下手くそ
元町の百貨店から湊山町の自宅までの十数分の車内。相も変わらずアバの曲が流れていたが、頭の中では彼女が震えた声で口にした‘青井明朗’という男の名前が反芻されていた。今まで自分が本当の家族だと思っていた人たちと血が繋がっていないということが分かる。
そして、紙面に書かれた誰とも知らないその男が本当の肉親だと。彼女が事実に戸惑うのも充分に頷けるが、ある意味自分がその事実と離れた場所にいるからこそ思う。戸惑うばかりでは、人生で最も大事な一瞬を逃してしまう。それは彼女にとっても、彼女の父親にとっても同じことのはずだ。何度も反芻し、同じ答えにたどり着く。
だが、どうすればいい? どうすれば、彼女は本当の父親に会える? 青井明朗は、この世界のどこにいる?
考えてみても答えは分らない。挙式まではまだ時間はあるが、それが十分かどうかは分からない。だいいち、どれくらいの時間があれば足りるのだろう。アパートの鉄階段を固い革靴の底でかんかんと打ち鳴らす。自分の部屋のドア。郵便受けから新聞がはみ出ていた。おもむろに引き抜いてみる。本来なら家の中から取り出すのだが、こうもはみ出ていては外からの方がかえって取り出しやすい。ちらりとテレビ欄が見えた。今日は野球中継があった。タイガースとジャイアンツの試合だ。
やかんでお湯を沸かし、テレビをつける。ちょうどキャッチャーがピッチャーの送球を待ち構えていた。バッターもピッチャーを睨み付け、臨戦態勢だ。ちなみにどちらを応援しているとかは特にない。まさに、流し見という状態だ。おまけに今からノートパソコンを開こうとしているのだ。
ついにBGMと化してしまった試合。勝敗の行方よりも、興味は情報の海へと漕ぎ出しつつある。検索エンジンに‘青井明朗’と入れてみる。これでヒットすれば‘ご都合’だ。しかし、そこまで‘ご都合’だろうか。務めている会社の中である程度の重役ならば、名前が公開されているはず。個人事業や自営業なら尚更。FacebookなどのSNSに本名を公開している人だっている。可能性がないわけではない。
Enterキーを押した。
青井明朗という名前はかかってこなかった。昔、祖父の実家の東北で釣りをしたときに‘根がかり’を経験した。それに似た空しい感覚がマウスを握りしめる右手を伝う。思わずため息が出た。
そんな都合よくないか。
心の中でそう呟く。やかんの笛が鳴った。
コーヒーのドリップパックにお湯を注ぎ入れる。下のマグカップに香り高いコーヒーが淹れられる。思わず鼻孔を広げて大きく息を吸い込む。甘美な香りが一瞬だけ、気を紛らわせてくれる。でも一瞬だけだ。すぐに自責に襲われる。
もし、このまま何もできないとしたら。
才能はあるとしても遅筆だった。優柔不断だった。メリケンパークの式場に決めたのは彼女の提案。今日の抜き打ちデートは、碧の顔が曇っていたから。彼女を喜ばせたかった。彼女が困っているとき、相談に乗ってやりたかった。何も考えられない純粋なデートの間に。なのに。結局、当たり障りのない答えしか出せなかった。自分だけが、自分だけが彼女にしてやれることは。婚約指輪のないまま両親にご挨拶を。彼女の父親は、自分と同じ脚本に携わる仕事を。下積みの苦労を理解していた。結婚式の資金を一部肩代わり。婚約指輪だけは自分のお金で買いたい。待ってくれ。待ってくれた。彼女は、待ってるからと笑ってくれた。
なんだ。これじゃ。こんなんじゃ。彼女に甘えてしまっている。
再びパソコンに向かった。青井明朗という名前はやはりヒットしていない。捜索願を出すわけにもいかない。音信不通と言うのは行方不明とは違う。それで、騒ぎ立ててしまえば彼女の心をかき乱してしまう。戸籍、そうだ。青井明朗の身元を確証するもの。青井明朗と碧の関係性を示すもの。それさえあれば。それはどこに――
『……私の養子縁組届が見つかった』
あるじゃないか。彼女の家に。
*****
西宮市にある広告デザイン会社。そこが私が勤める会社だ。職場にはもう結婚のことは調べた。宏明は脚本を提供している劇団の人には伝えたんだろうか。いや、結婚式のころには、また別の劇団に提供しているかも知れない。まだ連絡はしていないだろう。
パソコンの画面でイラストレーターを動かしながら、そんなことを考えていた。ポップアート、色彩検定、劇団の舞台設計をやりたくて資格を取ったりしながら、明け暮れた演劇サークル。私と宏明が出会った場所。私は今こうして、そのときの経験を別の形で使っているが、彼は今も私の夢を追いかけている。そう、あの頃からずっとずっと、彼は私の生きる場所。
「な~に、その独創的なデザインは……」
「うわぁっ!」
後ろから肩に顎を乗せられて、思わずびっくりしてしまう。そして、自分が上の空で描いたモニター上に映る奇妙奇天烈な抽象画に思わず苦笑い。話しかけてきたのはこの会社の同僚社員である如月亜美。芸術大学の出身でどこか能天気。
「ま~た惚気でもしてたんでしょ」
何かにつけて、そうからかってくる。
最初は煙たく思えたが、もう慣れてしまった。それに、図星だ。
「してないしてない」
適当にそう返事するものの、自分で自分が紅潮してしまっているのが分かる。
演劇サークルで、自分が進んで裏方を選んだ理由はこれだ。私は演技が下手だ。ふとパソコンデスクの上で、スマートフォンがバイブで踊る。わずかに傾いた机の上をゆっくりゆっくりと滑り落ちてゆく。三歩ほどスマートフォンが歩いたところで電話を取った。着信画面には、彼の名前が。
私はデスクを外し、廊下に出てから電話に出た。
「もしもし」
スピーカーから彼の声が聞こえる。彼の仕事は忙しいか忙しくないかを自分で決めることが出来る。とはいっても、だいたいは私より忙しい。そんな彼が平日の昼間に私に電話をしてくるのは、少し珍しかった。彼の声の向こうから昼間の百貨店独特のまばらな活気が漏れ聞こえて来た。
「ようやく決まったんだ」
「何が」
「遅れていたもの」
「何のこと」
条件反射的に問い返して、数秒だけ待って勘付いた。
「待って、言わないで」
「言うとでも思ったか」
意地悪な答えが返ってきた。
要件は、夜の八時にメリケン波止場。それを聞いただけで嬉しかった。
下手くそ。
心の中で彼に悪態をついてやった。でも……、たまらなく、嬉しかった。