地下迷宮の自動キス
トキンの指示で、彼女を横たえたのは、『保健室』だった。
『保健室』はコンクリートのクネクネした廊下をしばらくいった先にあった。「万が一の管理機構の攻撃に備えて、分かりにくくしてあるっす」だ、そうだ。
なるほど、わかりにくいドアを開けると、そこは、医者とかは一人もいない、ただの広い部屋に簡素なベッドが並んでいるだけの空間だった。シーリングファンが天井でゆっくりと回っている。
廊下と同じく、コンクリ打ちっぱなしの壁には、包帯とか消毒薬とか、外傷系の医療器具が並んでいる。
地下の住人のほとんどは、子どもたちなので、怪我が多いのだろう……。
彼女は眠っているようだった。
昨日着ていたよりシンプルなドレスで、なんの感情もないけれど完璧な寝顔でしずかに吐息をたてている。
きのうの、執事トータスが失神した彼女をゆりおこしていた場面をおもいだし、そっと手を肩にかけて揺すってみる。
からだは揺れるが、彼女はおきなかった。
失神したふりをしているのかと思ったが、本当のようだった。
しばらく二人にしてくれるように、トキンに頼もうとふり返ったら、すでに彼はいなくなっていた。
・
壁際に丸椅子があったのでもってきて、腰を下ろした。失神なのだが、寝入っている彼女の顔をしばらく眺めていた。見飽きなかった。
赤いハチマキを締めていて、これはトキンが「絶対はずさないように」と言っていたものだ。彼女の金髪によく合うと思った。
しかし、こんなに失神しやすいのも、キャラ設定でそうなっているからなのだろうか。そういえば、中世の話のなかでは、女性はしょっちゅう失神ばかりしている……。
どのぐらい経ったかわからないが、「う……、」とつぶやいてイゾルデは目覚めた
半眼のままだったが、知らない場所で目覚めた人のようにあっけにとられた顔してキョロキョロしている。そして背中を起こした。まだ頭はグラグラしている。かなりの低血っぽい動きだった。
この段階で、横にいるぼくには気づいていなかったようだ。
彼女がふらりと倒れそうになったので、ぼくはからだをよせた。
彼女は自分のからだにあてられているぼくの手に気づき、それを抱きよせ、
それからゆっくりこちらに顔をむけ、
(この段階でその目は閉じられていたことは正直に書いておかなくてはならない……)
反対側の手でぼくを抱きよせて、唇を重ねてきた。
深いキスで、彼女の舌がぼくの舌をゆっくりと確認しているようだった。
「ああ……、おヒゲが濃いのね……」とか言って、彼女は唇をはなし、ぼくを見ると……
ぼくは彼女がまた失神すると思って、抱きかかえる体勢になった、が、今回は彼女はそうならなかった。どちらかというと、……怒りくるったのだ……。
「あんた、誰なのよぉっ!」
青ざめた顔で、はんにゃのように怒った顔になった彼女は、左から右に、ぼくをひっぱたいた。
いっしゅん、目のまえに火花がとんだ!
次に右から左に、こんどは手の甲が反対側のほおを……
ひっぱたかれる方向は逆だったが、火花の位置は同じだった。りょうほう目のまえだ。
(ここで言っておくが、コスプレのスーツは、来ている人間の感覚体験を弱くしないように作られている。多分、直接神経に、スーツが受けた刺激を伝えるようにできているようだ。これは、夏の暑いなかのそよ風の気持ちよさを感じるのにはいいのだが、ひっぱたかれた時の痛みもそのまま伝えてくるということだ)
さらに、正面からパンチが飛んできたので、これはさすがに口で受けとめた。
もちろん、牙はたてない……。
「ホゴホゴホゴホゴ……」
彼女は厳しい目でぼくが戦意喪失しているのを確かめると、すっとぼくの口のなかの手を引きぬいた。
にぎったこぶしから、唾液が糸を引いて飛びちる……。
彼女はこちらから目をそらさずに、血きりの時の刀のように、うでを振って付着した唾液をとばす。
「何かいうことは?」 彼女が吐きすてるようにいう。
「すごかった……」
四たび、こぶしが飛んできた……。
・
しかし、パンチより、そのあとの彼女のセリフの方が衝撃が大きかった。
「ふざけないでよ、人のファーストキスを、どうしてくれるのよ、わ、私は、中世風なんだからねっ!」
「ファーストキ、……って、君、あんなに上手い……」
五度目のパンチ、こんどは尻尾でうけとめたが、彼女の表情がさらに鬼瓦になったので、甘んじでほおをさしだした。
……
「あれは自動的な反応で、寝起きの私にあんな体勢でいるあなたが悪いのよ!」
「自動反応ってなんなの?」 まだ怒っているイゾルデに、五度目のパンチのコブをさすりながら、ぼくは尋ねた。
「まるであんたも記憶喪失みたいね。この世界のことをなにも知らない、……あいつみたいだ」
「あいつって?」
「トリスタン……、私の運命の人だったのに、蒸発しちゃった……」
イゾルデはうつむいて、自分を落ちつかせるようにゆっくりと息をする。
「私たちはキャラ作りのためにいろいろな学習や練習をしているでしょう? みんなコスプレの代償に、そのキャラクターが持っていた能力を訓練しなければならない……、あなたもやったわよね」
もちろん黙っていたが、やったとしても覚えていない……。
ぼくは、スーパーエスパーを思いだした。
彼はどう見ても、下手なレイヤーだった。もっとうまい誰かがあのコスプレをやれば、もっとカッコ良かったような気がする。 ……あれは練習不足だったんだな。
「私は子供時代から大人のうつくしい女としての勉強と練習をしてきたのよ。イゾルデなんて、傾国の美女だし、妖艶なイメージがつきまとう……。だから、キスから、もっと他のことも、ぜんぶ全部、やり方は習得しているの、成績はオールAプラスよ……。でも誰とも何もしたことがない……」
ここまでイゾルデは思いだすように目を伏せていたが、ここでとつぜん、ぼくをつり上がった瞳で睨みつけた。
「そんな私のファーストキスを奪うなんて!」
「奪うったって、君の方からとつぜん……」
「きゃーっ! 私の最初のキスはトリスタンと決まっていたのよ。あいつはどう見ても怪しかったけれどでも少なくともイベント通りだった。あいつより前に、こんな薄汚れたパンダにぃぃぃぃ……」
「本当に経験もなかったの?」
「 当たりまえよ、お姫さまなのよ、何よ、こんなハチマキを締めさせて!」
イゾルデは、トキンがつけたハチマキに手を伸ばした。
・
「うわっ、ダメっす! やめてやめてーっ」
とつぜん、横のベッドがひっくり返り、トキンが飛びだしてきた。
ドアが開いたのではなくて、ベッドがちゃぶ台返しのちゃぶ台のようにひっくり返ったのだ。とび上がったベッドが地面におちてはでな音をたてる。
ぼくも思わず尻尾のカマを出して戦闘体勢に入ったし、イゾルデは完全に硬直していた。
トキンは彼女のうしろに回り、バンダナを押さえつける。
「ちょっと、何よ、やめてよっ!」
ふたたびイゾルデが暴れる。
暴れるのでバンダナが取れそうになり、それでさらにトキンは必死に抑えようとする。
「お願いっす、取らんでくだせぇーっ!」
「わかったから、私の首を絞めるのは、……や、や、やめ……」
「トキン、彼女から手を離せっ!」
「はっ、はいっす……、(自分の手がイゾルデの首を絞めていることに気づき、緩めながら)……でも、それはそのままに……」
トキンは床で四つん這いであやまり、イゾルデは気道を確保するように自分のくびに手をかけて喘いでいる。
トキンは彼女のバンダナを外したくないと思ったのだ。
そういえば、細めだが、彼も同じものを頭につけている。
「まず、トキン……」
「はい、……っす」
「お前、あのさ、覗いてたの?」
「それは、あの、その、なんだ、あれです、部屋のメンテナンスで……」
彼がひっくりかえしたベッドのしたを見ると、床にドアが付いていた。確かにメンテナンス用らしい。
しかし、これは嘘だろう。ぼくとイゾルデのぬれ場を期待したのだ。ぼくも男だから、気持ちはわからないこともなかったし、じっさいは彼が期待したようなことは起きていないので、気の毒といえば気の毒かも……。
いや。覗きに同情していてはいけない……。
それより、なぜ彼女のバンダナを気にするのか……。
「これは、簡易型電波遮断装置なんっす。彼女は……、あと自分もっすが、コスプレ管理機構に認定されている人間は、脳内チップのせいで、これがないと居場所を特定されてしまうっす」
「ぼくはいいのか?」
「ネズパンダさまのコスチュームは特製ですから、管理電波対策は完璧なのっす。子どもたちも、……彼らは捨て子なので……、ほとんどが認定されていませんから、大丈夫っす。チップの入った一部の子にはこのバンダナを付けさせてんのす」
「居場所が特定されるとそんなに大変なのか?」
「それは、あはは、ご冗談を! 居場所がわかるギャングほど間抜けなものはないっす、あははははははは、あはっ、あはっ、……ひいっ、ひいっ、……そっ、それからぁ、この地下迷宮は、存在自体が知られていないのっす。存在がわかれば、管理機構はすぐに破壊してくると想定されてっす。そしてパンダ団自体も、管理機構より前に、ここを爆破する予定っす」
「なんだって?」
秩序を守りたい管理機構が、裏の抜け道である地下迷宮を攻撃するのはわかる、……なぜギャング団もここを破壊しようとするのか?
「つまり、……あ、ご存知ないんですか? おかしいっすね……。まぁいいか、オラを試すテストみたいなもんすかぁ? ならお手柔らかにお願いしまっす」
動悸がおさまったらしいイゾルデは、彼女らしい無表情で話をじっと聞いている。
トキンの話は続いた……。
「地下迷宮は、裏活動の生命線で、これと電波遮断装置がないと、われら含めすべての違法な活動は息のねを止められてしまいまっすわ。世界すべてを管理したい管理機構は、攻撃の機会を狙っているのでっすが、最大のネックは、正確な場所や出入り口が特定できないことなんでっす。……これがもしも彼らにバレたばあい、すべての地下迷宮はつながっていますから、ほんとうにすべての地下組織が壊滅させられてしまうかも知れないっす。なので、管理機構に情報のバレた迷宮は、内部からの攻撃をされ、そのブロックごと破壊されることによってほかの迷宮へのルートを遮断、ほかの迷宮を守ることになっているっす」
つまり……、とぼくは聞いた。それが起きたらどうなるのか、と。
イゾルデは、下を向いたままじりじりとドアの方に移動していた。
「管理機構と裏組織から攻撃され、ここはあっという間に瓦礫の山になってしまいまっす」
イゾルデはドアの方に走りだした。
・
ぼくは尻尾を伸ばして、巻きつけ、そのままベッドに戻した。
彼女はムッとした顔をしていて、悪びれもしない。
「イゾルデ、ぼくは、『レジー』だよ。そしてそのあと、管理機構の地方局ビルで、トリスタンになった男だ……」
「ざけないでよ、ネズミとパンダの合いの子がなに言っているのよ」
「だから、これはコスプレだって。騙されて着せられたんだよ」
「なんと言いましったっす?」
「お前はいいから……」
「……偉い人もかげで色々あるんっすね、オラにはよくわからないっすが……」
トキンの滑舌は良くないので『色々』が、『エロエロ』に聞こえたのだが、ここでは触れないでおいた……。
えろえろ……。
「記録なんて、機構からもらえば、いくらでも自分の記憶のなかにダウンロードできるのよ。あなたが、私の愛しい人っていう証拠はない」
「愛しいひと……」 これは、効いた。ぼくはがぜん生きる意欲が湧いてきた。
「だいたい、あなた、彼よりずいぶん態度がずぅずぅしいわ。同一人物とは思えない……」
「それは、……たぶんあのあと色々あったから……」
「そんなの知らない。私は、あなたがあの人である証拠が欲しいの!」
ぼくには一つだけ、証拠があった……。
・
さぐると、首もとにボタンのようなものがあった。
それを押すとパチンと音がして、顔の皮膚からあらゆるセンサーやパッドが離れていく。
皮膚とスーツのあいだに外界の空気が入ってくる。
「もしかして、あなた……」
イゾルデは、開いた口を手でかくし、まばたきもしないでこちらを見つめている。
「いいの?……」
つぎに、頭全体を覆うマスクを持ち上げた。
顔についているときは、筋肉や神経をこのマスク自体が調整しているのであまり感じなかったが、手だけで持つとかなり重い。
マスクをしていた時、目は外に露出していると思っていたが、カメラのファインダーを覗いていたらしい。
マスクというより、カプセルだ……。
僕はかんぜんにマスクを外した。
彼女に素顔をさらす。
これがぼくの唯一のあかしだ。
「やめてくれーっ」
向こうに行っていたトキンが飛び込んでくる。
しかし、その時のぼくには彼女しか見えなかった……。
ぼくの顔をみて、イゾルデはいっしゅん笑ったように見えた。
「スキンマスクはどうしたの? トリスタン、あっちの方がイケメンだったのに」
話しながら、泣きだしている。
「少しブサメンでもいいけど……」
ぼくは涙は出なかった。
ただ彼女だけが、ほんとうのぼくを知っているんだ……、世界中で彼女だけが……。
「なんでマスクを外しったっすかっ! 信号が出てます、マズラ軍が攻めてくるっす!」
そうだ、……忘れていた……。
大変なことをしてしまった……。
どうしよう?