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私がレジで会計を済ませると、雑誌を立ち読みしていたウタが駆け寄ってきて、一番重たそうな袋に手を通した。私は残されたもうひとつの袋を持つと、店の外に出る。風が吹かないと、春の陽気だ。道路脇に積み上げられた雪の一粒一粒が太陽を浴びて、一つずつ順番に溶けているのではないかと思うぐらい、雪は宝石のように煌めいて、春の訪れに涙を流す。
「道を変えようか。農道の方歩こう。車も来ないし」
私は無言で頷くと、彼の後ろに着いて歩いた。舗装された道路から農道に入ると、まだ誰も足を踏み入れていない漂白されたような雪に、ウタの足跡がつく。私はその足跡を上からなぞるようにして、歩いた。
「ちぃ、あそこの公園、覚えてるか?」
ビニールを持った手をぐいと上げて指した方向に、滑り台と短いベンチだけが置いてある公園が見えた。
「あぁ、良く遊びにきたよね」
兄とコウ兄が虫採りに行ってしまった後、私とウタはよく手を繋いで散歩をした。散歩をしている途中で見つけたのがあの公園だ。農道と舗装道の間に無理矢理作られたような公園はまだ真新しくて、夏の日差しに照りつけられた滑り台が熱を持っていて滑る事ができなかったのを思い出す。
ウタは少し歩く速度を速めた。
「ちょっと寄って行こう」
「へ、だって雪が」
積もっているから、と言おうとしたが、見えてきた公園は誰かが何度も足を踏み入れた形跡があり、ベンチにも雪が積もっていなかった。
「誰かが雪おろしでもしたのか、ベンチも滑り台も乾いてるな」
公園の柵を通り抜け、ウタがベンチに手の平を当てた。
「うん、大丈夫。濡れてない。こちらどうぞ」
そう言って私に席を勧めた。私はぎこちなく笑って左側に座ると、ベンチの端にビニール袋を置いた。ウタは私の隣に座ると、「あれ?」と声を上げた。
「何?」
「あの木」
一度腰を落ち着かせたウタは再び立ち上がり、公園の柵の外にある木に近づいた。遠くから見ても分かった。その木が、何の木であるのか。そしてその枝の先端に、僅かながら薄桃色が広がりつつある事にも気付いた。
ベンチに戻ってきたウタは、嬉しそうに「ちぃの好きな梅の木だ」と笑った。
「ちぃは頑に梅の花が好きだったよな。俺、すっげぇ覚えてる」
その小さくも厳つい形をした木を見ながら、遠い過去を思い返す。
「ウタ、この木綺麗!」
「この花、だろ」
ウタの手を引いて走り出した私に、ウタはそう言った。ウタの家の近くには梅林が広がっていて、二月の末に訪れたその梅林には、濃紅色から薄桃色まで色とりどりの梅の花が咲いていた。
「ねぇウタ、何でこの木でお花見しないの? こんなに綺麗なのに。何で桜だけなの?」
ウタは困ったように小首を傾げ、中空を見上げた。
「別に、いいんじゃない? 梅の木でお花見したって」
私はその言葉が困った末に出された結論である事に気付かないまま、笑顔を突き出し「やろう!」とウタの手を握った。ウタはそれこそ困ったような顔で笑い、言う。
「この梅はフェンスで囲まれてるだろ。だから入れないの。家の横に梅の木があるから行ってみよう」
今度はウタが私の手を引っ張った。しかし私はすぐに足を止める。ウタは怪訝気に「どしたの」としゃがんだ私に声を落とした。私は道の端に落ちていた、まだ形をとどめている梅の花をふたつ、手の平にのせると立ち上がり、ウタに見せた。
「こんなに濃いピンク、何色って言うんだろうね」
「ピンクはピンクだろ、濃くても薄くても」
少し面倒くさそうにそう言うウタの頭に、私の手の平から梅の花を一つ、載せた。ウタは見えない事が分かっていても目を上の方に回して、苦々しく笑う。
「また女に間違われちゃうだろ」
そう言って今度は私の手から残りの花を摘まみ取ると、私の髪に触れ、そこに花を一つ、挿した。そのまま髪を撫で、「ちぃ、梅の花が似合うな」と言って口の端をきゅっと上げる。釣られて私も笑顔になる。
それから歩き出し、どこかのおばあさんとすれ違った。
「あらぁ、お姉ちゃんとお揃いで、可愛いねぇ」
ウタは私の耳元で「だから言っただろ」とささやき、顔をしかめる。その声がくすぐったくてケタケタ笑い、おばあさんに「ばいばい」と言ってまた歩き出す。
ウタの家のすぐ傍に、梅の木があった。髪につけた梅の花と同じ、濃い桃色をしていた。
「花見したよな、うちの横の梅の木で」
私は少し俯いて、「そうだね、したね」と返す。自分の顔が少し曇った事に気付く。思い出したくない事までも思い出してしまったからだった。
少しのお菓子を持って梅の木に戻った幼いウタと私は、梅の木の下に新聞紙を敷いてお菓子を食べていた。その時、近くの家の玄関が開き、女の子が出てきた。
「光太、何してんの?」
その女の子は私の事を怪訝毛な表情で見つめながらウタに訊ねた。
「花見。これ俺の従妹のちぃ」
ふーん、と興味なさそうに私を一瞥し、何かのお稽古にでも行くのか、四角いキルティングのバッグを持って歩いて行った事を、思い出した。
「あの花見をした後、自治会でお花見があってさ。今の嫁が俺の隣で言うんだよ。私、梅の木って嫌い、って」
俯いていた顔を少し起こし、「何で」とウタを見る。
「いつの間にか咲いてて、いつの間にか散ってて、存在感がない。だってさ」
花なんてどれだってそんなものではないか、と思ったが、過去に刃を突き立てたとて何も変わらないのだと分かっているし、大人げないから言わずにおいた。それでも何か一言、言っておきたかった。
「私はそういう所が好きなんだと思う。いつの間にかそこにあって、いつの間にかなくなっちゃう。そういうちょっと儚いところとか、好きだな。桜みたいに派手じゃないけど、確実に春を知らせてくれるところも好き」
ウタは広げた膝に肘をついて、数回頷いた。
「そういえばさ、雀、覚えてる? 蝉取りしてて見つけたやつ」
私は記憶の迷路をたどって、たどった割には酷く鮮明に脳裏に浮かび上がった、茶色いまだらの羽の色に少し驚きながら「あぁ」と間の抜けた返事をした。
兄とコウ兄は山の奥にカブトムシを捕まえに行ってしまい、私はウタと二人で蝉取りをしていた。蝉なんて飽きるほどいて、捕まえる気も殆どないから、虫かごを肩から下げて手をつなぎ、ぶらぶらと歩いていた時だった。
目の前に、わら半紙が風に煽られるみたいに地面からひらり、ひらりとはためく何かを見つけた。その色合いや大きさからして、雀だと分かった。私は即座にウタから手を離し、動く雀に走り寄った。
「ウタ、まだ生きてるけど、何か汚れちゃってる」
羽をひらひらとばたつかせる雀を地面から拾い上げ、手の平を椀形にして温めるようにして収めた。血が出ているのか体液なのか、とにかく濡れていて、汚れていた。
「猫にやられたのかもな」
雀は手の平の中で暫く身じろぎをしていたのだが、二人の視線を受けて安心したかのように、次第にその動きを弱くしていき、そして、最期に一度だけ羽を大きく動かしたが最期、動かなくなった。
「ウタ、止まっちゃったよ。どうしよう、死んじゃったよウタ」
私は必死に涙を堪えようと下唇を噛み締め、ウタの方を向くと、ウタは私の背中をさすった。
「一人で死なないで済んだんだから。俺とちぃが見ててあげたんだから。ちぃが抱いててあげたんだから。雀は多分嬉しかったと思うよ」
堪えきれなかった涙が双眸から溢れ出て、薄汚れた頬を洗い流す。それを肩口で拭うと、白いブラウスが茶色になった。
「雀と同じ色になったな」
ウタは私のブラウスを見てそう言い、「埋めてやろう」と笑顔で立ち上がった。
土なんてそれこそ腐る程あった。あちらこちらに土があった。だけれどウタが「ここにしよう」と言ったのは、祖母の家の庭にある、梅の木の下だった。
「ちぃが好きな梅の木の下に埋めてやろう」
ウタはスコップも使わず、幼い頃よりは少しごつごつし始めた手で少しずつ穴を掘り進め、雀一匹が入るのに丁度良いぐらいの大きさの穴を掘った。ウタの指先は雀の色をしていた。
私は手に包んでいた雀を穴の中にそっと落とすと、ウタと一緒に上から土をかけた。
「ちゃんとかけておかないと、猫に掘り返されるからな」
そう言って土をかけ、上には緑色の葉っぱを数枚、立てた。示しを合わせたように二人、合掌した。ウタは茶色になった手を私に差し出し、私はそれをつかむと、井戸まで歩いて行き雪解け水のように冷たい井戸水で手と顔を洗った。
「あれも梅の木の下に埋めたんだったよな」
傾き始めた太陽に、少し顔をしかめながら、遠くに視線を飛ばしているウタの横顔は、夏の太陽に照らされたアスファルトを歩いていた、あの頃のウタの顔のままだった。
「そうだったね」
何かを振りほどくように、ぱっと正面を見た私を、ウタが横から見ている事に気付き、何気なく視線を合わせる。二人とも、緊張の糸でも解けたかのように、ふっと笑った。
「思い出すと、次から次に色々思い出すよな。年に一回か二回会うだけのいとこ同士だったのに、会えばちぃとはずっと一緒にいたもんな」
「そうだね」
太陽の光が滑り台に反射し、反射光に目がくらんだ私は、少しウタの方へと身体を寄せた。それに意味があったわけではなく、ただ太陽の光を避けた、それだけだ。
「なぁ、ちぃはどうだか知らないけど、俺は、いとこっていうのは結婚できないと思ってたんだ」
思わずウタの横顔を見ると、ウタは少し俯いて、人差し指を二本、くるくると動かしている。
「できるって事を知ったのはずっと後だったけど、できないって思ってたのはずっと前からだった」
咀嚼するのに時間がかかるその言葉にこめかみを掻いていると、ウタが言った。
「ちぃの事が好きだったけど、結婚はできないって思ってた。小さい時な。もっと小さい時は、ちぃは自分の嫁さんになるんだって思ってた」
唐突な告白に、言葉を失った。それが過去の話であっても、私にとっては重要な話だ。
「今は手を繋いで歩いてくれてるけど、ちぃがどんどん大きくなったら、それもできなくなるんだって思うと、夏が来るのが怖かったんだよな」
「そ、う、なんだ」
やっと口にする事ができたのはこれだけで、自分の気持ちがどうだったかなんて話す余裕はまだない。
「結局俺は、小さい時に芽生えた恋心を、一方では成就させたけどさ、一方では成就させられなかったって訳だ。欲張りはいけないよな」
キルティングのレッスンバッグを持った、髪の長い女の子。少し気が強そうな顔つきだった事を覚えている。あの頃からウタは、彼女に恋をしていたのだと思う。しかし同じように、自分にも恋心があったと言う事に、驚きを隠せない私は、足を組み替えたり、こめかみを掻いてみたり、首を傾げてみたりと落ち着きを取り戻せない。
「そんなに動揺すんなよ。別に今からちぃの事をどうにかしようとか思ってるわけじゃないんだから」
無言で頷いた私は、やっとの事で閉ざしていた口を開いた。
「じゃぁ、なんで今、このタイミングで言ったの? 久しぶりに会ったから?」
ウタは一度首を少し傾げてから「そう言うわけじゃないな」と首を振る。
「今回はばぁちゃんが死んで、ちぃのおばさんは事故っただろ。兄貴の嫁さんも病死してるし、友達の中にもバイクで死んだやつもいるし、半身不随で車椅子のやつもいる。人生何があるか分からないなって思ったんだよ。そしたら、自分の感情を胸に秘めたまま死んでいくのって、嫌だなって思ったんだよ」
「何それ、まるでウタが死ににいくみたいじゃん」
ウタはケタケタ笑って「そうだなぁ」と私に視線を送る。
「でもそうなんだ、一度きりの人生だから、今だ、って思った時に言っておかないと、後悔するかもなってさ」
ビニールが擦れる音が聞こえ、ウタが袋を持って立ち上がった。夕日に向かって大きく伸びをしたウタからは、日差しが薄橙の直線となって背後に消えていく。私もビニールを手にして立ち上がった。
「ウタ」
振り向いた彼は、「どした?」と少し首を傾げる。
「私も明日死ぬとしたら言っておきたい。ウタの隣でウエディングドレスが着たかった。小さい時からずっと思ってた。でもいとこ同士だからそういう事はできないって思って諦めてた。今でもウタの事は好きだよ」
これが私の精一杯だった。
ウタは私に向かって、ビニールを持っていない方の手をすっと差し出すと「手、繋いでいこう」と言う。
「いつも目印にしてた消火栓のところまで、繋いでいこう」
私はビニールを持つ手を反対にして、ウタの手に手を伸ばす。握った手は、あの頃感じていた、少しずつ固く強くなっていった手の、完成形だった。あの頃とは違う、男性の手だ。