった。なぜなら、男の腕がその意志とは逆の方向に捻じ曲がり、すさまじい音を響かせたあと、急に弛緩したようにだらりと垂れ下がったからだ。

「あぁぁぁぁッッ!!」

 男の叫び声があたりに響き渡る。その異常な光景に、見ていたもう一人の男は恐怖に顔を歪めた。一体何が起こったのかもわからぬまま、未知なるものへの恐怖に、腰が抜けたまま動けなくなっていた。その隙に彼女は、警備兵の腰にある拳銃を、ホルスターから抜き取った。

「動くな」

 静かに放たれた彼女の声は、まるで催眠術か何かのように、男たちの脳に響いたようだ。そのまま表情も変えずに、人形のように固まってしまった。

「眠れ」

 その言葉を言い終わる前に、二人の男は言葉通りに眠った。後には元々あった静寂が支配するだけの、無機質なメタリックの通路があるだけだった。彼女は悟られぬよう静かに、さらに階下に降りていった。


 より一層照明が明るくなった階で、その一室に辿り着いた。事実上、そこで行き止まりだった。

(外に出るための経路は、やはり上階に上るルートだったのだろうか……。しかし、あんな騒ぎを上階で起こしているのだ。上に行くのは自殺行為……)

 彼女は思案に暮れた。だけどいつまでも、ここで立ち尽くしているわけにもいかない。何かの手がかりが見つからないだろうかと、この室内を物色することにした。

 しかしよく見てみると、薄気味悪い部屋である。橙色の照明が灯っているとは言え、潜在的な暗さを感じる。何かのデスクワークに使っていたオフィスのようではあるのだが、そこかしこに大量の資料と、試験管、フラスコ、ビーカー、ピペット……。これらの実験器具が、所狭しと並んでいた。

 ちょうど、魚なんかが入りそうな水槽の中には、数匹のラットの死骸が転がっていた。他の水槽には、は虫類の死骸、また別の水槽には未だ水が入っていて、見たこともないやせ細った魚が泳いでいた。だけど目が充血していたから、やはり普通の状態ではないのだろう。

 彼女は、デスクの上に無造作に置かれていたパソコンを起動させた。それはデスクトップ型の旧式のもので、立ち上がりまでにカタカタと機械が動く音を、しばらく響かせていた。パスワードの設定はされていなかった。思いの外の無用心さ。それとももう、使い古した価値のない昔のデータということなのだろうか。

それでも、いくつかのデータを開いてみる。人の遺伝子構造が書かれたファイルと、人と動物の遺伝子の組み合わせ模型、そして何かの実験結果の数値が、所狭しと並んでいた。

 そんな中で、『アルカディア計画』という名のファイルを彼女は見つけた。妙に好奇心をくすぐるタイトルである。彼女は怖いもの見たさで、そのファイルを開けてみた。

 それは画像と数値、説明文で構成されていた。誰かの顔の再現CGだろうか。何人かの顔と、身体的特徴、遺伝構造、配列、そして最後に『作成日』と、記されていた。

(作成……、あぁ、このデータの作成日ね)

 彼女は疑問に思うことなく、そう解釈した。しかし、その手が止まる。ある女性のCG画像。水色の瞳に、淡い水色の髪。赤い唇が妙に特徴的だった。

 その顔を、彼女は凝視した。なぜならその顔は、モニターに映る自分の顔と似ていたからだ。その視線は、忙しなく画面を駆け巡る。遺伝構造と説明文、注釈に到るまで、書き記されたその情報を、まるでむさぼり喰らうように吸収する。

(こんなことって……、こんなことって……)

 読めば読むほど、その仮説は確信に変わってゆく。この施設はどんな施設なのか。そして自分が収まっていたあの円柱があった部屋で、彼らは何をしていたのか。

(私は、この施設で造られたんだ……。そして、みんなが当たり前に有していると思っていたこの力、これも遺伝操作によって造られた力――)

 画面上には、人間とイルカの遺伝子の結合形が燦然と誇示するかのように、光り輝いていた。

(私のこの力は、普通の人には備わっていない力――)

 驚愕に見開かれた警備兵の表情が、彼女の脳裏に過ぎる。鍵穴の構造を解き明かし、触れてもいないのに、開錠したあの場面も思い出す。

 そして、何者かわからぬ人間の遺伝子で造られた証拠に、誰に教わったというわけでもないのに、パソコン操作も造作なくこなしている。今まで触った記憶さえないのに、身体が覚えてでもいたかのように自然と動いている。

 様々な疑問、衝撃、感情がせめぎ合う中、愕然としたまま、近くの机に身体を預けていた。そんな状態で思考停止していたせいか、彼女は気づかなかった。

「検体CX-01、発見!!」

 入り口のほうから武装した警備兵たちが、この部屋になだれ込もうとしている。当然、銃も構えていた。そんな中、彼らを制止するように、一人の男が叫びながら前に進み出る。その男は、上階で館長と呼ばれていた男だった。

「やめろ、銃を下ろせ!! 大事な検体を、傷つけずに捕まえるんだ!!」

 警備兵たちは渋々銃を下ろしながらも戦闘体勢のままで、この部屋にじりじりと侵入してくる。

彼女はあたりを見回した。外へと脱出する経路はないだろうか……。しかしここは、最深の階の中でも、行き止まりの部屋。

(やはり、この警備兵の壁を突っ切って上階に向かわなければ、脱出することはできないか……)

 彼女がそう覚悟を決めかけたときだった。なぜか視線はそこに吸い込まれた。壁の中でもそこだけが、色合いが違っていた。しかもその一部を補修した痕跡が……。

 彼女はそこ目掛けて、中身の入った数本の試験管を投げつけた。中に入っているものは何なのかは、わからない。だけど何かしらの反応は起こすだろうと、一か八かの賭けだった。そしてすぐさま、銃弾を撃ち込む。

「ッ!! うわぁッッ!!」

「な、何が起きた!!」

 口々に警備兵たちの悲鳴が上がった。朦々と煙が立ち込める室内。彼女が銃を放った瞬間、試験管の中の薬品に引火し、爆発を起こしたのだった。室内を煙が覆い尽くす中、彼女は穴の開いた壁に侵入した。不思議なことに、そこは人一人が這って通れる通気口のような通路が続いていた。

(誰がこんなところに、こんな通路を……。いやそれとも、元々あった通路を使わなくなったから塞いだのだろうか)

 いずれにしても、彼女に選択肢はなかった。進むしか、道はないのだ。真っ暗な暗闇が、大きな口を開けて佇んでいた。その暗闇は、凝縮された暗闇だと、なぜかそう感じられた。

 だけどぐずぐず迷っている暇はない。室内を満たす煙が煙幕代わりになってくれているのも、時間の問題なのだから。意を決して、彼女はその暗闇に挑んだ。


 不思議なことに、ずっと続くその闇を進んでいると、以前も誰かがここを使ったような、そんな感覚がしてくるのだ。そりゃあ、通路がこうやって存在していたのだから、何かしらの使用目的があって存在していたのだろう。だけど何かこう、そういうのとは違う香りがするのだ。大勢が使っていた通路というよりかは、誰かが今の自分と似たような状況下で……。

 ――暗闇を進むときは、真っ直ぐ進むことを、心がけるんだ――

 不意に、彼女はそのまだ会ったこともない誰かの背を追いかけながら進んでいるような、そんな感覚を抱いた。

(大丈夫。この道は、外の世界へと続いている。なぜなら、その人がこの道を通って、外へと出たのだから)

 彼女はその暗闇を進みながら、不思議と安心感に包まれていた。常に見守られているような、そんな感覚だった。

(あ、光だ……)

 どれほど進んだだろうか。道の先に光が見え、そして初めて人工物以外の自然の造形を見た。ごつごつとした、でこぼこだらけの茶色い岩肌。岩と岩の隙間からは、緑色の天然の雑草が生えていた。

 その瞬間、彼女はやっと外の世界に出ることができたのだと思った。長かった暗い通路を振り返る。追っ手の気配は感じられなかった。ほっと一息つきながら、狭い通路から這い出し、身体を大きく伸ばす。ずっと同じ体勢でいただけあって、腰や腕、腿が部分的に痛みを訴えていた。だけどそれも、生きている証拠。

 しかし、さすがにその目の前に広がる岩の壁を前にした瞬間、嫌気が差した。その絶壁のような壁を登らなければ、どうやら本当の外界には出ることができないようだ。

 一つ息を吐き出して、気合を入れ直し、その岩肌に手をかける。思いの外、その岩肌は手をかけやすく、そういう点においては登りやすい壁だった。だがその傾斜のキツさと言ったら……。もし、娯楽やリフレッシュスポーツとして登る場合だったなら、初心者には向かないコースと言えよう。

 しかし今の彼女にとっては、そんな楽しい場面ではなかった。何が何でも登らなければならない。逆を返せば、そうしなければ生き延びることはできないのだ。

 流れ出る汗もそのままに、必死で彼女は登り続けた。きっとこんな状況下でなければ、ここまで登ることはできなかっただろう。

(生きたい。私自身を生きたい。あんな円柱形の中に閉じ込められて、人間が作り出した道具か何かのように、生きたくはない。そんなのは機械だ。だって私は、人として、目が醒めてしまったのだから)

 その強い想いが、彼女を突き動かした。身体の奥底から湧き上がってくる強い力が、彼女を動かしているみたいだった。そしてもう一つ、彼女の中で灯る明かりのような、そんな感覚があった。

(きっと、私以外にもそんな人がいたんだ。あの暗闇の通路からは、そんな香りがした。あの施設のデータにあった、造られた人々の中の一人かもしれない。いずれにしても、この世界のどこかにいる)

 彼女は根拠のないそんな考えを、どうしても捨て去ることはできなかった。

(きっと、この世界のどこかに――)

 そう思ったとき、視界の隅に青空が見えた。そして、青々と茂る草花の香り、流れる風。その風からは、遠くの街から運ばれてくる雑多な匂いが感じ取れそうな気がして、彼女の好奇心は全身を駆け巡り、身体全体が全てを吸収しようと、感覚が研ぎ澄まされてゆく。

 そして、最後の岩に手をかけ、登り切る。汗だくの身体を草の上に投げ出し、空を見上げた。凪いだ風が、心地良く頬を撫でてゆく。

 彼女は初めて、生きているという感覚を鮮明に抱いた。それは疲れ切り、筋肉が悲鳴を上げた全身を駆け抜けてゆく。自分の心臓の音が、心地良かった。

(大丈夫、大丈夫だよ)

 必死で働き続ける自分の心臓に語りかけるように、彼女は心の中でそう呟いた。

 しかし、身体を休ませていたのも束の間、ある程度の回復を確認した彼女は、急に飛び起きた。追っ手が迫ってきているかもしれないこの状況。疲れ果てた身体を引きずりながらも、近くの森まで移動した。獣の鳴き声が木霊する鬱蒼とした森ではあったが、施設の人間に捕まるよりはまだましというもの。

 彼女は森の中に入り込むと安心したのか、急にエネルギーが切れたように、眠り込んでしまった。


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