婚約者を置いて帰った日、大公都の正午の鐘が三分遅れました
百五十七回目の日曜日も、婚約者は正午に来なかった。
湖から吹く風が、広場の石畳を渡っていく。時計台の文字盤は、十一時五十六分を指していた。
わたしは時計台の下に立って、足もとの真鍮の線を見ていた。石畳に埋めこまれた、指一本ぶんの幅の線。塔の影がこの線を渡ったとき、ミラヴァルは本当の正午になる。
ミラヴァルの時計師は、日曜の正午に、この線で自分の時計を合わせる。父もそうしてきたし、わたしもそうしている。
懐中時計の蓋を開けた。十一時五十六分。文字盤の時計と、わたしの時計は、一秒も違わない。親方試験のときに自分で組んだ時計だ。ひげぜんまいを三度巻き直して、やっと父に「よし」と言わせた。
今日は晴れていて、時計台の扉は閉まっていた。
三年前の春、わたしはラヴァンシー子爵家の次男、ジルベール様と婚約した。
アマン工房は大公家御用達の時計工房で、わたしは一人娘だ。子爵家は古い家柄で、お金がない。何が欲しくての縁組なのか、わたしにも分かっていた。
だから父は、婚約の契約に一つの条項を足させた。
——毎週日曜、正午に、湖畔の時計台の下で会うこと。正当な理由なく約束の時刻に来なかった側は違約とし、相手は婚約を解くことができる。解かれた側は違約金を払う。
「うちの娘を、粗末に扱わせるものか」
父はそう言って、ファーブル=ランツ銀行の契約の金庫に契約書を納めた。
それから、百五十六回の日曜日があった。
ジルベール様は、たいてい遅れた。一時間、二時間。来ない日もあった。そのたびに使いの少年が書き付けを持ってきた。
『マノンの具合が悪い。療養所の見舞いで遅れる』
マノン様は、ジルベール様の幼なじみだ。デュクロ男爵家のお嬢様で、胸を病んで、山の療養所「白い館」にいる。
病人の見舞いなら、正当な理由になる。わたしは待った。
春は湖の風が冷たかった。夏は石畳の照り返しで、日傘の内側まで暑かった。冬の日曜には、正午の影がいちばん長く伸びて、線を渡るのに時間がかかった。
雨の日には、時計台の扉が開いていた。入口の石の床に、木の椅子が一脚だけ置いてあった。誰が置くのかは知らない。その椅子に座ると、塔の奥から歯車の回る音が聞こえた。規則正しい、低い音だった。その音を聞いていると、待っている時間が、少しだけ短くなる気がした。
待つあいだに時計を合わせ、工房に帰ると、修理帳の余白に待った分数を書いた。なぜ書くのか、自分でもよく分からなかった。書かないと、その日曜日が無かったことになる気がしただけだ。
「お嬢さん」
いつもの使いの少年が、息を切らして駆けてきた。十一時五十八分。
「若様が、少し遅れる、と。お嬢さんなら待てるだろう、と」
少年は書き付けを差し出した。いつもの字で、いつもの文句が書いてあった。
わたしは受け取って、たたんで、手提げにしまった。
お嬢さんなら、待てるだろう。
たぶん、そうだ。わたしは待てる。三年間、待ってきた。
影が、線に触れた。
細い影の端が、真鍮の上をゆっくり渡っていく。わたしは懐中時計を見た。十二時。
鐘は、鳴らなかった。
二十年、一度も遅れたことのない正午の鐘が、鳴らない。
わたしは線の上に立ったまま、秒針を目で追った。六十数えた。十二時一分。
ジルベール様は来ない。
わたしは時計の蓋を閉じた。
それから、時計台に背を向けて、歩きだした。
湖畔の道を三十歩ほど行ったところで、背中で鐘が鳴った。
一つ、二つ。十二まで数えなくても分かった。遅れている。三分。
塔の中の石段を、誰かが駆け下りてくる音がした。靴の底が石を打つ音が、だんだん近くなる。
わたしは、振り向かなかった。
生まれて初めて、約束の場所に、待ち人を置いて帰った。
*
翌朝、銀行から呼び出しが来た。
ファーブル=ランツ銀行の奥の部屋には、長い机と、契約の金庫の鍵がある。机の向こうに、銀行の娘のセレスト様が座っていた。わたしと年の近い、背筋のまっすぐな人だ。契約書を読ませたら、この国で右に出る者はいないと言われている。
机のこちら側に、ジルベール様がいた。
「やあ、フリーダ」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
「昨日は残念だった。僕は鐘の一分前に着いたんだ。でも、君はいなかった」
父が、わたしの隣で息をのんだ。
セレスト様が、書類を一枚、机に置いた。
「ラヴァンシー様から、違約の申し立てが出ています。昨日の日曜、正午の鐘が鳴ったとき、アマン様は時計台の下にいなかった。正当な理由の届けもない。契約の条項により、ラヴァンシー様は婚約を解くことができ、違約金はアマン様の側が払う、と」
「わたしは、正午にいました」
声が、思ったより小さかった。
「正午線の影が渡るまで待って、そのあと一分待ちました。鐘が遅れたんです」
「鐘が遅れた?」
ジルベール様が、困ったように笑った。
「ミラヴァルの鐘が? 二十年一度も遅れなかった鐘が、よりによって昨日に?」
「本当です」
「フリーダ。僕は責めているんじゃない。三年間、僕は遅れるたびに理由を書いて届けた。病人を見舞うのは、人として当たり前のことだろう。でも君は、理由もなく帰った。それだけのことだよ」
筋の通った言い方だった。部屋にいる誰が聞いても、そう聞こえただろう。
セレスト様が、違約金の額を読み上げた。
父の手が、膝の上で握られるのが見えた。工房の建物と、道具と、預かっている修理の時計まで全部売って、やっと届く額だった。
「この条項を書かせたのは、アマン様のお父上でしたね」
セレスト様は、責めるでもなく言った。父は答えなかった。
「わたしの時計は、正午を指していました」
わたしはもう一度言った。
セレスト様は、わたしの目を見て、ゆっくり首を振った。
「あなたの時計は、あなたの時計です。どれほど正確でも、あなたの持ち物が、あなたに都合のよい時刻を示しているにすぎません。この国の公の正午は、鐘です」
一拍おいて、彼女は続けた。
「鐘より前に正午があったとおっしゃるなら、公の記録が要ります」
ジルベール様が、机の上で指を組んだ。
「審理は五日後、土曜日だそうだ。よく考えて、フリーダ。こちらも、手荒なことはしたくない」
*
工房に帰ると、父が作業台の道具に値札を付けはじめた。
旋盤、歯切り盤、祖父の代からの油差し。父は一つ一つ手に取り、紙の札を紐で結んでいく。
「お父さん」
「わしが書かせた条項だ」
父は手を止めなかった。
「お前を守るつもりで書いた。それで、お前の首を絞めた」
わたしは何も言えなかった。
自分の机に座って、修理帳を開いた。三年分の修理の記録。客の名前、時計の型、直した箇所。その行と行のあいだに、小さな数字が並んでいる。
『四十二』『来ず』『九十八』『来ず』『百二十一』
百五十六の日曜日が、そこにあった。
見ているうちに、頬が熱くなった。こんなものを書きためて、わたしは何をしていたのだろう。待たされた回数を、自分で数えて。
わたしは修理帳を閉じた。
工房の扉の鈴が鳴ったのは、日が傾いてからだった。
入ってきたのは、背の高い男の人だった。黒い上着の肩に、細かい真鍮の粉がついている。時計を扱う人の肩だ。
「ヴァルザー男爵様」
父が慌てて立ち上がった。
エリアス・ヴァルザー様。大公都の時計台を守る家の当主で、自分でも時計を作る人だ。三年前、わたしは一度だけこの人に会っている。時計台の予備の振り子時計が止まって、父の代わりに直しに行った。塔の上の部屋で、この人は一言も話さずに、わたしの手もとを見ていた。
男爵様は、革の表紙の厚い帳面を抱えていた。
「時守の日誌です」
低い声だった。
「二百年、ヴァルザー家の当主が、正午の前後に広場で起きたことを時刻とともに書いてきました。大公都の時刻の正本です」
男爵様は、作業台の上に日誌を開いた。
几帳面な字が並んでいた。
『正午、影が正午線を渡る。湖畔、女性一名。十一時五十分着。連れ、来ず』
『正午、影が正午線を渡る。湖畔、女性一名。十一時五十二分着。連れ、十三時四十二分着』
ページをめくっても、めくっても、同じ行がある。
日付を見た。三年前の春から。毎週、日曜日。
わたしの日曜日だった。
「雨の日の、椅子は」
声がかすれた。
男爵様は、少しだけ目を伏せた。
「私です」
「どうして」
「三年前、振り子時計を直しに来た人がいました。ひと月後、その人は婚約しました」
男爵様は、日誌のページに指を置いたまま言った。
「他人の婚約者に声をかけるのは、この国では約束を破るのと同じです。だから、見ているだけにしました。雨の日に扉を開けておくだけにしました」
父が、黙って工房の奥へ引っこんだ。
男爵様は、最後のページを開いた。昨日の日付だった。
『正午、影が正午線を渡る。湖畔の女性、正午一分過ぎに去る。連れ、十二時二分着。鐘、三分遅れ。理由——鐘守、私用にて持ち場を離れる』
わたしは顔を上げた。
「使いの少年が来て、あなたが時計を見ました」
男爵様は言った。
「三年で初めて、あの顔を見ました。今日は帰るのだと思いました。帰るなら、一度だけ、椅子ではなく自分の口で、それでいいと言いたかった。綱を副守に預けて、石段を下りました。副守は正午の見方をまだ覚えきっていなかった。窓から連れの方が着くのを見て、正午を過ぎていると気づいて、綱を引いたそうです。鐘が遅れたのは、私のせいです」
「だったら、書かなければ」
言ってから、わたしは自分の言葉にぞっとした。
「書かなければ、あなたの鐘は遅れなかったことに——」
「書かなければ、日誌は正本でなくなります」
男爵様の声は、少しも揺れなかった。
「二百年、この日誌に嘘を書いた当主はいません。遅れも誤りも、そのまま書いてきました。だから正本なのです」
男爵様は日誌を閉じた。
「これを出せば、昨日あなたが正午に時計台の下にいたことは証せます。ただ」
「ただ?」
「大公都の法では、正午の務めを私用で離れた時計台守は、職を解かれます」
わたしは息をのんだ。
二百年。この人の家の、二百年。
「それは、構いません」
男爵様は立ち上がり、帽子を取った。
「日誌は、あなたが要るときに出します。決めるのはあなたです」
扉の前で、男爵様は一度だけ振り返った。わたしの手の中の懐中時計を見ていた。
「良い時計です。ひげぜんまいの巻きが、きれいだ」
鈴が鳴って、扉が閉まった。
作業台の上に、真鍮の粉が少しだけ落ちていた。わたしはそれを、しばらく指先でなぞっていた。
*
日誌で証せるのは、あの日曜日のことだけだ。
ジルベール様の百五十六回の「正当な理由」が残っている。あれが本当なら、この三年、ジルベール様は一度も約束を破っていないことになる。破ったのは、あの日曜日のわたしだけだと言われても、言い返せない。
三日後、わたしは乗合馬車で山を登った。
「白い館」は、雪を残した峰の下に建つ、白い石の療養所だった。
窓の多い部屋で、マノン様は寝台に身を起こしていた。痩せた手首に、細い銀の腕輪が滑っている。わたしを見ると、少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「アマン工房のフリーダさんね。ジルベールから、よく聞いているわ」
本当に病んでいる人だった。咳をするたびに、肩がひどく揺れた。そして、本当にやさしい人だった。わたしの話を、最後まで一度も遮らずに聞いた。
聞き終えると、マノン様は看護の修道女を呼んだ。
「面会簿を持ってきてくださる? 三年ぶん」
面会簿には、来訪者の名前と、着いた時刻と、帰った時刻が書いてあった。
マノン様は、痩せた指で一行ずつたどった。わたしも隣で数えた。
ジルベール・ラヴァンシー。三年で、四十回。
百五十六回の日曜日のうち、四十回。
マノン様の指が、面会簿の上で止まった。
「先月、父が言っていたの」
マノン様は、窓の外の峰を見ていた。
「ラヴァンシーの次男が、毎週日曜の昼に屋敷へ来る。熱心な青年だ。お前が治ったら、婿に迎えてもいい、って。わたし、見舞いの帰りに父のところへ寄ってくれているのだと思っていたの」
咳が一つ、こぼれた。
「フリーダさんとの婚約は、あなたの側の違約で解ける。違約金が入る。それから、わたしと。そういう段取りだったのね」
マノン様は、小さく笑った。
「わたし、あの人の言い訳だったのね」
わたしは何も言えなかった。
三年待たされたのは、わたしだけではなかった。
この人も、日曜日ごとに窓の外を見て、来ない人を待っていたのだ。山の上と、湖のほとりで。
「ごめんなさい」
なぜか、わたしのほうが謝っていた。マノン様は首を振った。
「謝るのは、わたしたちじゃないわ」
マノン様は、面会簿を閉じた。
「写しを取らせます。審理には、わたしが証人として出ます。医師に止められても、出ます」
山を下りると、ミラヴァルの町に刷り物が出回っていた。
『時計台守、塔の上から婚約者のいる娘を三年見張る』
辻の掲示板にも、パン屋の窓にも貼ってあった。誰が刷らせたのかは、考えなくても分かった。
工房に帰ると、父が作業台の前に座っていた。値札は、全部の道具に付け終わっていた。
「払おう、フリーダ」
父は言った。
「工房は、また建てられる。わしの腕とお前の腕がある。だが、男爵様の家の二百年は、建て直せん」
わたしは修理帳を抱えたまま、黙っていた。
黙って払って、去ればいい。そうすれば、誰もこれ以上傷つかない。男爵様の名前も、職も、守れる。わたしは待てる娘のまま、きれいにいなくなればいい。
それが、いちばん正しいことのように思えた。
*
審理の日、大公国の法廷は人で埋まっていた。
刷り物のせいだ。傍聴席の後ろのほうに、背の高い黒い上着が見えた。膝の上に、革の表紙の帳面を置いている。最前列の端には、車椅子のマノン様がいた。付き添いの修道女が、毛布を掛け直している。
いちばん後ろの席に、灰色の外套の男の人が座っていた。周りだけ、少し人が空いていた。
ジルベール様の陳述は、よく通る声だった。
「僕は三年間、一度も約束を軽んじたことはありません。遅れるときは必ず理由を届けました。病の幼なじみを見舞うことが、罪でしょうか」
傍聴席の婦人たちが、うなずき合った。
「先週の日曜、僕は鐘の一分前に時計台に着きました。婚約者はいませんでした。僕は責めたくない。ただ、契約は契約です」
判事が、わたしを呼んだ。
証言台に立った。
修理帳を胸に抱えたまま、わたしは動けなかった。
これを読めば、わたしが百五十六回すっぽかされた女だということが、町じゅうに知れる。男爵様の日誌が裏付けに呼ばれて、あの人の家の二百年が終わるかもしれない。
読まなければ、工房が終わる。けれど、誰の名誉も傷つかない。
傍聴席の後ろを見た。男爵様は、膝の上の日誌に手を置いたまま、わたしを見ていなかった。窓のほうを見ていた。決めるのはあなたです、と言った人の横顔だった。
父は、最前列で両手を組んでいた。祈っているのか、ただ手の置き場がないのか、分からなかった。
法廷の窓から、時計台の文字盤が見えた。
夕星はその日を数える。数えられた日は、失われない。
子どものころ、母が寝る前に言っていた祈りの言葉だった。
わたしは、修理帳を開いた。
「一回目」
声が震えた。
「三年前の四月の日曜。四十二分」
法廷が、しんとした。
「二回目。来ず。三回目。九十八分。四回目。来ず」
読み進めるうちに、自分の声が法廷の高い天井に当たって、少し遅れて返ってくるようになった。婦人たちの扇が止まった。ジルベール様が、何か言いかけて、口を閉じた。
「……百五十五回目。百二十一分。百五十六回目。来ず」
わたしは一度、息を吸った。
もう、声は震えていなかった。
「百五十七回目。正午線の影が線を渡ってから、一分待ちました。それから帰りました。待った時間は、三年であわせて百九十一時間です」
わたしは修理帳を閉じて、判事に差し出した。
「これは客の修理の記録のあいだに書いてあります。その日の客の受取証と照らしていただければ、あとから書いたものでないことは分かります」
「その帳面は、あなたの帳面です」
ジルベール様が言った。穏やかな声が、少しだけ上ずっていた。
「あなたの時計で測った、あなたの分数だ」
「ええ」
わたしは答えた。
「ですから、もう一冊あります」
傍聴席の後ろで、黒い上着の人が立ち上がった。
エリアス・ヴァルザー様は、証言台の横まで歩いてきて、判事の机に日誌を置いた。
「時守の日誌です。大公都の時刻の正本として、提出します」
判事が、二冊を並べて開いた。
上から付けた日誌と、下から付けた修理帳。
書記官が読み上げはじめた。日誌の日付と分数。修理帳の日付と分数。四十二分と、四十二分。来ずと、来ず。九十八分と、九十八分。
一分も、違わなかった。
二人とも、毎週、同じ真鍮の線で時刻を合わせていたのだから。
ページをめくる音だけが、法廷に響いた。
「最後の日付を」
判事が言った。書記官が日誌を読んだ。
「正午、影が正午線を渡る。湖畔の女性、正午一分過ぎに去る。連れ、十二時二分着。鐘、三分遅れ。理由、鐘守、私用にて持ち場を離れる」
傍聴席がざわめいた。刷り物を読んだ人たちが、塔の上の男を見た。
男爵様は、背をまっすぐにしたまま、判事のほうだけを見ていた。
「判事様」
車椅子の上から、マノン様が声を上げた。
「療養所の面会簿の写しを、お持ちしました。ラヴァンシー様が見舞いに来られたのは、三年で四十回です」
ジルベール様が振り返った。机の上で組んでいた指が、ほどけていた。
「マノン、それは」
「残りの日曜日、あなたがどこにいたか、わたしは父から聞いています」
マノン様は、咳を一つこらえて言った。
「わたしを、言い訳にしないで」
判事は、長くは考えなかった。
届けられた「正当な理由」のうち、百十六回は偽り。最後の日曜も、公の正午に時計台の下にいたのはアマン嬢で、ラヴァンシー殿は正午を二分過ぎていた。違約はラヴァンシー殿の側にある。婚約はアマン嬢の側から解くことができ、違約金はラヴァンシー殿が払う。
ジルベール様は、何か言おうとして、傍聴席のいちばん前にいた銀行家らしい男の人を見た。その人——デュクロ男爵は、黙って席を立ち、振り返らずに出ていった。
ジルベール様は、わたしのほうを見た。三年間で、いちばん長くわたしの顔を見ていたと思う。
「フリーダ。君は、待てる人だったじゃないか」
わたしは答えなかった。答える言葉は、もう修理帳の中に全部書いてあった。
「約束の時刻に来ない男か」
誰かが、はっきり聞こえる声で言った。時間を守る国で、それはいちばん重い言葉だった。
審理が閉じられようとしたとき、いちばん後ろの席の、灰色の外套の人が立ち上がった。
法廷の全員が、立ち上がった。
大公ヴェンツェル殿下だった。遅れてきた者とは会わない、と言われる人だ。
「時計台守の件は、大公都の時刻の件だ。私が決める」
殿下は、判事の机の日誌を見下ろした。
「二百年、この日誌に嘘はない。今度も、鐘守は自分の遅れを書いた」
それから、男爵様を見た。
「遅れを書いた日誌だから、私はこれを正本とする。二十年に一度の三分を、正直に書いた者の職は解かない」
男爵様が、深く頭を下げた。
殿下はそれだけ言うと、外套を翻して出ていった。扉の上の時計は、閉廷の予定の時刻を一分も過ぎていなかった。
*
次の日曜日、わたしは正午の十五分前に広場へ行った。
湖の上を、白い雲が一つ流れていた。工房では、父が朝のうちに道具の値札を全部外していた。
時計台の下に、もう人が立っていた。黒い上着の肩に、真鍮の粉がついている。
塔の窓を見上げると、若い副守が、鐘の綱を両手で握っていた。
「エリアス様。鐘は」
「今日は、あの子が鳴らします。正午の見方は、この一週間で叩きこみました」
エリアス様は、少しだけ目を伏せた。
「それに、私はもう、塔の上から見ているのはやめようと思いまして」
わたしは、何と答えればいいのか分からなかった。
エリアス様は、足もとの真鍮の線を見た。
「次の約束からは、私が先に来て待ちます」
「では」
わたしは懐中時計を出した。
「わたしは、遅れずに来ます」
二人で、正午線を見た。
塔の影の端が、真鍮に触れた。ゆっくり、線を渡っていく。
秒針が、十二を指した。
鐘が鳴った。
一秒も、遅れなかった。
その日から、わたしは待った分数を書くのをやめた。
修理帳の余白に書くのは、会えた時刻だけになった。




