願掛け
「……、帰ってくれ」
その男は素っ気ない言葉を吐いて、青井出版社と書かれた看板を掲げる家の中へと消えた。私は実の娘ではなく、乗り遅れて来た家の買い手として扱われたようだ。
私を育ててくれたお父さんにもらった住所を訪ねて、会った男の人。冷たく突っぱねられたけれど、私を見たときのあの動揺。
間違いない、この人だ。私の中で確信が産まれた。
私を忘れたわけではないんだ。そうだ、お父さんがこの住所に手紙を送ってくれていたから。だから、今年の雪をまだ知らない神戸からこの雪深い金沢の土地まで、すっかり大人になった私がやって来ても、あの人は私を認識してくれた。くれたんだと思う。
だけどどうすれば、知らない人のふりを突き通そうとするあの人を振り向かせられるだろうか。その手段までは、私には与えられていなかった。
真っ白な雪に覆われた道の真ん中で、立ち尽くす。埋もれていく足元。体温で融けた雪が靴を湿らせていく。
あの人は私を忘れたわけではない。だけど、知らない人のふりをしようとしている。それは、あの人が私を忘れていなくても、私があの人を覚えていないということを見透かされたからだろうか。
残念ではあるけれど、たしかに私はあの人のことを覚えていたわけではなかった。私を見たときに見せた動揺を根拠にしても、それはきっと弱すぎる。途端に空しく思えた、結局私は自分を祝って欲しいだけで、あの人は私の中にいないのだろうか。
いや、そんなことは思いたくなんてない。
こんなところで引き下がりたくなんてない。
「宏明、メモ帳一枚破ってちょうだい」
宏明は旅先でも脚本のネタを思いついたらすぐに書けるように、小さいメモ帳を持ち歩いていることを思いだした。
私の中に、自分の本当の家族の記憶がないなんて思いたくない。
どんな小さな手掛かりでも、ここまで来たからには、それに賭けてやる。
鞄につけている、古ぼけたクマのぬいぐるみのキーホルダーの掛金を外す。思えば、これをもらったのはもう、二十年ほど前だろうか。入学して間もないころ、自分の下駄箱になぜか入っていたのだ。しかも「入学おめでとう」という短いメッセージとともに。それでいて、自分を育ててくれたお父さんやお母さんは、これにまったく心当たりがないということだったから。ずっと引っかかって、でもどこか温かくて。手放すことができなかった。
「そのぬいぐるみは大切にしていた――」
「誰が私にくれたのかもわからないから、捨てようにも捨てられなくて」
テディベアのような銘柄ではなく、顔のパーツのバランスや体色もどこか不格好だ。年季も相まって、お世辞にも可愛いとは言えない。
「正直好みじゃなかったけれど。私のことを祝福してくれる想いが伝わってくるようで。気持ち悪いとか、そんなことは全然思えなかったの」
‘ずっと前にこのぬいぐるみが、小学校の入学祝として、私の下駄箱に入っていました。私の大切な宝物のひとつです。でも誰が私にくれたものなのか分らなくて。また会いに来ますから。心当たりがあれば、もう一度この時間に。人違いだったらごめんなさい’
そして、最後に自分の名前を記した。‘青井碧’と。
自分のぶっきらぼうさは、このぬいぐるみを下駄箱に入れた人と、どこか似ているかも知れない。
だいたい、本当に人違いだったら、どうするんだ。大切な宝物ですと言っておいて、もしからしたら私は、全然知らない人のもとにこれを送り付けるのかもしれない。
だけど、ここまで来て何もせずに帰るよりは、何かをして帰りたかった。たとえ、何かをしでかしたとしても、何もしないよりはずっとましだ。出不精なくせに、そんな考えが奇跡的に思いついたのだった。
メモ帳を、まるでおみくじのようにキーホルダーに結び付ける。この気持ちがどうか届いてほしいと願掛けをしているようにも思える。
古ぼけた郵便受けにそれを入れた。明日の同じ時間。もう一度この場所に来て、あの人が私に会いたいと思ったならば、ここでもう一度会えるはず。
「随分思い切った行動をするな」
「目の前の事実に打ちのめされたり、不安になったりはもう飽きた。それだけじゃきっと後悔する。宏明は、私に言ったでしょ。ひとつも後悔なんて残すなって」
本当に明日、あの人は会いに来てくれるのだろうかとか。不安はとめどなく続くけれど。そんな徒労に終わるだけの不安で時間をつぶしたくはない。
「ねえ、宏明。金沢に来たことが前にもあったんでしょう? 美味しいお店、教えてよ」
「もう大丈夫なのか」
「もう、不安になるのは飽きたの。後悔は残すなって言ったでしょ? 美味しいお酒が飲めるとこがいいかな」
ちゃっかりしてるなと宏明は笑った。それならとっておきの店が駅前にある。そう言って、足早にバス停に戻ろうとするせっかちな背中。足元の雪を丸めて、追いかけて投げつけてやった。
「ったっ!」
「まだ時間はたっぷりあるでしょ! せっかくの街並みなんだからっ」
そこで早速お返しの雪玉が飛んできた。ダウンコートに砕け散る、さらさらとした真っ白な雪。いつかのスキー旅行と変わらぬやり取りをしてはしゃぐ。これからの不安とか、そんなことよりもふたりは恋人同士なんだ。その事実を思い出したかのように、しかめっ面を解いて寄り添った。手袋を外して、指と指を絡めるようにして。真冬の寒さを癒す温かな日差しの中、時が止った街並みの中を歩いていく。
軒を連ねる格子窓の日本家屋。中が雑貨屋になっているとある一軒ののれんをくぐった。金箔の装飾があしらわれた雑貨が、漆器をはじめにいろいろ並んでいた。中には金箔を全面に貼って金一色に光輝く扇子もあった。
「これなんか、殿様みたいだね」
「殿様というより成金商人じゃないか」
値段を見ると数万円もしていた。道に面したカウンターではなぜか金箔をまぶしたソフトクリームも販売していた。金箔の粉をまぶした程度のものから、ソフトクリームを丸ごと金箔で覆ったものまである。物珍しげな目で見ていると、宏明がカウンターのトレイに千円札を一枚出していた。
「金箔ソフトください」
「えっ、食べるのっ?」
着物姿の女性店員が気前よく対応している前で、思わず声が漏れてしまった。
「面白そうだし、いいだろ?」
店の中の喫茶スペースに腰かける。茶屋町というだけあって、屋内だけど赤い布の敷かれた椅子に、赤い傘がさしてある。よく見ると、傘の柄や、店内の灯篭なんかにも金箔の装飾が施されている。品物も内装も食べ物も金ぴかぴんだ。宏明の話によると、茶屋の赤い椅子は、床机と言って、傘は野点傘と言うのだそうだ。
「実は前来たときに見かけて、ひとりで食べるのが恥ずかしかったんだ」
「なにそれっ」
拍子ぬけた理由に思わず笑ってしまった。程なくして、縁台に着物姿の女性店員がやって来た。お盆の上に乗ったソフトクリームに金箔を被せる行程を、目の前で披露してくれるというのだ。箸で掴んだ金箔のシートをソフトクリームの表面に張りつける。ヘラで少し押しながら、ソフトクリームのとぐろを巻いている部分を金箔の皺で強調させる。
「すごいすごい」
「色物みたいな目で見てたのに、はしゃいでるな」
「こーいうの、自分じゃ絶対やらないから。知ってるでしょ? 天邪鬼なの、私」
プラスチックスプーンが二本ささって、私に手渡された金箔ソフトクリーム。
「先に一口どうぞ」
よっぽど楽しみにしていたのか、スプーンをとる彼の手つきが急いでいるみたいだ。スプーンはてらてらと輝く薄い金箔を破って、その奥のバニラの甘い香りのするソフトクリームをすくい取る。彼の口の中で金箔が歯に当たって、しゃくしゃくと固い音を立てる。不思議な食感がしそうだ。こちらもスプーンで金箔ごとソフトクリームをすくい取って口の中に運ぶ。金箔はしゃくしゃくとしていて、すこしだけ鉄に近いような、金属の匂いがした。だけれどそれよりも、ソフトクリームがかなりこだわった味だったのが驚きだった。
「お、美味しいっ」
思わず目を丸くする私に、「一番はしゃいでいる」と彼が笑う。そうまで言われたら、とことんはしゃいでやる。
「かぶりついていい? 私、はしゃいでるから」
仕方がないなと彼の目が言う。ソフトクリームで冷えた金箔が歯に当たる不思議な感触が、歯を伝わって来る。スプーンで食べるよりも、贅沢にかぶりついた方がずっと美味しく感じられる。まさしく贅沢品である金箔を口の中に入れてしまう、この感触が癖になりそう。
「うぅん」
唸りながら、口元についたクリームをティッシュで拭いながら。目を丸くする私を見て、彼も金箔ソフトにかぶりつく。彼はワッフルコーンの部分もがりっとかじった。
それからは、譲り合っているのか。どうなのか。でも、想像以上の満足感だった。
「宏明、ありがとう。私、宏明がいるから、後悔のない選択ができるんだと思う」
「大げさだな、ソフトクリームひとつで。でも俺も碧といると楽しいよ」
最後のひと口。ワッフルコーンの先の細まった部分を口の中に放り込んで、少し指先に付いたクリームを舐めた。
まだ、あの人の答えは聞けていないけれど。
まだ、あの人が本当のお父さんかどうかも、分かっていないけれど。宏明といると、すべての不安要素が、どう転がっても肯定できてしまえそうな気がする。だから私は、彼と結婚するんだ。あの人が、本当に自分の父親なら、それを心から伝えたい。