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亀執事

 


 小さな部屋が何百と集まった蜂の巣のような建物の、同じような小さな部屋が、ぼくの目覚めた彼女の部屋だった。

 エレベーターに乗って出口に向かったのは、同じドアのえんえんとならぶながい廊下を歩いたあとだった。


 とつぜん、途中で足もとを黒い影がはしりぬけた。黒いネズミだった。

 ぼくは驚いて声を出してしまったが、ネズミは止まって振り返り、「やぁ」とか言ってにやりと笑い、イゾルデに挨拶した。

 イゾルデも、こんにちは、とかてきとうな返事を返している。ネズミはしっぽをひるがえしてふり返るとそのまま向こうに走っていってしまった。

 イゾルデは、平然としていて、ネズミのことなど特になんとも思っていないようだった。

 彼女にとってそのネズミは隣人であり、気楽に挨拶するのは日常の一コマであるかのように。

 ぼくにはエピソード記憶はないが、一般常識の記憶は、ある。

 だからもともと、やつらと人間は挨拶しないというのは覚えている。

 それどころか、やつらは人間語を話しもしない。

 というか、この世界のやつらがみんなコスプレしているというのは分かったが、あれもコスプレなのか? 

 身長が三十センチもないネズミにどうやってコスプレできるんだ?

 中に小さな人でも入っているのか?

 あるいは遠隔操作?

 ……頭がクラクラしてきた。

 ドアのならぶ廊下の壁が近づいたり離れたり、動いているような気がした。

 やはりぼくは悪夢を見ているんではないのか?


 彼女は足を止めて、壁に埋め込まれた郵便受けを確認している。

 長い足、スカートを持ち上げる形のいいヒップ、ぼくは彼女のセクシーなシルエットを見つめた。

 先ほどまでは、この世でただひとつのぼくが知っているもの、スリットこそすこし入っているが、それ以外は完璧なボディラインの体とすこし目尻の上がった美しい顔をもつ人間、……と思っていたもの。

 すべてがつくりものめいたこの世界で。ぼくはゆいいつ、彼女だけに現実感を感じていたのだが。

 その彼女はねずみと話していた。

 ねずみは彼女の日常の一コマのようだった……。

 体長三十センチのネズミ、人間ではありえないもの。

 それとおなじ存在の彼女……。

 つまり、彼女とねずみは、おなじ存在、ぼくとは違う存在なのではないか……。

 人間はねずみと話さない。

 彼女はねずみと話す。

 ……

 彼女はぼくの知らないなにかなのだろうか……

 この世界はぜんぶまがいものなのか?

 頭が混乱してきたので、手を当てようとすると、カツラがずれた。


「人間の大きさなど……」 とつぜん、老人のダミ声が響いた。振り向いたぼくのうしろに、亀の甲羅をかぶった老人がいた。腰が曲がっているので白いヒゲが地面にくっつきそうだ。黒いスーツを着ていたが、体のあちこちに爬虫類的な鱗が付いていて、背中にはかなり大きめの甲羅を背負っている。

 かなり変な格好だったが、もう僕にはあまり気にならなくなっていた。

 この世界では、全員が何かのコスプレをしているのだから。

「無意識の相互認証による取り決めに過ぎませんな」

「あんた誰だ?」

「わしは亀老人。出てきた話は忘れもうした。姫の執事ですわ。……君は?」

「ぼくは……」

 誰なんだろう? 自分でもわからないのだ。説明なんかできない。

「ふむ……」ぼくを見つめる老人の目の奥が少し光った。

 考えているみたいだ。でも顔に感情は全く現れない。それでいて、緊張感はなく、全く自然にしているように見える。

「おはよう、爺や」 イゾルデが振り向くと、ごく自然な表情だった。慣れている二人らしい。

「コホン、郵便受けはチェックしてあります。何もありませんでしたな、それより、おはようと言われましても、あまり早くはないようですぞ、姫」

「寝起きのわたしには早い時間ね」

「(無視)……、つまり人間のお互いに対する認識など、あてにならないということです……。大きいと思っていた知り合いが小さかったり、小さいと思っていた敵が近づくと大きいことも、あるいはその反対も……」

 亀老人はこちらに向きなおり講釈の続きをはじめた。

 イゾルデはほんの少し口を曲げて、爺をにらんだが、「急がなくっちゃ、遅い時間だから!」と言い捨てて、ふりむいて歩きはじめた。怒っているとかではない、日常の一コマといったところだった。

 ぼくは追いかけようとしたが、老人に袖をつかまれた。

「どうやらチミは、……」

 世界のことばかり考えていたぼくは、自分のことを言われて驚いた。

「侵入者らしい……」


「記憶がないんじゃろう?」

 老人は首をかしげてこちらの目をまじまじと見つめ、語りかけてきた。

「侵入者は時々現れる。記憶がないのが特徴じゃ」

 ぼくはわからない。残った記憶の中にも、『侵入者』というキーワードはなかった。


「侵入者といってもいろいろでな。人間でないやつらも多いんじゃが、これはすぐに焼却処分される場合が多い。ロボット、アンドロイド、エイリアン、異次元人、あるいは、人間だったら、『記憶どろぼう』に記憶を奪われたもの、それに、『生体ギャング』に、脳を奪われたもの……。奴らはすぐに脳の盗難が発覚しないように、空っぽのあたまの中に簡単な対応はできるチップを入れていくからの……」

 ……ぼくはまたもや自分の頭に手をやり、カツラを今度は本当に落としかけた。

 ひょっとして、記憶がないのは脳を奪われたからで、代わりにここに入っているのは小さなチップだったら……。

 そういえば、ぼくの頭の中はシンプルすぎるかもしれない。

 自分で自分の感情の複雑度が足りないような気がした。

 チップでも簡単な意識くらい持っているかもしれない。日常動作はできるらしいから。

 ……それがこのぼくの意識だったら……。


「ぼくは、侵入者ですか?」

「可能性は高いの」


 侵入者、脳がないもの、チップで動いているもの……

 自分がいると思っているだけのもの。

 ぼくは自分の頭を揺すった。あたまの中に何かないかと思って。

 ぼくの目から見ると、世界がシェイクされて、意識が薄くなってきた。



 いきなり張り手が飛んできた。

 痛みは鮮烈だった。ぼくはあっけにとられた。


「驚くべき気の弱さじゃな。わしとしては、チミはどうなってもいいのだが、イゾルデ姫が怒るので、アホな真似は慎むんじゃ」

「気が、弱い……?」

「軟弱すぎじゃ。取り乱しおって。それに、そんなに揺すったら頭のチップが外れてしまうかもしれないじゃないか」

「!、 ……やはり、ぼくの頭はチップ……」 ぼくはまた頭を揺すりはじめた。

 悲鳴も上げていたかもしれない。

 今度はコップの水が飛んできた。

 驚いて停止したぼくは、また呆然としている。

 亀じいは、コップを片手に、反対の手を自分のひたいにあててため息をついている。

「冗談じゃよ、アホな若者よ……。侵入者といってもいろいろあるんじゃし……」

 シャレのきつい爺さんだった……。



「お前さんは違うよ。……記憶はないかもしれないが、本物の人間のようだ」

 急に私に背を向けて歩きはじめた亀じいは、ひとり言のようにこちらも見ずに話しはじめた。

 ぼくはよたよたしながら、追いかける。


「本物か本物じゃないか、外側からどうやってわかるのかな?」

「写真のリンゴと本物のリンゴが違うように、反応の仕方をじっくり見ていると感じるんじゃよ。……ま、わしを信用するんじゃな、それより、姫はだいぶ先に行ってしまったようじゃ。姫は絶対にふり向かない性格なんじゃぞ……」

 とことこ走り出した亀じいの後を、ぼくも走って追いかけはじめた。


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