表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/21

7. 二〇一号室にて

 柔らかな日差しが瞼を照らし、淡い冷気がカーテンを揺らす。

 木の匂いのするこの部屋には、潮の気配も汽笛の名残もない。

 その静けさだけで、ここがもう故郷ではないと知れた。


 寝台から身を起こすと、床板がわずかに軋んだ。

 この宿舎の木は外の空気よりも冷たく、しかしどこか乾いたあたたかさを含んでいる。

 長く時間をかけて落ち着いた家の匂いがして、私はほっと息をついた。


 机の上には昨日受け取ったばかりの学院の手引きが置かれていた。

 めくれた頁の端に、見覚えのない印が小さく押されている。

 図書館で父が使っていた分類印に似ていて、気付けば私は指を翳していた。

 紙の感触は、故郷を離れたばかりの心を宥めるように、ひどく穏やかだった。



 食堂へ向かおうと扉に手をかけたそのとき、ふと胸の奥がざわついた。


 ——あの子は、もう起きているだろうか。


 汽車の揺れの中で隣に座り、寮まで肩を並べて歩いた銀髪の少女。どこか儚げなのに、ふとした瞬間だけ宿す鋭い瞳が忘れられなかった。


 私は部屋を出て、静まり返った廊下にそっと足を踏み出した。

 床には窓から射す淡い光が道筋を示すように延びていた。


 私は導かれるようにして歩き、二〇一号室の前に来た。

 扉の前に立ち、軽く深呼吸する。静かな寮に響かぬよう、控えめに扉を叩いた。


「……おはよう。起きてる?」


 一拍置いても反応がない。もう一度、少しだけ強く叩く。

 すると、布がもぞりと動く微かな音がして、掠れた声が返ってきた。


「……ん、だれ……? あぁ……あなた、ね……。」


 鍵の開く音。扉がきいと小さく開くと、銀髪が朝の光を受けて淡く光り、そこに眠気の残る彼女の姿が現れた。薄手の寝間着の袖を握りしめ、半分だけ開いた瞳で私を見上げる。


「もう……朝なの……?」

「うん。朝食の時間が近いから、迎えにきたんだ。」

 そう言うと、彼女は一度小さく瞬きをし、寝起きらしいぼんやりした笑みを浮かべた。汽車の中で見たものより、少しだけ幼い表情だった。


「迎えに……ありがとう。ひとりだと、たぶん起きられなかった。」

 安堵が溶けるような声音だった。


「支度できるまで待ってるよ。廊下で——」

「中に入って。すぐ終わるから。」

 彼女は小さく首を振り、扉を少し広く開いた。


 控えめながらも上品な調度の整った一人部屋には、朝の光が静かに差し込んでいた。書き物机の上には昨日の入学手引きが開かれたままで、栞の布が風もないのにわずかに揺れている。


 彼女は鏡台の前に座ると、銀の髪を指でそっと梳き、眠気を振り払うように背を伸ばした。淡い光がその髪に触れ、まるで霧中の月のような色合いを帯びる。


「……待たせないって言ったけど、髪が言うこと聞かない……。」

「……大丈夫?」

 思わず声が漏れると、彼女は一瞬だけこちらを見る。

 そしてためらった後、かすかに頷いた。

「少しだけ……手を貸してくれる?」


 髪を結ぶ途中、彼女の肩がほんの少しだけ震えた。緊張か、あるいは朝の冷えか。私は手を止めず、静かに整えていく。


 やがて艶やかな銀髪がゆるく一つにまとめられると、彼女は鏡越しに私を見て、柔らかく笑った。

「ありがとう。……じゃあ、一緒に行きましょう。」

「うん。行こうか。」


 扉を開けると、朝の光がふたりを迎え入れた。

 静かな寮の廊下には、まだ誰の足音もなかった。

 その静けさの中を歩きながら、ようやく私は気がついた。


 新しい生活の始まりは一人ではなく――

 最初からふたりで迎えていたのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ