明かされる真実
ひとしきり泣いた。床に敷いたカーペットに涙の染みが出来ていた。どうして泣いてしまったのだろう。分からない。床に転がる自分の身体でさえ許容できない事実は、薄っぺらい紙に書かれた、‘青井’という苗字。たった二文字に集約されていた。
私は、黒石家に生まれていない。
お父さんは、お父さんじゃない。
お母さんは、お母さんじゃない。
黒石秀人も、黒石好美も家族じゃない。――私の家族は、私の知らない人。
最後に書かれた、聞いたことのない名前。青井明朗という男性。
私は、本当の父親の顔を知らない花嫁。
マンマミーア。私はあのとき高校生で、観客席から演者に拍手喝さいを送っていた。それが気が付いたら、自分が舞台に立っていた。それも自分は、ソフィアだった。
マンマミーア。それ以外に言葉が出なかった。
カーペットに自分の顔の型がついている。ナイロンの人工毛糸を撫でながら、自室のついていない液晶テレビを一瞥。虚無の表情を浮かべる自分が見える。背後では目覚まし時計が八時半を指している。きっと泣いていたのは、限りなく永遠に似ているほんの一瞬だったのだろう。立ち上がる。少しふらつく。目の前に臆病な自分がいて、自分の肩を抑えつけようとしているのが見えた。今だって、背後のベッドに倒れ込んで眠ってしまいたい。そして永遠にドアをノックし続ける時間に居留守を使いたい。
でももう、時の向こうで赤い絨毯が待っていた。
ふらつく。足取りが重い。
自室のドアから二階の廊下に出る。そんな簡単なことが物凄く怖い。夜のトイレを怖がる子供のようだ。これから足を踏み出すのは鏡の向こう側。すべてが同じで、違う。そんな世界のように思えた。これから母親じゃない母親に会って、父親じゃない父親に会って、娘じゃない娘はどんな顔をすればいいのだろう。分からないけど、分らないまま階段を一段ずつゆっくりと踏みしめて私は降りてゆく。
「碧……」
あと残すところ三段で、母親。もとい、黒石好美に私は呼び止められた。
「……か……。お母さん」
言葉に詰まる。母も私の名前を呼んで、その続きを何も言えないでいる。――でも恐らく、黙秘権は効果をなさない。それは私だけでなく、母だって知ってのことだろう。女性とはいえ、大人ひとりが倒れ込んだ音が聞こえないなんてことはあり得ない。なにより、私の目は泣き腫らしている。何か大切なことを知ってしまった。たまたまテレビをつけたらこのシーンだったとしても、誰もがそうとわかるようなものだった。
「……。見たの……?」
「……。そう……」
普段は笑顔を絶やさない母親が、頭を垂れている。難しい顔をしている。私だって項垂れて、目下の玄関から伸びる廊下のフローリングしか見れていない。きっと私には、もうふたつ目があって、天井と床から母を見ていた。
「産んでないのね」
フローリングに映った薄い影の頭部がわずかに上下に揺れた。階段の一段一段が物凄く高く思えたが、ゆっくりと母のもとに歩み寄り、重たい鉛の頭を上げる。母と目が合った。普段の笑いじわが、眉間に引っ越していた。私の知らない母の顔だ。
「……、私はこの家で産まれていない。父親も本当は違う人」
家族に隠し事は駄目だからと、こんな重大な秘密を打ち明けるなんてこと、簡単にできるわけがない。それは分かる。だから、それに関して母を責めることはしない。――なんて言えたらいいのに。私の口はその四文字を呟かずにいられなかった。
「どうして」
母はすぐには答えずに、私を食卓に座らせた。BGM代わりに流しているテレビを消す。ドラマの役者のセリフが途中でぶち切られた。時を刻む針の音が聴覚世界を支配する中、母はキッチンで水を飲んでいた父に耳打ちをする。目の前で父の顔が曇った。椅子の脚を床にこすり合わせる音が二回響く。父と母は、それまで私が見たことのない顔で向かい側に座った。家族のふたりが‘他人’のように見えてしまった。
私が唾を飲み込んだ。
母が聞こえないようにため息をした。
父が水が入ったグラスを持ち上げ、口に運ぶことなく再びテーブルの上に置いた。
玻璃の中で水面が振幅を弱めながら三度ほど揺らめいたところで、父がため息交じりに話を切り出した。わざとらしく咳払いをし、下を見て左を見て、私の目は見ない。明後日の方向に視線をやったまま、顔の前に手を組み合わせ、唇から言葉を捻りだす。
「その……。すまなかった……」
口を開けるときに、唇同士が離れる舌打ちに似た音が出る。
躊躇いの音。
でももうその躊躇は、優しさになってくれない。それを父も分かって覚悟を決めたのか。組み合わせた手を解いたのだった。
「碧を養子にもらったのは、お前が二歳のときだ」
二歳。今から二十三年前。
物心もつかない頃に、私はこの家にやって来たということになる。本当の父親の顔も覚えていない。自分が家を移ったという感覚すら覚えていない。
「こんな大事なことを今の今まで、それもお前が花嫁になるときまで、黙っていて本当にすまなかった……」
椅子に座ったまま、額をテーブルの天板に押し付ける形で頭を下げる父。叱り役だった父が、私に向かって頭を下げるだなんて。そんな父親に対して、見知らぬもうひとりの父親のことを尋ねるのは、複雑な気分だ。
「ねえ、私の本当のお父さんってどんな人だったの」
「碧、あなたのお父さんは、あなたを捨てたのよ」
「好美、やめろ」
もう自分はこの家の人間なのだから、忘れろと言いかけた母を父が制止する。
「でもあの人は、そう言えって」
「だとしても、それは碧のためにならないだろ」
母も本心では言ってなかったということが分かって、ほっとした。父の言う通り、自分が今は家を移ったからと言って、かつての本当の父親を忘れろと言われるのも、悪く言われるのもいい気はしない。
「お前の父親、青井明朗とは親友だった。――お前を預かってからは、音信不通になったがな。自分は娘を捨てたと言ってくれなんて言うぐらいだ」
「養子縁組の手続きの後は、どう頑張っても手紙や電話をよこしても、連絡がつかなくなってしまった……」
父と母の様子から、自分が養子になったのには何かやむを得ない事情があったことが読み取れる。養子縁組届の手続きの際には、多額の借金から経済的に子供を育てることが苦しかったということを理由に挙げていたと。
「もちろん向こうから連絡がきたこともない」
その言葉を聞いた途端、安心していた自分が突き落される。事情があって私を養子に出したのは分かる。でもどうして、今まで私にも、目の前の養父と養母にも連絡を一切よこさなかったのか。
やっぱり、私は捨てられたのか。
肩を落とし、ため息をついた私を父はそっと諭した。
「……。大丈夫だ。お前は捨てられてなんかいない」
養子縁組の手続きが終わって、私がこの家に住むことになったときのこと。父が青井明朗の姿を見た最後の日。彼の顔を不安げに見上げる幼い私の肩を静かに抱き寄せ、「ごめんな」と呟いた。そして、父にこう言ったという。
「誕生日は、三月二十二日だ。必ず忘れずに祝ってくれ」
それから父は、青井明朗の声を聞いていない。今の彼の行方は誰も知らない。