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2. 刻まれるもの

 九歳の誕生日の朝、港の方から汽笛の低い音が響いた。

 あの音を聞くと、今でも胸の奥が微かにざわめく。

 港に並ぶ船のうち、蒸気船はほんの数隻しかない。

 けれど煙を上げて動くその鉄の船は、誰の目にも未来そのものに見えた。

 白い霧の向こうで、世界が音を立てて形を変えていく気がした。


 その日は私にとって特別な日だった。

 魔術学院への入学を前に、自分の魔術杖を手に入れる日だ。


 父はすでに玄関に立っていた。

 黒い外套の襟を正す仕草が、どこか儀式めいて見えた。

 私は少し緊張しながらも、靴を履く音でその沈黙を破る。

 「行こう。」

 短くそう言って、父は扉を開けた。

 港から吹く風は冷たく、けれどどこか清らかだった。



 最初に訪れたのは時計を扱う店だった。

 その店は、商業区のなかでも比較的静かな裏通りにある。

 外の喧噪とは対照的に、店内では時計の針の音だけが空気を満たしていた。

 棚には大小さまざまな時計が並び、振り子が微かに揺れるたびに、外光が真鍮の面を滑っていく。


 父はしばらく店内を見回し、ひとつの時計を手に取った。

 銀の外殻に細かな刻印が施され、表面は鈍く光っていた。

 「これを。」

 短く言って、父はそれを私に渡した。


 受け取った瞬間、掌に確かな重さが伝わった。

 耳を寄せると、内部で細い針が律儀に音を刻んでいる。

 その間隔が胸の鼓動と重なるのを感じた。



 次に訪れたのは、革細工の店だった。

 革の匂いが漂い、壁一面に吊るされた鞄やベルトが鈍い光を返している。

 店主の老職人は父を見るなり黙礼し、奥から数本のベルトポーチを持ってきた。

 薬瓶を固定するための輪や、留め具に刻まれた魔術文字が淡く光を放っている。


 「つけてみなさい。」

 父の言葉に従い、私はそれを腰に巻いた。

 革の感触が冷たく、金具の重みが身体に馴染んでいく。

 歩くたびに、微かに鳴る金属音が心地よかった。


 父は私の姿を一瞥し、外套の襟を整えた。

 「――これでよい。」

 その言葉には、喜びとも不安ともつかぬ響きがあった。

 私は頷きながらも、父が視線を逸らした先に、何かを思い出そうとしているような静けさを感じた。



 最後に訪れたのは、魔術具の工房だった。

 扉を押すと鈴が鳴り、温かな木の匂いが流れ出す。

 壁には杖の素材となる木や鉱石が整然と並び、奥の炉では老職人が魔術の炎を操っていた。

 橙の光が揺れ、父の横顔をかすかに照らす。


 「杖は、君の魔力が馴染むものを選びなさい。」

 職人の声に導かれ、私はいくつかの杖に手を伸ばした。

 樫、柳、楓、柊、白樺に黒檀。

 手に取るたび、表面に淡い線が走る。

 黒檀の杖を握ったとき、光の線ははっきりと紋を描いた。


 「これがいい。」

 私が告げると、職人は頷き、細工途中の杖を炉のそばに置いた。

 「魔術が使いやすいように、予め杖に魔力を通す。だが、それは君自身が行う必要がある。」


 その言葉に、私は戸惑った。

 魔力の扱いなど、学院に入ってから教わるものだと思っていたのだ。

 「大丈夫。この杖は君の魔力を選んでいる。」

 職人はそう言い、微笑んだ。


 私は息を整え、両手で杖を包み込む。

 何も起こらない。

 焦る私に、父の声がかかった。

 「杖を、腕の延長として考えなさい。」

 その言葉に従い、杖と腕とがひとつに繋がるように構えた。

 次の瞬間、木の繊維に沿って温かな気配が走った。

 それが魔力の流れなのだと、直感で理解した。

 杖の表面は静かに光り、職人は満足げに頷いた。


 「立派な杖だ。」

 父がそう言って微笑む。

 私は、ようやく自分の杖を手に入れたのだ。


 父は支払いのために職人と話し始めた。

 私はその間、外で待つことにした。

 夕暮れの通りに出ると、冷たい風が頬を刺した。

 どうしても、杖を試してみたかった。

 私はそれを掲げ、呪文も知らぬまま魔力を流そうとした。

 けれど、何も起こらない。

 諦めて店に戻ろうとしたとき、父がこちらを見つめていた。


 「早く魔術が使えるよう、よく学びなさい。」

 そう言って、穏やかに笑った。


 私たちはそのまま家路についた。



 夕暮れ、港から再び汽笛が鳴った。

 橙の光が街の硝子を染め、屋根の上を滑っていく。

 人々の影が長く伸び、風が潮の匂いを運んだ。


 私は杖を抱き、懐中時計の蓋を開く。

 針は規則正しく回り、音を立てて時を刻んでいた。

 それが、何かが動き始めた証のように思えた。


 父はふと立ち止まった。

 夕陽を背にしたその顔は影に沈み、表情は見えない。

 「――覚えておきなさい。この光にも、代償がある。」


 その声だけが、金色の空に溶けていった。

 私は答えられず、ただその背を追った。


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