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分家  作者: 津蔵坂あけび
金沢編
10/10

全てを受け止めて

 旅の荷物は駅のコインロッカーに預け、駅からほど近い海鮮居酒屋に入った。店の中に入るまでにトタン屋根の廊下がある。そこに入った瞬間にもう、焼けた炭の香りと磯の匂いが鼻の中をすうっと通り抜ける。海鮮炉端焼きを提供するお店で、木製のテーブルの上には七輪が置かれていて、そこで貝やら、魚の干物やらが炙られている。


「うわあ、すごく美味しそう」


 水蒸気の混じった煙を上げながら、熱された金網の上でひっくり返ったトコブシが喘いでいる。改めて見ると残酷なものだ。

 だけど、そこに醤油が焦げる匂いと磯の香りの混ざった、何とも言えない香ばしい匂いが混ざると、トコブシの残酷焼きも食欲の対象となり、胃が音を立ててぐうと鳴ってしまう。

 宏明に笑われた。


 少し赤面しながら、席に着く。

 店員が金網を火ばさみでつかんで、七輪の上に置く。金網の上では、陽炎が踊っていて、炭の香りが漂ってくる。

 その陽炎に手を翳すと炭からの熱が感じられ、冬の寒さにかじかんだ手を暖めてくれる。


「こうすると暖かいよ」


 宏明も一緒になって手を翳した。

 ふざけあって見つめ合いながら手を暖め合っていると、店員がお冷やと、おしぼりを持ってきた。

 いつも通り、おしぼりの袋を私は引きちぎって開けるけれど、彼は指ではじいて開ける。 

 湯気の立つ温かいおしぼり。手を拭きながらお品書きを開く。ホタテやトコブシ、アジの干物。その他牛肉や鶏肉など様々な炉端焼きを主とした料理の数々。日本酒や焼酎も多くの種類が取り揃えられていて。どれにしたらいいか迷ってしまう。


「宏明、金沢で美味しいお酒って何か知ってる?」


 そう言うと、常きげんというお酒を勧めてくれた。

 かつて加賀百万石と名が付いたとおり、石川の米所であり、酒所だ。


 だけど私に日本酒の味を教えてくれたのは、私と血のつながった本当の父親ではない。私は本当の父親が、お酒を飲むところなんて見たことがないのだ。


 やがて、升に乗せられたグラスに、並々と。いや、グラスから溢れて下の升からもさらに溢れようかというほどに注がれた。この注ぎ方は、「注ぎこぼし」というらしい。最初に居酒屋でこれを見たときは驚いたものだ。

 宏明も同じものを頼んでいた。

 テーブルの上に、暖まった七輪をはさんで、並々と注がれた金沢の銘酒。ふたりで空いている隣の椅子に座り直して、七輪が間に挟まらないようにして向かい合う。が、並々と注がれたお酒同士では乾杯は難しい。持ち上げることは、ままならず。テーブルの上を滑らせるようにして、ふたつの升をぶつかり合わせる。


「乾杯っ」


 慣れ親しんだ灘のものとは違うお酒。

 口に含むと、灘のお酒では鼻をつんとした香りが突き抜けるが、こちらは発酵した米の豊かな甘みが口いっぱいに広がり、まろやかな味わいだ。日本酒は土地柄や銘柄によってがらりと味を変える。これだから辞められない。


「美味しいっ」


 何度も味わい、目をつぶり、噛みしめて声を漏らす。

 私がお酒に浸っている間に、宏明はサザエの壺焼きとホッケの開きを注文した。


「碧は本当にお酒が好きだな」

「そうね。お父さんに似たのかしら」


 そこで気づいた。

 

 お父さんに似ている。


 私がそのときにお父さんと思い浮かべたのは、自分の育ての親。黒石秀人の顔だ。その人は私を娘と呼んで、娘として接してくれて、お酒もよく一緒に飲む。成人を迎えた誕生日に、満面の笑みでビールを持ってきて、「苦いよ」という私に、「練習だ」と言って、無くなったしりから注いでくる。 

 三杯目かそれくらいで、今度は透き通った香り高い灘のお酒をおちょこに注いでぐいぐいと突き出してきた。なされるがままに、おちょこを受け取り、澄んだそれをぐぐぐいと流し込む。甘い。コクがあって味わい深く、鼻を突き抜ける香りは鋭く、それでいてどこか優しい。

 私はそれから父親譲りの日本酒愛好家になってしまった。


 だけど私に日本酒の味を教えてくれたのは、私と血のつながった本当の父親ではない。私は本当の父親が、お酒を飲むところなんて見たことがないのだ。


「どうした? 何か頼まないのか?」


 宏明がお品書きをこちらに向けて尋ねてきた。

 彼の瞳には心配の色が伺える。こういうときは、私よりも勘が働く彼だ。取り繕っても、無益な時間稼ぎにしかならない。


「お父さんのことを考えていた」

「碧が信じたのなら、きっと……」

「そうでも、私はお父さんのことを覚えていない」


「それは、同じだよ。あの人が碧にあのクマの縫いぐるみをくれたのは、あの人も碧のことをよく知らなかったから。それでも、好みが分からなくても心から祝福しようとしてくれていた。碧も本当の父親のことを覚えていなくても、心から会いたいと願っている。だったら、同じじゃないか」


 宏明は真剣な顔で言ってくれた。たとえ父親のことを覚えていなくとも、それを攻める必要はないと。同じ理由で何度も立ち止まって、何度も彼に助けられている。


「ありがとう」 


 すると、彼は苦みを含んだような声で、「ああ」と呟いた。

 何かを言い兼ねているようだったが、それよりも先に焼きあがったホッケと、店員がサザエがごろごろと入った洗面器を持ってきた。


「えっ、なにこれっ」

「サザエの掴み取りでございます」


「宏明は手が大きいから、いっぱい掴めるよ」


 彼は袖をまくって、両の掌を大きく開くのだった。



*****



 ふたりでの宴のあと、金沢駅に預けていた荷物を携えて、予約をしていたビジネスホテルに向かう。

 駅からほど近いホテルまで、顔が真っ赤になったふたりが荷物をぶつけてじゃれあ合いながら。


 ーー予約していたホテルの部屋には、大きめのダブルベッドが。

 真っ先にダイブする私。スプリングが強く体を跳ね返す。


「結局、楽しんでしまったな」

「そうね」


 ベッドで頬杖をついて彼に笑いかける。

 するとまた、彼の笑顔がぎこちなくなっていた。 


「ねえ、宏明。隠さずに言って」


 私だって、女性の勘とは言わないまでにしても。自分の大切な人がなにを考えているかくらい察しがつくつもりだ。それに、幾度となく彼に助けられているのだから、私も彼に何かをしてあげたい。

 しばらく、口をつぐんで。二、三度俯いて咳払いしてから、彼は口を開いた。


「少し、青井出版社について調べていた」


 そう言えば宏明は、ひがし茶屋町から金沢の駅までの、ものの数分の間だったが、スマートホンの画面を食い入るように見つめていた。調べ物をしていた。それも、あの人に会ったあの建物の前にあった、「青井出版社」と書かれた、赤く錆び付いた古い看板。その出版社について。

 名前を聞いたことはない。よって、どんな出版社なのかも全く知らない。何を刊行しているのかについても。


「モキュメンタリーって知っているか?」


 ドキュメンタリーならよく知っている。実録というものだ。実在の人物ないしは実話に基づいて書かれていて、ノンフィクションと言われることもある。だが、それとは一文字違う。

 宏明によると、モキュメンタリーとは、名の通りドキュメンタリーをもじったもので、架空のドキュメンタリーなのだという。架空の事件や人物を題材にしたものもあれば、実在の事件や人物をハッタリや超科学を加えたものもあるそう。


「青井出版社は、モキュメンタリーを扱った記事ばかりを取り扱った雑誌、パルプを発行していた。だけれど、これのウケがよくなかった。それも、扱われていた記事のほとんどは実在の場所や事件を扱っていて。フィクションであるという記述を敢えてせずに、読者にそれがあたかも事実であるかのように信じ込ませることに力を注いでいたんだ。これが訴訟問題に発展してね。大赤字と裁判費用により、多額の負債で出版社は倒産した。その出版社の社長が、青井典明あおい のりあき


 そこでまた、知らない名前が出てきた。

 話の流れからすれば、そこで青井明朗あおい あきおの名前が登場するのだろうと思っていたら、違う、またも知らない名前。


「それは、私の本当のお父さんと関係があるの?」

青井典明あおい のりあきは、息子の青井明朗に多額の借金を擦り付けた挙げ句自殺している」


 そして、その知らない名前は、宏明の話の中でいとも簡単に死んでしまった。自分が建てた個人出版社の倒産と訴訟による多額の借金。それが、私の本当の父親の背中に重たくのしかかっていたものだった。


「碧は、小学校から大学卒業。今に至るまで不自由なく暮らしてきた。――それが、どういうことか分かるか」


 私の頬にひと筋の河が流れた。

 どんなに辛かっただろう。どんなに情けなかっただろう。自分の家族を幸せにしたい。だけどそれが、自分の手では叶わない。だから、家族も。自分が家族であることも、捨てるしかなかったんだ。


「……、私はおかしいかもしれない。自分を捨てた人を責められないなんて。でも、それって。私が養子に出されなければ、大学に行けなかったかもしれないし、宏明と会うこともなかったということじゃない」


 確かに思った。その人のもとで私が育っていれば、今の私はない。だけど、だからって。捨ててくれてありがとうだなんて言えるわけもない。私が言えることは、ただひとつの揺るぎない事実だけだ。


 あなたは、私の父親だ。


 それを掌の中に握りしめる。

 父親が私ごと捨てたつもりでいるなら、私はすべてを両手を広げて受け止めるつもりだ。何もかもすべて。


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