7. 二〇一号室にて
柔らかな日差しが瞼を照らし、淡い冷気がカーテンを揺らす。
木の匂いのするこの部屋には、潮の気配も汽笛の名残もない。
その静けさだけで、ここがもう故郷ではないと知れた。
寝台から身を起こすと、床板がわずかに軋んだ。
この宿舎の木は外の空気よりも冷たく、しかしどこか乾いたあたたかさを含んでいる。
長く時間をかけて落ち着いた家の匂いがして、私はほっと息をついた。
机の上には昨日受け取ったばかりの学院の手引きが置かれていた。
めくれた頁の端に、見覚えのない印が小さく押されている。
図書館で父が使っていた分類印に似ていて、気付けば私は指を翳していた。
紙の感触は、故郷を離れたばかりの心を宥めるように、ひどく穏やかだった。
食堂へ向かおうと扉に手をかけたそのとき、ふと胸の奥がざわついた。
——あの子は、もう起きているだろうか。
汽車の揺れの中で隣に座り、寮まで肩を並べて歩いた銀髪の少女。どこか儚げなのに、ふとした瞬間だけ宿す鋭い瞳が忘れられなかった。
私は部屋を出て、静まり返った廊下にそっと足を踏み出した。
床には窓から射す淡い光が道筋を示すように延びていた。
私は導かれるようにして歩き、二〇一号室の前に来た。
扉の前に立ち、軽く深呼吸する。静かな寮に響かぬよう、控えめに扉を叩いた。
「……おはよう。起きてる?」
一拍置いても反応がない。もう一度、少しだけ強く叩く。
すると、布がもぞりと動く微かな音がして、掠れた声が返ってきた。
「……ん、だれ……? あぁ……あなた、ね……。」
鍵の開く音。扉がきいと小さく開くと、銀髪が朝の光を受けて淡く光り、そこに眠気の残る彼女の姿が現れた。薄手の寝間着の袖を握りしめ、半分だけ開いた瞳で私を見上げる。
「もう……朝なの……?」
「うん。朝食の時間が近いから、迎えにきたんだ。」
そう言うと、彼女は一度小さく瞬きをし、寝起きらしいぼんやりした笑みを浮かべた。汽車の中で見たものより、少しだけ幼い表情だった。
「迎えに……ありがとう。ひとりだと、たぶん起きられなかった。」
安堵が溶けるような声音だった。
「支度できるまで待ってるよ。廊下で——」
「中に入って。すぐ終わるから。」
彼女は小さく首を振り、扉を少し広く開いた。
控えめながらも上品な調度の整った一人部屋には、朝の光が静かに差し込んでいた。書き物机の上には昨日の入学手引きが開かれたままで、栞の布が風もないのにわずかに揺れている。
彼女は鏡台の前に座ると、銀の髪を指でそっと梳き、眠気を振り払うように背を伸ばした。淡い光がその髪に触れ、まるで霧中の月のような色合いを帯びる。
「……待たせないって言ったけど、髪が言うこと聞かない……。」
「……大丈夫?」
思わず声が漏れると、彼女は一瞬だけこちらを見る。
そしてためらった後、かすかに頷いた。
「少しだけ……手を貸してくれる?」
髪を結ぶ途中、彼女の肩がほんの少しだけ震えた。緊張か、あるいは朝の冷えか。私は手を止めず、静かに整えていく。
やがて艶やかな銀髪がゆるく一つにまとめられると、彼女は鏡越しに私を見て、柔らかく笑った。
「ありがとう。……じゃあ、一緒に行きましょう。」
「うん。行こうか。」
扉を開けると、朝の光がふたりを迎え入れた。
静かな寮の廊下には、まだ誰の足音もなかった。
その静けさの中を歩きながら、ようやく私は気がついた。
新しい生活の始まりは一人ではなく――
最初からふたりで迎えていたのだと。




