1-9(10) 亜十夢 必然
闇に放り出された脱出ポッドは、亜土夢の願う月面方向に対してズレないで進んでいた。
月の手の引力に引っ張られながら、ポッドが目的地である基地予定地にたどり着くためには、ポッドの方向を微調整してやる必要があった。
緊急脱出ポッドには、簡易的な姿勢制御装置がついている。 前後に一回ずつ、上下に一回ずつ姿勢制御のためエア射出できる装置である。
推進力にならない姿勢制御装置だけで目的地にたどり着くのは困難であるのは頭の片隅で分かっていた。
間違いなく、理性が正常ならば考えることすらない亜土夢の行動である。
理性が正常でないからこそ成せる技なのか、射出させたポッドを目的地に向かわせる調整のタイミングを奇跡の操舵で前後上下すべての噴射を用いて目的地上空まで導いていた。
いくら奇跡の操舵で目的地上空にさしかかったとしても限界はあった。 姿勢制御のエア射出は全て使い切っていたため、目的地へのピンポイント着地は難しく、少し遠くに着地して月面を戻ってくるのがベストな選択だろう。
だが、一度彼の心に棲みついた欲求という魔物は、そのタイムラグを許さなかった。
脱出ポッドには下部にベント型のエアバッグが装着されている。 着陸時に展開することで衝撃を緩和することが目的だ。
亜土夢は、下部より上を切り離して先に進もうとする慣性を弱め、さらには内部の空気が下部を推し進める推進剤になると考えた。
任意による姿勢制御エア射出はもうできないが、ポッド内部の電子制御による姿勢制御エア射出は行われていて、常に下部が地表を向くようになっている。
もちろん、救出時間までの酸素を蓄えているポッドを捨てるということは死をも覚悟するように思えるが、すでに下方に大きく見えている居住ブロックの近くには集中管制船が着地していることが見えていた。
亜土夢にとって、無謀な策ではなく、酸素の供給は脱出ポッドに依存しなくてもいい感覚になっていたのである。
居住ブロック上空に来たとき、またも奇跡のタイミングで上部切り離しをおこなった。 思惑通り、内部の空気が亜土夢を力強く押し出し、地上の基地に向かってまっしぐらに降下させてくれた。
月面に近づいたときベント型のエアバッグが綺麗に展開して無事に着地。
着地すると、うさぎが跳ねるように亜土夢は、設置されてある月面居住ブロックに向かう。
居住ブロックの前に立った亜土夢の前に広がったのは、手前の居住ブロック1区画だけ残し、後方のブロックは地面の中に吸い込まれていた。
付近を見渡すと地下空洞らしきものが見当たらないので、とりあえず、居住ブロックの中に入ろうと亜土夢は入口に進んだ。
入口は電力が生きていることを証明するように、頑丈な防護璧を持ち上げて亜土夢を内部へいざなう。
内部の電力、空気の生存維持システムは問題なく稼働しているように思え、何事もなかったかのように存在していた。 居住ブロックは1区画ごとにシステムが独立していて、工場が作れるほどの大きさに規格されていた。
1区画から2区画、3区画を通り抜け、そして4区画の隔壁扉が開いたとき眼前にぽっかりと漆黒の闇が広がった。
亜土夢が歩みを進めると、人工的な床から岩のような表面を歩く感覚に変わった。 そして、闇の中を進んでいるはずなのに、歩く先のビジョンが頭の中にワイヤーフレームとして広がったため、先を進むことに難しさはなかった。
しばらく進むと、人工的な明るさの中に一人立っている姿が見えた。 やはり、ミハイル副官である。 宇宙服を装着していない。
その周りには、3人の男たちが倒れていた。 すでに、息をしていないことが見てとれる。
ミハイルは亜土夢に後ろ姿を見せたまま、語りかけてきた。
「早かったね。 さすが、養成スクールのエース。 待っていたよ!」
感情が無い話し方だった。 なまりのない英語がクリアすぎる声で亜土夢の頭の中に響いてくる。
「あなたは、なぜ、こんなことを?」
亜土夢は怒りと悲しみとが混ざった感情で問いかけた。 そして、さらに続けた。
「何があったのですか? 何を見たのですか?」
ミハイルは振り返ることもせずに立っている。
しばらくの沈黙のあと、ミハイルの声が頭の中に入ってきた。
「そうか、君はミハイル君に語りかけていたんだね。 彼は君が思っているうような存在から昇華してしまった。 今、彼は自我を確立できないので、ここに存在することができないんだ」
亜土夢は、ミハイルの話す内容が理解できない。 狂ってしまったと思い、左目から涙が流れた。
狂人の戯言に何かを信じて、何かを期待して、命をかけてまで急いできた自分が哀れに思えたのである。
「君の前に存在してる私たちは狂っていないから大丈夫だ。 君と会話することに問題はない。」
「あなたをお待ちしていたのですよ。 あなたが通ってくる障害をきれいに取り除いて、すこしでも早くここへたどり着くようにしてさしあげたのですから」
「なかなかめんどくさかったよな。 まさか、人間のエリートの君でも、人間離れした奇跡が連続して起こったなんて思ってないよねぇ。」
「せっかちだなあ。 見てごらんよ。 亜土夢君が困惑してるじゃないか」
亜土夢の頭の中にミハイルの声が響きわたるのだが、別人格が何人も話しているようであった。
そのとき、後ろ向きのミハイルの肩の力がガクっと落ちる。
同時に、亜土夢の頭の中にミハイルのなまった英語が絶叫として響いた。
「逃げろー!! とりつかれる前に逃げろ。 いや、俺でない俺を殺してくれー」