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分家  作者: 津蔵坂あけび
神戸編
6/10

プロポーズ

 Tシャツにジーンズを着たソバージュの髪の女性がふたり、頭の中で歌っていた。メリケン波止場で何故かそわそわしているのは、私だ。

 神戸で生まれ育った私には、このメリケンパークは、言わば最寄りの公園くらいに慣れ親しみのあるものだ。もちろん、最寄りの公園というほど近い距離ではないが。フリーマーケットや大道芸、ミニライブ。小さなイベントでもことあるごとに、家族や友人と来ていた。夜は、幻想的に光る神戸海洋博物館の屋根。そのわきにそびえるここのシンボル、紅い砂時計型のメリケンタワーには何回も登った。式はここで上げようと言い合った、神戸オリエンタルホテルのガラス張りの教会も見える。

 これまでだけじゃなく、これからも私の大切な場所になる。


 そして、おそらく今これから起こることも、このメリケンパークでの思い出に刻まれるんだ。


 そう思うと余計にそわそわしてきた。待ち合わせた場所は神戸海援隊の碑が立ち並ぶ海岸沿い。モアイ像ともよく間違えられているし、私もずっとモアイ像だと思っていた。彼に指摘されて恥をかいたのはいつだろう。そんな回想を巡らしていると、LINEの着信でスマートフォンが鞄の中震えた。


 少し遅れるだとか、そういう短い連絡はショートメッセージに特化したツールが便利だ。

 だから、内容は予想できた。脚本をもとにした劇団との話し合いが長引いたらしい。予想通り、待ち合わせの時刻である夜の八時より、少し遅れるという連絡だった。


 大事な約束なのに、容量が悪いのよ。


 流石にそう打って返しはしないけれど、心の中で悪態をついてやる。

 これから起こることはきっと最高なことなのに、いやだからこそ。


 イタズラ心が働いて。彼をバカにして。褒めたたえて。たまらなく愛しく思えて。思わずニヤけてしまう。きっとこんな私は不審者だ。海援隊の面々が私を遠目で見て、表情のない嘲笑を送っている。


 遠くに船の灯かりが見える。前のめりに柵にもたれかかり、行く先を目で追ってみた。夜の黒い波に浮かんで、ぼんやりゆらゆら揺れている。こちらに近づいて来るだろうかと思ったら、遠く離れていく。

 こんな寒い中、女性を海に待たせるだなんて。手持無沙汰になってしまった心がまた、イタズラ心に火をつけて、先ほどの一連の思考を繰り返しそうになる。ニヤニヤを押し殺すようにして、冷え切った手にため息を吐きかける。湿り気を帯びた呼気で温めた両の手をこすり合わせると、身体が寒さを自覚して震えあがる。


「ごめん、待った?」


 彼が現れたのは、約束の時間を十分弱過ぎたころ。

 思ったよりも早かった。ふたりのプライベートな用事なのに、このぐらいの遅刻で連絡をしてくるというところに彼の律義さが表れている。余計に好きになってしまいそうだ。


「う―うん全然っ。で、用ってなあにー?」


 少し甘えて語尾を伸ばして、彼に用件を尋ねてみる。彼はそれを電話では教えてくれなかった。だけど分かりきっていた。それでもサプライズが下手な彼に鈍感なふりをしてあげる。


「あ、あああ。うん」


 緊張している。わざと大きめなコートを羽織って、袖を少し余らせて手元が見えないようにしている。隠したつもりだろうけど、右袖に四角い箱の膨らみが見えてしまっている。思わず含み笑いが漏れそうになった。押し殺して、咳ばらいをしたタイミングで、向こうも咳払い。シンクロしてしまったせいで、緊張まで移ってしまった。


「……あの……?」


 俯いた顔を上げて、私の瞳の奥を真っ直ぐに見つめてきた。彼の熱が視線の矢を伝って私の胸に宿る。互いの鼓動が鼓膜をノックしているみたいに響くようだった。ひとたび口を開いたきり、黙りこくってしまった彼。もうひとつ咳払いをすると、じれったいなあと船の汽笛が遥か遠くから。


「み、碧っ……」

「は、はいっ」


 こちらの緊張は必要なんてないのだが、完全に彼からもらってしまって、無意味にどもってしまう。辺りに響く音は、瀬戸内の穏やかな波の音のみ。この世界にふたりだけのような不思議な空間で、時は動き出す。


「目をつぶっていてくれないか」


 お望み通りに瞼を閉じる。かぱりとバネ仕掛けの箱を開ける音がした。温かい彼の指が、私の冷たい冷え性の指をほぐすように伝う。ひんやりとした金属の感触が薬指に。肌にあたる感触が控えめにあしらわれた宝石の存在を教える。思わず口角が釣り上げられてしまう。


 どうしてだろう。想像なんて出来ていたはずなのに。どうして、そんなのをいとも簡単に越えてしまうのだろう。


「開けていいよ」


 視界に飛び込んできたのは銀色に光り輝く指輪。目立ちすぎないように、でもはっきりと主張するダイヤモンドはカタバミの花のよう。自分の視線で手の甲から指先を撫でて、薬指を見つめて、思わずうっとりとため息。


「ありが……とう」



「うれしい」


 唇が感情に従順なロボットのように、言葉を紡ぎ出す。先ほどまで彼に向かって、心の中で悪態をついていた天邪鬼とは別人のようだ。


「すまない、遅くなってしまった。待たせてしまってごめん」

「うーうん。いいの」


 彼がそこまで金銭的に豊かなわけではないことも知っていた。大事なことに限って慎重になりすぎてしまう優柔不断なタイプであるところも。きっとこの指輪も、悩みに悩んで決めたんだろう。そんなことを考えていると、目の前にいる彼が余計に愛しく思えてくる。


「改めて、これからも……、碧の傍でいさせてほしい。聞き入れてくれるかな」


 私はそっと告白を終えた彼の手を引き寄せて、指と指を絡み合わせて強く握りしめた。彼の温もりをじんわりと手の平と指の腹で味わうようにして。


「言ったでしょ? この場所で式を挙げようって。結婚を前提に付き合ってるって、親にも言った。ねえ、知ってるでしょ? 私とあなた、ふたりの想いはずっと前から薬指に輝いていたのよ」


 そう。私の薬指には今、重ねられるようにしてふたつの指輪が。


 ひとつは彼が今日くれた婚約指輪。もうひとつは恋人同士の証としてはめあった、サイズもあってない不格好なシルバーリング。ふたつの誓いの指輪は、そっと私の薬指を伝って互いの意味を交換したんだと思う。憧れのままに寄り添い合うふたりから、ともに支え合いながら歩んでいくふたりへと。


「だから、返事はこれで」


 手を解くとともに、つま先立ちになり、背伸びする。拳ひとつ分高い彼の肩に縋り付く。首筋を引き寄せて、彼の唇に私の唇をゆっくりとあてがった。戸惑いが彼の頬を紅く染める。


「み、碧……」

「宏明、よろしくね」


 互いの唇が離れた後、彼の顔を上目遣いで見つめる。狙い通り、狼狽えている。


 彼が私に想像以上をくれたから、こちらも与えたくなってしまったんだ。




「ああ。よろしく」




 私たちふたりは着実に夫婦に近づいていた。私は着実に黒石碧から、萩野碧に変わろうとしていた。でも、そのことが向き合わなければいけないもうひとりの自分を自覚させる。そして彼の言葉も私に、その存在を強く意識させるものだった。


「……、なあ、一昨日も話したけれど」


 そう、その存在を知ったのは一昨日だった。

 母親の鏡台、一番下の引き出し。中に入っていた青いカーボン写しの‘もうひとりの自分’。


「俺は、碧の本当の父親にも、碧を祝福して欲しい」


 青井碧。私の知らない私。


 知った瞬間、戸惑ってしまったけれど。もう戸惑ってばかりじゃいられない。薬指に輝くふたつの指輪は、私にそれを教えてくれた。――私に真実に向き合う勇気をくれた。


「ええ、そうね。見つけましょう。式までに必ず」


 恋人から夫婦へ。私が萩野碧になる。


 その瞬間は、私の人生の中の二度と戻らない、ふたつとない一瞬なのだから。たとえ私が顔を覚えていなくとも、見逃させるわけになどいかない。


「私の本当の父親、青井明朗さんのことを」


 私たちふたりは向き合って、お互いの決意を確かめ合うようにゆっくりと頷いた。



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