表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

静かな一時

作者: P4rn0s

春のはじめの午後だった。

風が少し強くて、バス停のそばの木が騒がしく揺れていた。

その音にかき消されるように、何も言わず、二人は並んで立っていた。

もう何度も話したはずなのに、話し足りないような、話せることなんてもう何もないような、そんな空気だけがあった。

彼女の鞄には、昨夜ぎりぎりまで詰めていた荷物がぎゅうぎゅうに詰まっていて、口が少しだけ開いている。

中から小さなマグカップの取っ手が少し覗いていた。

いつも、職場で使っていたもの。口のところが少しだけ欠けているのに、「これが一番しっくりくるから」と使い続けていた。

「持っていくんだ」と彼は言った。

彼女は軽く笑って、頷いた。


言葉は、ほとんどなかった。

「気をつけてね」とか、「体に気をつけて」とか、いくらでも言えるけど、どれも表面だけの音になってしまいそうで、口を開けなかった。

本当はもっと言いたいことがあったのかもしれないけれど、それらが口に出てしまった瞬間に、全部が“終わる”ことになってしまいそうで、怖かった。

「時間、まだあるね」と彼女が言った。

「うん」と彼は答えた。

けれど、そんなやり取りはただの埋め草だった。

時間はちゃんと過ぎていたし、バスはもうすぐ来る。

ただ、最後まで残された時間を消費したくなくて、数字から目を逸らしていただけだった。


鳥の声が聞こえた。春のはじめの、どこか落ち着きのない声。

その後ろで、バタン、と遠くで車のドアが閉まる音がした。


「…向こうの駅、あのベンチ覚えてる?」

「うん。あの時寝ちゃったやつでしょ」

「君の隣でな」

「変な寝言言ってたよ」

「どんな?」

「忘れた」


二人とも、少し笑った。

それは確かにあった記憶だけど、それを今、思い出さなくてもよかった。

大切だったから、思い出すことよりも、ただ“そこにあった”という事実だけでよかった。


背中に、風。

耳に、ブレーキの音。


バスがゆっくりと曲がって、こちらに近づいてくる。

車体の白が、太陽の光を受けて眩しかった。

彼女は肩から鞄をずらして、持ち直した。

彼はその動作を見ていた。

まだ何か言えるんじゃないか。

本当は何か言うべきなんじゃないか。

でも、何も出てこなかった。

ただ、何も言わずに立っていた。


やがてバスが停まり、ドアが開いた。

彼女が一歩だけ踏み出した。

そのとき、彼が小さな声で言った。


「行ってらっしゃい」


彼女は振り返らなかった。

でも、ほんの少しだけ顎を引いて、頷いたように見えた。

そしてそのまま、バスの中に入っていった。

ドアが閉まり、バスはまたゆっくりと動き出す。

彼はその車体を、何も言わずに見送った。

バスの後ろ姿が曲がり角に消えていくまで、まるで何かの終わりを確かめるように、まっすぐに見ていた。


それは、別れじゃない。

決して、大げさなものじゃない。

でもたしかに、一緒にいた時間の、最後のひとときだった。


風が吹いた。

春の、少しだけ冷たい風だった。

彼は立ち止まったまま、ポケットに手を入れて、軽く息を吐いた。


あの言葉でよかったのだと思った。

重くなくて、でも、ちゃんと気持ちは込められる言葉。

だから、それでよかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ