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分家  作者: 津蔵坂あけび
神戸編
1/10

晩酌


黒石碧くろいし みどりって変な名前だね。



 そう言われたのが印象に残っている。苛められていたとか、そういうことじゃない。

 ただ単に納得してしまったからだ。


 碧とは碧玉。ジャスパーとも呼ばれる透明感の強い青色が特徴の宝石。――黒とは全く違う色だ。姓と名が不協和音を奏でているよう。


 でも二十五年間付き合ってきたこの名前とも、さよならすることになる。


「萩野碧」


 化粧台の鏡の前で自分の新しい名前を呟いてみる。現実感のない響きだ。 

 婚約者の名前は、荻野宏明はぎの ひろあき。同じ大学、同じサークルで出会った。六年間あまりの交際期間を経て、書類。指輪。キスと儀式。時間はかかるし楽じゃない。でも、名前が変わって、自分の存在が変わってしまうのは一瞬だ。


「碧。早く降りてきてあげて。父さんが先に出来上がってしまうわ」


 階下から母の声がする。父親は私と宏明との交際を知ってから毎夜のごとく晩酌の相手に私を誘ってくる。宏明とともに暮らす予定のマンションは、もちろん今の実家とは違う場所にある。私と離れる時までが秒読みになってしまったようで焦っているのよと母は笑う。急いでベビーオイルをコットンに染み込ませて化粧を拭い去る。

 ベビーオイルがなくなった。化粧水も残りわずかだ。スーパーか薬局に寄ったときに買っておこう。


 ようやくすっぴんに戻り、顔に化粧水を荒っぽく塗り、鏡の中の自分を見つめる。できる限り急いで数十秒、もとの締まりのない顔つきを半目で見下してから成人祝いに買ってもらった化粧台に別れを告げる。

 父が待つ居間へと降りてゆく。階段を下りて廊下からつながる居間。ドアを開けると控えめな音量のテレビがバラエティ番組を流している。誰の視線も画面には注がれておらず、完全に環境音声の一種と化している。水がさわさわと流れている。母が台所でキュウリを洗っていた。


「もう、父さんが待ちくたびれていたわよ」


 父はせっかちだ。というよりお酒が好きなのだ。私と一緒に飲むと言っておきながら、いつも一足も二足も先に飲み始めて、そこに後から私が加わる。ほら、今日も提灯のように真っ赤な顔を揺らしながら満面の笑みだ。


「母さん、父さんとっくに出来上がってるじゃない」

「あんたが遅いからよ」


 向かいに座ると有無を言わさずおちょこに熱燗の日本酒を注いでくる。慌ててそれを受けていたところへ、母がぶつ切りのキュウリにもろみ味噌乗せたものを持ってきた。父の大好物で、母も手間がかからないからという理由で晩酌のときにはいつも出している。毎日キュウリを洗っている気がする。そう言って母は悪戯っぽく笑う。

 日本酒を口に含む。ほんのりと唇に伝わる熱。湯気に乗って酒の香がツンと鼻を通り抜ける。甘くてコクがあり、後味はきりりと締まっている。地元の酒屋に入る灘のお酒。父曰く、安酒でもなければ、別段高いお酒でもないそう。私はウイスキーや焼酎などのきつい酒は好みではないが、日本酒は銘柄に関係なく好みだ。


「いける口じゃねえか」


 父との晩酌の最初の一言は決まってそれだ。おちょこを空かせば、わんこそばのごとく次々と注がれるものだから、酔いつぶれないように調節する必要がある。


「お父さんはもう飲み過ぎよ」

「お前が来るのが遅いから、ひとりだと話し相手が酒しかいないからな」

「お母さんがいるでしょ」

「もう嫁に行って、いなくなっちまう娘を差し置いて女房と飲めるかい」


 そう言ってひとりで勝手に飲んでたのは誰なのか。ひとしきり笑い合うと、父はキュウリにもろみ味噌を乗せてひとかじり。私もそれに続いてひと口。


「式場はもう決めたのか」

「神戸の港の教会にしようって」

「メリケンパークのやつか」


 宏明が海と船が好きだから。そう言うと父は「お前は古風だな」と笑った。結婚式は女にとっての晴れ舞台だ。それを男の好みに合わすというのは、主張の強い近頃の女性にしては珍しいと。お前は良い嫁になるぞと付け加えた。


「そうかな」


 面と向かって言われると照れくさい。その受け答えも古風でいい女だ。褒め方が古くさい。照れ笑いしながら言うと、親なんだから仕方ないだろとあぐらを掻いた膝を叩きながら笑った。いつもながら愉快な父だ。


「宏明さんの方は?」

「うん?ああ、いいやつなんじゃないのか」


 あからさまに声のトーンが変わるのが可笑しい。宏明を家族に紹介したときは思いのほか、すんなりと話が進んだ。よくドラマであるような「君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない」などといったやり取りはなかった。それを話すと、そんな使い古された台詞俺が言うわけないだろと。父は関西圏で放送されているテレビやラジオの放送作家をやっている。今もラジオドラマの脚本を手掛けていて、芸能人やタレントの知り合いも多い。対して宏明は舞台作家。同じ作家同士で通じるところがあったのか、父と意気投合し、挨拶を済ませた後の酒盛りでは話も弾んでいた。


「俺が碧をもらうやつとそんな仲良くしてたかな」

「もう、お父さんったら」


 話し込んだ後は、「碧を泣かせたら承知しない」と何ともありきたりな台詞を吐いて別れたくせに。その台詞は言いたかったのだと。父はどうやら少し意地悪なところがあるらしい。口角を上げて浮かべる笑みは、酒気による火照りを除けば悪童そのもの。悪童はおちょこに注いだ清酒を口中に流し込む。より一層紅く鬼灯のように色づいた父の顔。酒呑童子が字の意味をなぞるような姿をしているのなら、案外父と似ているかも知れない。そんな飲み過ぎた父に、母は苦笑いを向ける。


「そんなに私がお嫁に行くのが寂しい?」

「寂しいに決まってるだろ。ったく、お前に彼氏がいるって時は、どれだけびっくりしたか。椅子から飛びあがるかと思ったよ」


「思ったじゃなくて、本当に飛び上がってたよ」


 初めて宏明のことを父に伝えたとき、父は銃声でも聞こえたかのような驚きぶりをしていた。おまけに飲んでいたお茶が変なところに入ってしまって、噴き出して大慌てしたものだから、緊張がはじけ飛んで笑ってしまった。


「二十年間前お前の面倒を見て来て初めて彼氏ができたなんて聞いたら、腰を抜かすのが普通だろ。それまでそんな話なかったんだから」


「お父さん、私が宏明のことを話したのは私が二十二のときよ」

「……、あ、そうかそうか」


 何故か少しだけ、父の顔が私を見てはたりと時を止めたように固まった。しばらくしてふと我に返り、少し前の記憶を忘れようとするかのようにお酒を口中に流し込む。なにか引っかかる。私たちの会話に入らずに、テレビに視線を向けている母の顔を見やる。



 なぜだか視線を合わせてくれなかった。




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