静かな一時
春のはじめの午後だった。
風が少し強くて、バス停のそばの木が騒がしく揺れていた。
その音にかき消されるように、何も言わず、二人は並んで立っていた。
もう何度も話したはずなのに、話し足りないような、話せることなんてもう何もないような、そんな空気だけがあった。
彼女の鞄には、昨夜ぎりぎりまで詰めていた荷物がぎゅうぎゅうに詰まっていて、口が少しだけ開いている。
中から小さなマグカップの取っ手が少し覗いていた。
いつも、職場で使っていたもの。口のところが少しだけ欠けているのに、「これが一番しっくりくるから」と使い続けていた。
「持っていくんだ」と彼は言った。
彼女は軽く笑って、頷いた。
言葉は、ほとんどなかった。
「気をつけてね」とか、「体に気をつけて」とか、いくらでも言えるけど、どれも表面だけの音になってしまいそうで、口を開けなかった。
本当はもっと言いたいことがあったのかもしれないけれど、それらが口に出てしまった瞬間に、全部が“終わる”ことになってしまいそうで、怖かった。
「時間、まだあるね」と彼女が言った。
「うん」と彼は答えた。
けれど、そんなやり取りはただの埋め草だった。
時間はちゃんと過ぎていたし、バスはもうすぐ来る。
ただ、最後まで残された時間を消費したくなくて、数字から目を逸らしていただけだった。
鳥の声が聞こえた。春のはじめの、どこか落ち着きのない声。
その後ろで、バタン、と遠くで車のドアが閉まる音がした。
「…向こうの駅、あのベンチ覚えてる?」
「うん。あの時寝ちゃったやつでしょ」
「君の隣でな」
「変な寝言言ってたよ」
「どんな?」
「忘れた」
二人とも、少し笑った。
それは確かにあった記憶だけど、それを今、思い出さなくてもよかった。
大切だったから、思い出すことよりも、ただ“そこにあった”という事実だけでよかった。
背中に、風。
耳に、ブレーキの音。
バスがゆっくりと曲がって、こちらに近づいてくる。
車体の白が、太陽の光を受けて眩しかった。
彼女は肩から鞄をずらして、持ち直した。
彼はその動作を見ていた。
まだ何か言えるんじゃないか。
本当は何か言うべきなんじゃないか。
でも、何も出てこなかった。
ただ、何も言わずに立っていた。
やがてバスが停まり、ドアが開いた。
彼女が一歩だけ踏み出した。
そのとき、彼が小さな声で言った。
「行ってらっしゃい」
彼女は振り返らなかった。
でも、ほんの少しだけ顎を引いて、頷いたように見えた。
そしてそのまま、バスの中に入っていった。
ドアが閉まり、バスはまたゆっくりと動き出す。
彼はその車体を、何も言わずに見送った。
バスの後ろ姿が曲がり角に消えていくまで、まるで何かの終わりを確かめるように、まっすぐに見ていた。
それは、別れじゃない。
決して、大げさなものじゃない。
でもたしかに、一緒にいた時間の、最後のひとときだった。
風が吹いた。
春の、少しだけ冷たい風だった。
彼は立ち止まったまま、ポケットに手を入れて、軽く息を吐いた。
あの言葉でよかったのだと思った。
重くなくて、でも、ちゃんと気持ちは込められる言葉。
だから、それでよかった。