16. 杖、葉脈、光
教授は杖を軽く机に当てた。乾いた音が教室に広がり、ざわめきは静かに沈んでいく。
「まずは、魔力を集める感覚だ。それを身体で覚えるところから始める。」
教授は教壇を降り、席の間をゆっくり歩きながら続けた。
「魔力投げは、ただ力を前へ押し出す術ではない。方向、速度、質――すべてを、自分の意思で形づくる。ここが難しい。」
生徒たちがわずかに姿勢を正した。隣の少女も背筋を伸ばし、静かに息を整えている。先ほど蝶を見たときの驚きが、まだ瞳に薄く残っていた。
教授は壁に立てかけられていた厚い板をいくつか無言で浮かせ、前方に整然と並べる。表面には、歴代の生徒たちが刻んだ無骨な傷跡が残っている。
「これらは、諸君の先輩たちが残した跡だ。」
板が静かに並ぶと、教授は言葉を継いだ。
「初めて魔力を放つ者は、決まって出すことばかり考える。だが力は、そう簡単には形にならん。」
杖の先端で、板を軽く叩く。
「だから最初は、魔力を一点に集める練習だ。」
少女が小さく呟く。
「一点に……集める……」
その声に、私も心の内でうなずく。
温室で触れた葉脈の繊細さを思い出す。魔力もまた、あの線をなぞるように形を成すのかもしれない。
教授は教壇へ戻り、静かに指示を出した。
「杖を出しなさい。――魔力を、杖の先へ集める。投げる必要はない。ただ集めるだけでよい。」
教室の空気がわずかに揺れた。
外套から杖を取り出すと、木の感触が掌に落ち着く。まだ馴染みきらない重さだが、その不安定さが逆に心を定めた。
「できるかな……」
少女が囁く。
「きっとできるよ。」
私は短く返し、深く息を吸った。
教室は静まり返る。
皆が同じように杖を握り、目を閉じる者、先端を凝視する者、それぞれが自分の気配と向き合っていた。
私は杖先へ視線を落とし、意識を一点へ収束させる。
温室の柔らかな緑、葉の薄い膜をそっと押したときのわずかな弾力。
その手触りが、記憶の底から静かに浮かび上がる。
魔力が、体の奥に潜む小さな脈として確かに息づくのを感じた。
息を整え、ほんの少しだけ力を流し込む。
――光が、針の先ほど細く揺れた。
微かな光だったが、それでも間違いなく自分の魔力だった。
「焦るな。感じろ。魔力は命の水脈と同じだ。急けば濁る。」
教授の声が、静かに空気へ染み込む。
再びゆっくり息を吸うと、光はわずかに強まった。
隣を見ると、少女の杖先にも小さな白光が灯っていた。
彼女は気づくと、ほんの少しだけ微笑んだ。
胸の奥が静かに熱を帯びた。
六年という歳月が、ここから動き出すのだと淡く思った。
教授が教室を見渡し、低く告げる。
「――よし。その光を絶やすな。今日から諸君は、“投げる”以前に、その力を“集める”ことを学ぶ。」
静かな緊張が、再び教室全体を満たす。
練習はしばらく続いた。
光を保つこと、弱まりそうになったら呼吸を整えること。
魔力は筋肉ではなく、呼吸と意識に応えるものだと、教授は繰り返し示した。
ときどき、誰かの光がふっと消える。
緊張が途切れたのか、焦りが漏れたのか――そのたび教室の空気がざわりと揺れた。
しかし教授は叱らなかった。
「消えたなら、それも一つの観察だ。自分がどこで緩んだかを感じなさい。」
その声に、生徒たちは再び杖を握り直した。
私も、何度か光がふっと薄れた。
胸の奥の熱が乱れると、光もまた脆く揺れた。
少女も同じらしく、小さな吐息をこぼしては、また灯し直していた。
その繰り返しが、不思議と心を落ち着かせた。
やがて、教壇の上の時計が柔らかく鳴った。
教授は手を叩き、全員に杖を下ろさせた。
「――今日はここまでだ。」
緊張が一斉にほどけ、椅子のきしむ音が重なった。
教授は板を下げながら、最後に言葉を添える。
「魔力は諸君自身の延長だ。扱い方ひとつで、命を護りもすれば、奪いもする。
だからこそ、今日のような“感じる”練習を怠るな。」
静かに告げるその声音に、誰もが息を呑んだ。
「明日は、集めた魔力を保持する時間を伸ばす。各自、今日の感覚を覚えておくように。」
教授は軽く杖を振る。
板は音もなく元の場所へ戻り、教室は日常の静けさを取り戻した。
授業が終わり、教室にざわめきが戻る。
少女が小さく伸びをして、こちらを見た。
「……思ったより難しかったね。」
「うん。でも、できないわけじゃない。」
「それは……そうだね。」
彼女はほっと息をつき、微笑む。
その光景に、温室の緑がふっと重なった。
小さな光を灯せたこと。
それが、この学院での最初の確かな一歩になるのだと感じた。
教室の扉が開き、昼の光が廊下から差し込んだ。
こうして、私たちの初めての魔術の授業は、静かに幕を閉じた。




