秘密
車の助手席に座る。彼がエンジンキーを回すと古くさいエンジン音が鳴る。シートベルトを締めて、車に入るときに少し濡れた髪をハンカチで拭う。湿気をまとっているせいで変な癖がついてしまっている。櫛を通してみるが、しっくりこない。シートがエンジンの振動を身体に伝え、エアコンから暖かい風が流れる。それとともにカーステレオからABBAのダンシング・クイーンが流れて来た。
「今日は寒いな」
そう言って、ワイパーとウィンカーを間違える。背伸びして中古の外車を買うからだ。そう笑うと、この九十七年式ジャガーとの運命的な出会いを話される。一目惚れだった。その話は三回目だ。俺は何回話しても飽きない。
「それはそうとこの曲は?」
「マンマ・ミーアのサウンドトラック。実質上ABBAのベスト盤だ」
「私も好き。そのミュージカル」
彼とよくする話は映画やミュージカル、音楽などの娯楽・芸術。語りだすと止まらないし、彼個人の意見や批判も入ったりする。大学のときの知り合いはそれがウザったいなんて言ってたけど、私はそうは思わなかった。降りしきる雨の中、川となった道路の水を巻き上げながら、海の方に向かって車は走る。車内は、劇団四季の話題で盛り上がる。私たちの気が合ったのは、他の皆がしないような、そういう話しかできない人同士だからだろう。
「でもちょっと複雑な気分になるかな」
「どうかしたのか?」
「マンマ・ミーアは、結婚式の直前に花嫁が自分の父親候補の三人に手紙を送るところから始まる。最後はハッピーエンドだったけど。花嫁のソフィが20年もの間、父親を知らないでいたということは事実」
気が付くとそんなことを言っていた自分に、気まずくなってしまう。私は昨日の父と母の態度を、頭の中で何という話に飛躍させていたのか。きっと思い違いだ。そう胸に言い聞かせる。
「どうかしたのか」
「え?」
「浮かない顔してる」
「そ、そうかな……」
「笑えないなら、今日の試着延期してもいいんだぞ」
「そ、それは流石に悪いよ」
取り繕っても彼にはバレるのか。でも彼が忙しい最中取ってくれた休みを無駄にするわけには行かない。顔に出たらすぐ様彼は、今日予約を入れていたドレスショップにキャンセルを入れるに違いない。
「あ、すみません。今日予約を入れていた萩野ですが」
「ちょっと」
ハンドルに手をかけながら信号待ちの一瞬で電話をかけ、イヤホンマイクで応答する。彼の行動の速さに慌てている間に、今日の試着はキャンセルになってしまった。今日は一応そのつもりで、いつもは適当に済ませていたメイクをきっちりとしてきたのに。
「なんでキャンセルに!」
「本番もそんな顔でドレス着るのか? それに髪の毛もこの雨のせいで纏まってない」
「で、でも……。そんな些細なことで」
「人生に一度しかない舞台を些細までこだわって何が悪い」
昨日の出来事が頭の中にべったりと貼り付いて、それしか考えられないでいる。笑顔は紙に描いて貼っつけたようにペラペラで、その下の顔はこわばっている。全部バレてしまった。
「でも今日の空いた時間はどうするの?」
「最後の恋人同士のデートってのもいいかもな」
そう言って彼は、カーナビの指示を無視して交差点を真っ直ぐに通り過ぎた。その先の交差点を右折する。中国風の装飾がされた丹色を基調とした鮮やかな門がビルの間に挟まれているのが見える。――西安門。南京町への入り口だ。近くの駐車場に車を停める。
地元の観光地には行かないものだとはよく言ったもの。南京町に来たのは本当に久しぶりだ。「乗っていてくれ」そう言って、運転席のドアを開けて、後部座席から傘を二本取り出して、助手席に回り込む。
「もう、私はどこのお姫様?」
彼は濡れて垂れ下がった前髪をかき上げて、私に傘をさして助手席のドアを開けた。
彼の傘の中に入り、そのまま勢いに任せて右肩に顎を乗せて抱き寄せる。ありがとうと囁きかけると彼は笑った。
中華街の中を彼と一緒に傘を挿して歩いていく。途中彼はふらりといなくなって、戸惑ってしまった。すると後ろから肩を叩かれてびっくりして振り返る。
「これ好きだろう?」
彼はいつの間にか‘ねじねじ’を買ってきていた。もとは長崎中華街で売っている中華菓子で、麻花兒というらしい。‘よりより’という呼び方もあるが、‘ねじねじ’という方がしっくりくるので、そう呼んでいる。家族そろっての大好物だ。
内側に油のべたべたとついた袋を開けて、小さく折ってから口の中へと放り込む。香ばしい油の香りは少しくどくもあるが、それに絡むほのかな甘みが癖になる。がりっと噛めば口の中にドーナッツを凝縮したかのような味わいが唾液とともに舌の上で踊る。至高の味わいというより、一種の中毒。病みつきになる味だが、ビックリするほど高カロリーなものなのでひと口ふた口でとどめておく。
「今日はここに入るか」
ひしめき合っている中華飯店の中のひとつに入って昼食をとると。てっきりこのまま食べ歩くと思って、早々と‘ねじねじ’に手をつけていた私。この雨の中でか。彼が傘にできてしまったせせらぎ、それから続く滝を内側から指さして笑う。確かに、晴れの日なら食べ歩きに限るが、こんな冷たい雨の降りしきる冬の日は、中でゆっくり食べる方がいい。
年季の入った木製のドアを開けるとカランコロンとドアベルが鳴る。中からは中華飯店独特の油の香ばしい臭い。湯気と少しのニンニクの香り。飛び交う中国訛りの日本語と、厨房で行き交う中国語。大学時代の第二外国語は中国語だったが、今となっては全くわからない。席に着くと中国人の店員がメニューを渡してくれた。中国語で書かれたメニュー。読み仮名がカタカナで書かれているが、たまに間違っている。
チンジャオロースと酢豚、そして炒飯を頼んだ。炒飯を頼むと卵スープがついて来る。炒飯は一個しか頼んでないのに、気を利かして二杯卵スープがついてきた。
「これはタダだから、おふたりさん」
にかにかと笑いながら厨房へと戻っていく中年の女性店員。少し温かい気持ちになって、蓮華で卵スープを掬って食べた。口の中でほろほろと卵が解けていく。――美味しい。
お土産の中華菓子をいくつか買って、少しだけ家の方向に戻る。三宮センター街、喫茶店に入ってコーヒーゼリー。彼のコーヒーはゼラチンで固まっていない。夢中で話した。
昨日のことなんて忘れていた。思えばこんなデートはいつぶりだろうか。
テーブルの下で大学生時代に彼にもらった銀の指輪をそっと撫でる。彼曰く、その辺のシルバーアクセサリーのショップで買ったもの。結婚するということだけを考えて、右手の薬指に輝く指輪の意味を、私は忘れてしまっていたような気さえした。
「話す気になったかい」
少し表情が柔らかくなったのを見定めてか。私についにその質問が飛んできた。
「……でも、笑われそうで」
「馬鹿言うな。深刻な顔してた」
彼がドレスの試着を取りやめたのは、行き過ぎた判断と思ってしまったが、どうやら行き過ぎていたのは私の顔の歪み様の方らしい。それから正直になって話した。包み隠さず全部。彼は笑うことなく真剣に聞いてくれた。いっそ笑い飛ばしてくれたらいいのにと思うくらい真剣に。
「思い過しかもと言って思い悩むなら、思い過せてないじゃないか」
ああ。そうだ。でも、そうだ。
自分で自分に言い聞かせてどうにもならないなら、俺が言ってもどうにもならないだろう。まったくそのとおりだ。
でも結局、親としっかり話した方がスッキリするという結論に至った。合点は行くし、自分はそれ以上の解決策があるとは思えない。――だが気まずい。今日の朝も両親とはろくに話せていない。父親が「昨日はごめんな」と声をかけては来た。しかし、声色が壁をつくっていて、その向こう側を詮索するなと言っているようだった。そこで私は当たり障りのない返事を言ってしまった。そこに壁があることを読めていながら。
「分かったか。大事な日なんだから。どんなわだかまりでも式まで持ち込むんじゃない」
私が笑えないでいるのは、その壁の向こうから手を引いてしまったから。意気地なしのせいだ。でも、胸騒ぎがする。白か黒か分らないものが白だと分かればいい。でももし、黒だと分かってしまったら。私は、もっと笑えなくなるんじゃないだろうか。
「大丈夫。大丈夫だよ」
彼が少し口を歪ませてからそう言った。言葉が尽きて、最後にそういうしかなくなったのだろう。分かっても彼を責める気にはなれない。この意気地なしの背中を引っぱたいてくれる言葉を誰かがみつけたならば、誰でもいいから私に投げつけて欲しい。そんな他力本願な気持ちだった。
それから映画を見に行った。字幕を張り着いてみるのは疲れるから、邦画にした。
有名な女優が和服を着て愛を囁く。面白かったが、ポップコーンには合わない映画だった。ふと横を見やる彼が寝息を立てている。お金の無駄でしょ。小声で呟いて、冷たい手の温度をお見舞いしてやった。跳ね起きて子犬のような目をした彼にくすりと笑う。エンドロールが流れていた。
オムライスと少しのワインを晩餐に。家に着いたのは八時を過ぎたころ。楽しかった。こんな楽しい日々が続いたら、私はきっと、あっという間に太ってしまうだろう。食べ過ぎたお腹を撫で下ろし、家の玄関扉の前に立つ。彼と別れてから足取りが一気に重たくなる。今日は歩き疲れたというのもあるが、何よりもまだ決心がついていない。
「ただいま」
ぼそりと呟くようにしてドアを開ける。父も母も迎えに来ない。せっかく中華菓子。それも大好きな‘ねじねじ’を買ってきたのに。へそを曲げながら靴を脱いでいると奥の居間からひそひそ話が聞こえて来た。
「なあ好美。俺は正直に話した方がいいと思うんだ」
「でもあの子は今、花嫁になろうとしているのよ」
「だからだよ。これを逃してみろ。あの子は一生……」
何だろう。物凄く知りたくて、物凄く耳を塞ぎたい会話だ。
頭の中が真っ白になる。玄関先で私は石にでもなったかのように動けなくなってしまった。しばらくして、母の姿が視界に入る。「帰ってたの。お帰りなさい」私は会話の一部を聞いていた。そのことを知っているのだろうか。いいや、それを私に尋ねてしまったら隠せなくなるから。平然を装っているんだ。今日彼と会ったときの私みたいに。
「ただいま。南京町に行って来たの。‘ねじねじ’買ったから」
そして私も平然を装ってしまった。
彼と約束したのに。紙に描いて貼りつけたような笑顔。――母もそれを浮かべていたからだ。言葉が唇から出る一歩手前で二の足を踏む。私は止む無く猫背勝ちになりながら、そのまま二階の自室。化粧台の前に腰かけた。
(……聞くんだ。お父さんとお母さんに、隠さずに話してほしいと言うんだ)
もうあの玄関先での盗み聞きのせいで、思い過しなんかじゃなくなってしまった。父と母には、私に言えないでいる秘密がある。白か黒か。その答えがどんどん黒に染まっていく頭の中。落ち着いて、落ち着け。震える手が化粧台の上を彷徨い、ベビーオイルの瓶を逆さに向ける。出ない。切れているのを忘れてしまっていた。
母親のものを拝借しよう。
隣の夫婦の寝室に母の化粧台がある。ファウンデーションと口紅と化粧水、乳液、そしてお目当ての化粧落とし用のベビーオイルが三面鏡の前に出ている。控えめな色のファウンデーションと口紅ぐらいしか使わないのは親子そろってらしい。コットンもついでに拝借しベビーオイルを染み込ませる。ものぐさな私は立ったまま中腰で鏡に向かっていた。そして、足元への注意を欠いて小指を引き出しにぶつけてしまう。
「いたっ」
小声で呟いて屈んで痛みをこらえていると、母の化粧台の一番下の引き出しが少し開いているのが目に入った。――なぜだか胸騒ぎが襲い始める。ゆっくりと好奇心のままに引き出しを開く。母の年金手帳。印鑑と通帳。貴重品が入っていた。期限が切れたパスポートも。そして古ぼけた一枚の紙が丁寧に折りたたまれていた。胸騒ぎは水脈を探り当てるダウンジングマシンのごとく、それに反応した。
私は震える手で、青いカーボン移しの字が並べられたその薄い紙を開く。手の震えが止まらない。唇がうわ言を呟いて、嘘だ嘘だと悪戯に繰り返す。受け止めきれる訳なんてない。白か黒か。冗談じゃない。これは、これは。
正真正銘真っ黒じゃないか。
乱暴にその紙をたたんで引き出しを戻し、ふらつきながら自室に戻る。自室のドアの敷居を跨いで、ドアを閉めた瞬間私は脚の力を失ってフローリングの床に倒れ込んだ。カーペットの裾を掴んで引き寄せて、静かにむせび泣いた。
「こ、こんなの……、嘘だっ……」
特別養子縁組届
申立人ら:
黒石秀人
黒石好美
養子となる者:
青井碧
養子となる者の親:
青井明朗




