宏明の思い
改めて思う。彼女はどんな趣味をしているのだろう。服の趣味はあまり着飾らないものが好みだ。演劇サークルでも裏方の装飾に凝っていた彼女らしい。
今、吟味しているものは、百貨店のジュエルコーナー。宝石をあしらった指輪を、ガラスケースを食い入るように見つめる。学生時代に彼女に渡したものは本当に粗末なものだった。彼女に言った通り、三ノ宮近くのシルバーアクセサリーショップで数千円の同じ指輪をふたつ購入して、真似ごとをしながら嵌めあったもの。メンズショップで選んだものだから女性の華奢な指には不格好だ。それでも彼女は、噛みしめるように自分の薬指に鈍く光る銀の指輪を見つめていた。
そして今日、元町を一緒に歩いているときも。今まで彼女は欠かさず、あの不格好な指輪をつけてくれている。
改めて考えてみる。彼女が好きなものを真剣に考えたことが、自分にはあるのだろうか。
いや、ないわけではないが。充分かといわれると口をつぐんでしまう。まず、何を以って充分とするのか。いつも不格好なシルバーリングと、不格好な古ぼけたクマのぬいぐるみのキーホルダーがついた鞄を持っている。彼女なら何でも喜んでくれるんじゃないのか。でもそんな考えでは、彼女に甘えてしまっている。
それはもう終わりだ。籍を入れるための手続きも進めている最中だ。ウェディングドレス、式場の準備も始めている。ふたりの関係に新たな一歩を踏み出すためにも、慎重に選ばなければ。そう、慎重に。
「お客様。随分と慎重なのですね」
いきなり女性店員が話しかけるものだから中腰にして折り曲げていた背中がばねでも入れられていたかのようにびくんと跳ね上がった。ピンヒールの不安定な足元がふらついてよろける。苦笑いが上目遣いで向けられた。
「失礼ですが、閉店時間が近づいてございます。当店は午後九時閉店でございまして」
入店した時点で八時を過ぎていたのだから、時間的余裕は皆無にも等しい。にもかかわらず考え込んでしまったようだ。
「失礼いたしますが、婚約指輪をお探しでしょうか」
歳は若いがこの仕事にやりがいを感じているのか。声色にマニュアルからそのまま持ってきたかのような無機質な感触が感じられなく、生き生きとしている。プライベートに詮索する話題が多い職業。だが、それに関する警戒心というものを柔らかい笑顔と明るい声色が打ち砕いてくれる。あまり着飾らないタイプの女性だ。閉店前の数分なのに、半ば惚気話をしてしまった。
「あ、あの。あまりお力にはなれなかったかも知れませんが、よろしければこちら当店で取り扱っている商品の無料カタログでございます。今日は生憎……もう閉店時間でございますので」
いかにも話したりないけど残念だという表情と口調で話す。閉店時間ぎりぎりまで居座ったこちらを追い出そうという風には全く聞こえない。
「ありがとうございます。また来ます」
「はい。お待ちしております」
頭を下げてお辞儀をした後、顔を上げてにっこりと笑いかける。
百貨店の薬局・化粧品コーナーとの仕切りを示す、茶色の木製タイルとアイボリーカラーの大理石タイルの境目。それを跨ぐと同時に、店員が一言。
「今度ご来店の際は決まっているといいですね」
振り向いて、もらった無料カタログを額に翳しながらお辞儀を返す。閉店時間を数秒過ぎたところでゆっくりと金属の網シャッターが下ろされ、閉店時間十時の薬局コーナーと分断された。店員は閉店準備と売り上げ計算に勤しむだろう。
喉が渇いた。お茶でも買って帰るか。
心の中で呟いて、冷気が上下から吹き付ける商品棚のペットボトルたちの肩をなぞる。途中で気が変わって、スポーツドリンクを買った。喉の渇きが店内のきつい暖房のせいで強まったようだ。
渇いた喉に流し込みながら外に出た途端、冷たい風がびゅうと吹き付ける。ホットドリンクにしておくべきだったと後悔したが、すぐに車に乗るわけだ。寒い冬の風にあたる時間は限られている。半ば飛び乗るように車の中に駆け込み、白い息を吐きながらエンジンキーを回す。年代物のジャガーが良い感じに古臭い音色と振動を醸し出す。彼女には、あまりこの快感が伝わらないらしい。
ハイブリッドカーの方が君は良かったか。
サイドシートに向かってそう聞いたとき、彼女は「あなたが喜ぶのが好きだから、この車も好きだ」と。映画みたいな台詞を言う彼女だ。エンジンと社内が温まるまでの時間を、カーステレオから流れるアバのマンマミーアを口ずさみながら待つ。乾燥した車内で鼻歌を歌ったせいで渇いた喉に、もう一度スポーツドリンクを流し込む。
そこで着信音が間奏に割り込んできた。音量つまみをマイナス方向に回してスマートフォンの画面を見やる。彼女からだ。耳にスピーカー部を押し当てる。
「宏明……、今……。だい……じょう……ぶ?」
電話の奥の声が動揺しているように震えていた。
「どうしたんだ?」
「……すこし、安心したくて」
うやむやな返事だ。声を聞けば安心するから。そんなのは彼女の理由であっても、こちらの理由にはならない。
「碧、何があったのか正直に話してくれ」
「――あなたには持てあますかもしれない」
彼女がそう思ってうやむやな受け答えをしたのは、声色だけで分かってしまう。だから、彼女をそうさせるものを知りたかった。
好奇心は猫を殺すという言葉がある。彼女が母親の化粧台の引き出しを開けてしまった好奇心がそうならば、彼女に電話をかけた本当の理由を尋ねた好奇心もまた然りだ。
「……私の養子縁組届が見つかった」
「……、なに?」
頭の中の演算素子がショートを起こしている。言っている意味は分かる。恐らくその事実が紙面に印刷されて、これを脚本にしてくれと言われていたならすぐにでも理解できただろう。
だが、それが舞台やドラマになっても、リアルになるのは理解の範疇を越えてしまっていた。
「本当なのか?」
「どうしたらいいか分らなくて」
どうしたらいいか分らないのはこっちもそうだが、それをぶつけたのでは彼女が相談したのを門前払いするようなものだ。
とりあえず落ち着いて。冷静に。
電話を持つ右手が震えて、医者の不養生だと笑っている。
「家族はなんて言ってた」
「なにを……?」
「碧の本当の父親のこと」
そこで彼女が黙り込んだ。ようやく温まってきた車内に冷たい静寂が電話のスピーカーから送られてくる。暖房が利き過ぎた。そんな理由じゃない汗が首筋を伝ってシャツの襟の中に忍び込んだ。控えめにごくりと生唾を飲み込むと彼女の深呼吸が聞こえた。
「……教えてくれた」
「何をだ?」
「……誕生日よ。私の誕生日。お父さんとお母さんに。碧を必ず祝ってくれ。絶対忘れるなって。――それから音沙汰は無くなっちゃったみたいだけど」
「三月二十二日。私の誕生日をお父さんとお母さんに教えてくれた」
それが彼女が教えてもらった、本当の父親の最後の会話だったのだという。
それから、彼女の本当の父親、青井明朗の姿を誰も見ていない。でもその会話は、決定的な証拠だった。彼女が捨てられて養子になったわけではないということを示す証拠だ。青井明朗は望んで娘を捨ててなんかいない。
「碧は、愛されていたんだね。三人の親に」
「……。ええ。そうね……」
だから、その言葉が思わず口をついて出た。
「なあ、碧。お父さんを結婚式に呼ばないか」
「な、何を当然呼ぶに」
「碧の本当の父親もだ」
再び電話の向こうで彼女が黙りこくる。
「……、す、すまない。急ぎ足過ぎたか」
「ううん、……ありがとう。聞いてくれて。ごめん。……ひとりで……整理させて」
「ああ。……おやすみ」
そこで電話が切れた。――混乱させてしまったか。妙な後悔に襲われた。
ため息をひとつつく。もう白い煙にはならない。カーステレオの音量をさっきよりもぐんと上げて気を紛らわす。頭の中で花嫁姿のソフィアが舞台の上で歌っていた。ソフィアも父親のことを結婚式直前まで知ることがなかった。そして父親が自分の結婚を祝福してくれることを強く望んでいた。
……。やっぱり、同じ気持ちだ。
彼女の本当の父親がいない結婚式なんて、考えられない。