第1話 名前がない
人間、終わるときはあっけない。
……なんて、それっぽいことを言ってみたが、俺の場合は本当にあっけなかった。
最後に見た景色は、薄暗い六畳間の天井だった。
カーテンは閉めっぱなし。床には空のペットボトルと、食べ終わったカップ麺の容器。机の上には電源を落とし忘れたパソコン。画面には、昨日から更新されていない動画サイトのトップページ。
要するに、いつもの部屋だ。
俺はその部屋で、いつものように寝転がっていた。
仕事はしていない。
学校にも行っていない。
家族との会話は、ここ数年で片手の指ほど。
世間的に言えば、引きこもりニート。
自分で言うと少し傷つくが、まあ、事実なので反論できない。
そんな俺が、ある日突然、死んだ。
理由は知らない。
病気だったのかもしれないし、寝不足だったのかもしれないし、栄養失調だったのかもしれない。あるいは、単に俺という人間の使用期限が切れただけかもしれない。
どちらにせよ、ろくな人生ではなかった。
友達もいない。
恋人もいない。
誇れるものもない。
死んだあと、誰かが本気で泣いてくれるかどうかも怪しい。
そう思った瞬間、目の前が真っ白になった。
そして次に目を開けたとき、俺は知らない場所にいた。
「ごめんなさい!」
知らない女が、土下座していた。
いや、女と言っていいのかどうかはわからない。
見た目は十代後半くらいの少女だ。銀色の髪に、透き通るような白い肌。背中には、申し訳程度に光る輪っかのようなものが浮いている。
服は白い。
背景も白い。
床も白い。
天井があるのかどうかもわからない。
あまりにも白すぎて、目が痛い。
「……どちら様で?」
俺がそう言うと、少女は土下座したまま顔を上げた。
「管理神エルメアです!」
「はあ」
「あなたを、間違えて死なせてしまいました!」
「はあ?」
反応が間抜けになったのは許してほしい。
いきなり白い空間に飛ばされて、知らない自称神に土下座されて、しかも死因が「神のミス」だと言われたら、誰だってそうなる。
「え、俺、死んだんですか?」
「はい!」
「神様のミスで?」
「はい!」
「……元気よく言うことじゃなくないですか」
「本当に申し訳ありません!」
エルメアと名乗った少女は、再び額を床にこすりつけた。
神様の土下座。
ありがたみがあるのか、ないのか。
俺はぼんやりとそれを眺めながら、ひとつだけ思った。
ああ、やっぱり俺の人生って、最後まで他人の都合で終わるんだな。
親の期待に応えられず。
社会に馴染めず。
人と関わるのが怖くなり。
部屋に閉じこもって。
最後は神様の操作ミス。
さすがに笑えない。
「で、俺はこれからどうなるんですか。地獄ですか」
「いえ! こちらの不手際ですので、補償として異世界へ転生していただきます!」
「異世界」
聞き覚えのある単語だった。
ネット小説で何度も見た。
死んだ主人公が剣と魔法の世界に行って、チート能力をもらって、なんやかんやで無双するやつだ。
正直、嫌いではなかった。
現実が終わっている人間ほど、そういう話には救われる。
俺も昔はよく読んでいた。
読んでいる間だけは、自分も何かになれる気がした。
「異世界って、あの異世界ですか。剣と魔法と魔王がいる感じの」
「はい! 現在、魔王の侵攻により少々大変なことになっていますが、自然豊かで、王道ファンタジーな世界ですよ!」
「少々大変、の中身が重い」
「大丈夫です。転生者には、特別な能力をひとつ授ける決まりですから!」
来た。
俺は思わず身を乗り出した。
人生をやり直せる。
しかも特別な能力付き。
それがどれだけ都合のいい話でも、どれだけ胡散臭くても、死んだニートに断る理由はない。
「能力って、どんな?」
「あなたに授ける能力は――」
エルメアはぱあっと笑顔になり、両手を広げた。
「《札替え》です!」
沈黙。
白い空間に、気まずい沈黙が広がった。
「……ふだがえ?」
「はい! 物や場所に付いている札を、別の札と貼り替える能力です!」
「札」
「はい!」
「えっと、炎魔法とか、鑑定とか、収納とか、そういうのではなく?」
「札です!」
「剣聖とか、賢者とか、不老不死とかでもなく?」
「札です!」
エルメアは、なぜか自信満々だった。
俺は頭を抱えたくなった。
いや、待て。
こういうのは、意外と応用が効くやつかもしれない。
地味能力が実は最強、みたいな展開は定番だ。俺だってそのくらい知っている。
「具体的には何ができるんですか」
「たとえば、木箱に付いた『野菜』という札を『薪』に貼り替えたりできます!」
「それで中身は?」
「変わりません!」
「変わらないんだ」
「はい!」
「じゃあ、野菜の箱が薪の箱に見えるだけ?」
「正確には、その札を信用する人や仕組みには、薪の箱として扱われる可能性があります!」
「可能性」
「はい!」
弱い。
説明がすでに弱い。
最強という言葉から一番遠い場所にある能力ではないだろうか。
「それ、戦えるんですか?」
「工夫次第です!」
「出た。工夫次第」
「あなたならできます!」
「俺の何を知って言ってるんですか」
「ええと……」
エルメアは目を泳がせた。
神様なのに目を泳がせるな。
「職歴なし、交友関係ほぼなし、外出頻度は月に一度以下、自己肯定感が著しく低く、疑い深い性格……」
「読み上げないでください」
「す、すみません!」
最悪だ。
神様に個人情報を朗読された。
しかも内容が全部刺さる。
「まあ、いいです。どうせ選べないんですよね」
「申し訳ありません。転生処理はすでに開始しています」
「は?」
俺が聞き返した瞬間、足元が光り始めた。
白い床に、複雑な模様が浮かび上がる。円。文字。見たことのない記号。魔法陣と呼ぶしかないものが、俺を中心に回転していた。
「ちょっと待ってください。まだ心の準備が」
「大丈夫です! 基本的な言語理解と最低限の服装は付与してあります!」
「最低限って何ですか」
「あと、能力の使い方は感覚でわかるようにしておきました!」
「説明書は?」
「ありません!」
「神様!」
「本当にごめんなさい!」
光が強くなる。
足元が消える。
身体が浮く。
意識が引っ張られる。
その直前、俺はふと思った。
あれ。
そういえば、まだ聞いていないことがある。
「俺の名前とか、身分とかはどうなるんですか!」
「名前?」
エルメアが、きょとんとした顔をした。
その表情を見た瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
「あっ」
神様が言った。
「あっ?」
「ええと、その、たぶん、大丈夫――」
そこで声は途切れた。
視界が白く弾けた。
次に目を開けたとき、俺は地面に倒れていた。
白い空間ではない。
硬い土の上だ。
鼻に草の匂いが入ってくる。
頬に冷たい風が当たる。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
ゆっくりと身体を起こすと、目の前には見たこともない景色が広がっていた。
青い空。
広い草原。
遠くには森。
そのさらに向こうには、白い壁に囲まれた町らしきもの。
空には、鳥ではない何かが飛んでいた。
翼のあるトカゲみたいな生き物だ。
「……本当に異世界かよ」
自分の声が震えていた。
怖い。
でも、少しだけ胸が高鳴ってもいた。
終わったはずの人生が、もう一度始まった。
それがどれほど不安でも、俺はまだ生きている。
生きているなら、とりあえずやることは決まっている。
飯。
水。
寝床。
人間、まずはそこからだ。
夢とか冒険とか魔王討伐とか、そういう高尚な話は腹が満たされてからでいい。
俺は自分の服装を確認した。
薄茶色の上着。
丈夫そうなズボン。
歩きやすそうな靴。
腰には小さな布袋がひとつ。
布袋の中には、銅貨らしき硬貨が数枚入っていた。
少ない。
たぶん、本当に最低限だ。
「異世界でも初期資金が少ないの、妙に現実的だな……」
俺は立ち上がり、遠くの町へ向かって歩き出した。
町に近づくにつれて、道が見えてきた。
荷馬車が通った跡がある。人の足跡もある。少なくとも、完全な未開の地ではなさそうだ。
街道に出ると、何人かの旅人とすれ違った。
鎧を着た男。
杖を持った女。
荷物を背負った商人風の老人。
誰も俺を気にしない。
よかった。
いきなり異世界人だとバレて捕まる、なんて展開はなさそうだ。
町の門まで来ると、槍を持った門番が二人立っていた。
緊張で喉が乾く。
人と話すのは苦手だ。
現実世界でも、コンビニの店員に「温めますか」と聞かれるだけで一瞬固まる人間だった。
まして相手は槍持ちの門番。
目つきが悪い。体格がいい。逃げたら絶対に追いつかれる。
「止まれ」
低い声。
俺は反射的に止まった。
「通行証は?」
「え、あ、すみません。持ってないです」
「初めての町か」
「はい。そんな感じです」
そんな感じ、って何だ。
自分でも意味がわからない。
門番は俺をじろじろと見たあと、木の板のようなものを差し出した。
「名前を書け。滞在は三日までだ。問題を起こすな」
「名前」
嫌な単語だった。
さっきの神様の「あっ」が、頭の奥で蘇る。
でも、さすがに大丈夫だろう。
名前くらい、前世の名前を書けばいい。
俺は板を受け取った。
そこには薄く光る文字が浮かんでいた。
――入町記録。
――氏名。
――出身地。
――職業。
文字は読める。
神様の言った言語理解は、ちゃんと働いているらしい。
俺は門番に渡されたペンを握り、氏名の欄に前世の名前を書こうとした。
その瞬間。
手が止まった。
「……あれ?」
思い出せない。
自分の名前が。
いや、そんなはずがない。
何十年も使ってきた名前だ。役所の書類にも、学校の名簿にも、宅配便の伝票にも、何度も書いてきたはずだ。
なのに、出てこない。
苗字も。
名前も。
漢字も。
読み方も。
頭の中に、ぽっかり穴が空いたみたいに、そこだけが抜け落ちていた。
「どうした」
門番が眉をひそめる。
「いや、その……」
「名前を書け」
「えっと」
思い出せ。
思い出せ。
自分の名前だぞ。
こんなもの、忘れるはずがない。
なのに、何も出てこない。
焦れば焦るほど、頭の中が白くなる。自分が誰だったのか、その輪郭までぼやけていくような感覚があった。
「おい」
門番の声が低くなった。
「まさか、名前がないのか?」
周囲の空気が変わった。
近くを通りかかった商人が足を止める。
荷物を背負った女が、俺から一歩離れる。
もう一人の門番が、槍を握り直す。
名前がない。
その言葉が、この世界でどういう意味を持つのか、俺はまだ知らない。
でも、彼らの反応だけでわかった。
まずい。
かなり、まずい。
「い、いや、あります。ありますけど、ちょっとど忘れして」
「名前をど忘れする奴がいるか」
それはそう。
俺だってそう思う。
「出身地は?」
「えっと……遠いところです」
「職業は?」
「……ないです」
「無職か」
「はい」
門番の目が、さらに険しくなった。
異世界初日。
名前なし。
出身不明。
無職。
怪しさの三冠王である。
俺が門番なら、絶対に通したくない。
だが、門番はしばらく俺を睨んだあと、面倒くさそうに舌打ちした。
「入町税、銅貨三枚」
「え、入っていいんですか?」
「三日だけだ。問題を起こしたら叩き出す。あと、宿に泊まれるかは知らん」
俺は慌てて銅貨を払った。
門番は板の氏名欄に、何かを書き込む。
覗き込むと、そこにはこう記されていた。
――名無し。
胸の奥が、妙に冷えた。
俺は門をくぐった。
町の中は、想像していた異世界そのものだった。
石畳の道。
木とレンガの建物。
露店に並ぶ果物。
剣を腰に下げた冒険者らしき人々。
どこかから漂ってくる焼いた肉の匂い。
腹が鳴った。
そうだ。
まずは飯だ。
名前のことは気になる。
ものすごく気になる。
でも、空腹の前では人間の悩みなど無力だ。
俺は露店で一番安そうなパンを買った。
銅貨一枚。
硬くて、少し酸っぱいパンだったが、食べられるだけありがたい。
問題は寝床だった。
日が傾き始めると、急に不安が増してくる。
知らない町。知らない世界。知り合いゼロ。所持金はほぼ空。
前世では部屋にいればよかった。
外に出なければ、世界と関わらずに済んだ。
でも、この世界に俺の部屋はない。
俺は通りを歩き回り、比較的安そうな宿屋を見つけた。
看板には、『羊の尻尾亭』と書かれている。
かわいい名前だ。少なくとも、店構えは怖くない。
俺は深呼吸してから扉を開けた。
中は暖かかった。
食堂を兼ねているらしく、何人かの客が木のテーブルで食事をしている。肉の焼ける匂いと、スープの匂い。笑い声。食器の音。
胸が苦しくなった。
こういう場所は苦手だ。
知らない人間がたくさんいる。
誰も俺を見ていないのに、全員に見られている気がする。
それでも、外で寝るよりはましだ。
俺は受付らしきカウンターに向かった。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
店主らしき中年の女性が、にこやかに言った。
「あ、はい。一晩、お願いしたいんですが」
「素泊まりなら銅貨四枚。食事付きなら六枚だよ」
足りない。
俺の手元に残っているのは銅貨二枚だけだった。
詰んだ。
早い。
異世界初日で詰むのが早すぎる。
「あの、銅貨二枚で、床だけでも」
「うちは馬小屋じゃないよ」
「ですよね」
終わった。
俺が引き下がろうとしたとき、店主は少しだけ表情を和らげた。
「皿洗いでもするなら、まけてやってもいいけどね」
「やります」
即答だった。
プライドなどない。
元から持っていない。
「じゃあ、宿帳に名前を書きな」
店主は分厚い帳面を開いた。
その瞬間、まただ。
背筋が冷たくなった。
「名前、ですか」
「当たり前だろ。泊まる客の名前も知らずに部屋を貸せるかい」
「ですよね」
俺はペンを握った。
でも、やはり書けない。
前世の名前は思い出せない。
この世界の名前など、当然ない。
冗談みたいな話だ。
宿に泊まるためには名前がいる。
でも、俺には名前がない。
人生をやり直す前に、宿泊の時点で詰んでいる。
「あの」
「なんだい」
「名前が、ちょっと……」
店主の顔から、笑みが消えた。
食堂の音が、少しだけ遠くなる。
「名前が、何だって?」
「いや、その、今は書けないというか」
「名乗れない事情でもあるのかい?」
「そういうわけでは」
「犯罪者かい?」
「違います」
「じゃあ、呪われ者かい?」
呪われ者。
その単語に、客の何人かがこちらを見た。
俺は首を振った。
「違います。本当に、ただ名前が――」
ない。
そう言いかけて、喉が止まった。
言ってはいけない気がした。
門番の反応を思い出す。
周囲の人々が離れたあの感じ。
槍を握り直した音。
名前がないことは、この世界ではただの珍事ではない。
もっと悪い何かだ。
「出ていきな」
店主が低い声で言った。
「え」
「名前を書けない客は泊められない。うちに面倒を持ち込まないでおくれ」
「でも、皿洗いなら」
「出ていきな」
二度目は、はっきりと拒絶だった。
俺は何も言えなかった。
反論すれば、さらに目立つ。
目立てば、きっとろくなことにならない。
昔からそうだった。
余計なことを言うと、必ず失敗する。
なら黙って引くのが一番いい。
俺は頭を下げ、宿屋を出た。
外はもう暗くなり始めていた。
通りに灯りがともり、人々は家や宿へ帰っていく。
扉が閉まる音がする。
笑い声が遠ざかる。
俺だけが、行く場所を持っていなかった。
「……異世界でも、これか」
思わず笑いが漏れた。
前世では社会に居場所がなかった。
転生したら、今度は世界に登録されていなかった。
どこまで行っても、俺は外側らしい。
腹は減っている。
身体は疲れている。
頭は混乱している。
それでも、死にたくはなかった。
せっかくもう一度生きている。
神様のミスだろうが、名前がなかろうが、無職だろうが。
死にたくない。
それだけは、はっきりしていた。
俺は人気の少ない路地に入り、壁にもたれて座り込んだ。
今夜はここで寝るしかない。
そう思ったときだった。
視界の端に、木箱が見えた。
宿屋の裏口の近くに積まれた、古びた木箱。
その側面に、小さな札が付いている。
――廃棄予定。
文字が読めた。
それだけなら、何でもない。
ただの荷札だ。
だが俺は、その札を見た瞬間、妙な感覚を覚えた。
指先がむずむずする。
頭の中に、ぼんやりと使い方が浮かぶ。
触れれば、替えられる。
そう、わかった。
俺はゆっくりと立ち上がり、木箱に近づいた。
周囲に人はいない。
宿屋の中からは、食器の音と客の笑い声が聞こえる。
俺は木箱の札に触れた。
すると、札の文字が淡く光った。
――廃棄予定。
そして、すぐ隣に積まれた別の木箱の札も見えた。
――保存食。
俺の能力。
《札替え》。
地味すぎると思った、神様のミスみたいな能力。
俺は息を呑んだ。
もし、この札を入れ替えたら?
廃棄予定の箱は保存食として扱われる。
保存食の箱は廃棄予定として扱われる。
中身は変わらない。
でも、扱いは変わる。
この世界が札を信用するなら。
人間が札を見て判断するなら。
俺は、まだ生き延びられるかもしれない。
そのとき、背後で小さな物音がした。
振り返る。
路地の奥に、誰かが立っていた。
小柄な影。
ぼろぼろの外套。
月明かりに照らされた、無表情な少女。
少女は何も言わず、ただ俺を見ていた。
その首元には、黒い札が下がっている。
そこに書かれていた文字を見て、俺は息を止めた。
――名前なし。
俺と同じだ。
いや。
同じ、なのか?
少女は静かにこちらへ一歩近づいた。
そして初めて、唇を動かした。
「……それ、替えられるの?」
俺は答えられなかった。
異世界初日の夜。
名前のない俺は、名前をなくした少女と出会った。




