第九話 9
アブ・シンベルを出て、ルクソールに到着した後、僕は、ハトシェプスト女王葬祭殿に向かった。ここは、古代エジプト唯一の女性ファラオであったハトシェプストが造った葬祭殿である。切り立った断崖の下に造られ、太陽神アメンラーを祭神としている。
夫であるトトメス二世が亡くなった後、妾腹でありまだ幼かったトトメス三世を支えるために、ハトシェプストはファラオを名乗った。トトメス三世が長じるまで、二十二年間の共同統治を行っている。この付近には十以上の葬祭殿があるが、ハトシェプスト女王葬祭殿が一番華やかで美しく、近代建築と言ってもいいほどのモダンな外観になっている。中央の階段を登ると、髭を蓄えた四体のハトシェプスト女王とオシリスが一体となった立像に迎えられる。ハトシェプスト女王は、『男装のファラオ』と呼ばれ、公共の場では髭を付け、あくまで男としてふるまったとされる。しかし、この葬祭殿はハトシェプスト女王が亡くなった時は未完成で、実際にはここでハトシェプスト女王の葬式は行われていない。
「義理の息子だったトトメス三世が王になった時に、ハトシェプスト女王を恨んで、この葬祭殿の壁のハトシェプスト女王の名前や絵を削ったとされるけど、ママはそう思ってないの。だって、ハトシェプスト女王は、トトメス三世が大きくなってから、自分の軍隊をトトメス三世に使わせてあげているし、王家の谷のハトシェプスト女王のお墓の隣にトトメス三世の遺体安置所があったの。仲が悪かったら、隣に作ってくれなんてトトメス三世は言わないでしょ。それにね、ハトシェプスト女王は戦いが嫌いで、周りの国と平和外交をしたの。だから、ママはハトシェプスト女王が好きなんだよね」
「ねぇ、ママ、イタイアンチジョってなに?」
「ああ、ごめん! それが分からなかったか! 亡くなった時に、体を置いておく場所のことよ」
「ふーん」
ハトシェプストのミイラは、ハワード・カーターにより、一九〇三年に王家の谷の墓番号KV六〇で発見されていたが、身元不明で長年そのままKV六〇に葬られたままになっていた。しかし、ハトシェプストの名を刻んだカノプス壺からミイラの歯の一部が発見され、このミイラがハトシェプストのものだと後に判明している。ハワード・カーターがハトシェプストのミイラを発見していただなんて、どうしてそんなところを、あの時、僕達三人は周っていたのだろう? 因果なものだなと僕は思った。
そして次に、僕は、この断崖を西に超えた先にある王家の谷へ向かった。
王家の谷のKV六二がツタンカーメンの墓である。このKV六二は、谷の中央の低い位置にあり、墓の入口は、洪水の時の土砂や他の墓の建設時に堆積した瓦礫で覆われていた。また、ツタンカーメンの時代より約二百年後の第二十王朝ラムセス六世の墓が造られた時の作業小屋の下にあったことも、長年発見されなかった要因になっていた。埋葬直後の数年の間に二回の盗掘にあってはいるものの、一九二二年にカーターによって発見されるまで、主だった貴重品が盗まれることはなかった。
この墓は、当時の他の王の墓よりも小さく、おそらく王族ではない者の墓として作られたものを早世したツタンカーメンのために改造されたものだと思われる。墓は、入口の階段、廊下、四つの部屋で構成されている。四つの部屋とは、副室、前室、埋葬室である玄室、宝物庫で、この四つの部屋だけでなく廊下も含めて、五三九八点もの副葬品が納められていた。シャブティと呼ばれる死後の世界で王のために働く小さな人形が四一三体、宝石も二〇〇点以上あった。その他、戦車やベッド、下着や日用品、それに、生前、足が悪く杖をついていたツタンカーメンのために、百三十本以上もの杖が納められていた。
玄室には部屋全体を覆うような大きな厨子が置かれ、その中に三つの厨子と石棺、石棺の中にはまた三つの人型木棺がマトリョーシカのように入れ子状態になっており、マスクを付けたミイラを守っていた。
ツタンカーメンの墓は、観光客に人気があり、多い日は一日で千人以上も訪れるという。僕もその観光客に混じりながら、もう一度、墓の中を見学していた。玄室には、石棺と人型木棺の一つが残されており、前室にはガラスケースの中でツタンカーメンのミイラが眠っていた。
「ここで、ツタンカーメンのミイラは発見されて、一旦は遺体を調べるために運び出されたの。他の王様のミイラは博物館に展示されている人もけど、ツタンカーメンのミイラは、ハワード・カーターの希望によって、またここに戻されたの。だって、ここがこの人のお墓だものね。でも、アンケセナーメンのお腹の中で亡くなったツタンカーメンの二人の女の子の赤ちゃんのミイラも一緒に納められていたのよ」
「えっ? 本当?」
「うん。なんだかね、ママ、それを知った時、すごく悲しかったの」
「どうして?」
「だって、アンケセナーメンが可哀相じゃない? 旦那さんも赤ちゃんも自分より先に亡くなって、ひとりぼっちになったってことでしょ? ツタンカーメンに、どうか赤ちゃんと一緒に、あの世で幸せでいてねと思ってたんだと思うわ」
「そうだね……」
豊子と隼がそう語り、隼も神妙な顔でツタンカーメンのミイラを見ていたのが蘇っていた。
王家の谷を後にして、意を決して向かったのは、ルクソールのフェルッカの船着き場だった。ここに来ることはもう二度とないだろうと思っていたのに、気が付けば、足は勝手に動き、頭は事故のことを思い出そうとしていた。
あの日、僕達は、大学の同僚に薦められたケナのホテルに宿泊するため、フェルッカで向かおうとしていた。ケナに行きたいと思ったのは、愛と美の女神ハトホル神を祭ったデンデラ神殿を隼に見せたいと思ったからである。デンデラ神殿は、複合体になっており、エジプト国内で最も保存状態の良い美しい神殿だった。紀元前二三〇〇年頃の第六王朝のぺピ一世がこの領域を築き、同じ場所で改修され続け、紀元後一〇〇年頃のローマ皇帝のトラヤヌス時代まで存続した。神殿の壁画には、クレオパトラ七世やカエサルとの息子であるカエサリオンを描写しているものもある。
「明日はね、エジプトの神殿の中で一番おすすめのところを隼に案内するわよ」
「へー、どんなところ?」
「外壁の彫刻も凄いけど、柱と天井画が凄いの」
「ふーん」
「それとね、あの時代にあるはずのない物が、壁画のレリーフに彫られているの」
「え? なに? なにが彫られているの?」
「だーめ、教えない」
「え~っ、教えてよ」
「先に教えたらつまんないじゃない。行ってからのお楽しみ」
「ママのケチ! じゃあ、パパが教えて」
「だめだよ。先に教えたらつまらないだろ」
「うわー、こんなパパとママ、いやだ!」
そう隼が叫び、豊子と僕は大笑いしていた。
気持ちの良いナイル川の風に吹かれながら、フェルッカに乗ってそんな話をしていたのに、突然巻き起こった突風に煽られて船はコントロールを失い、隣を並走していたフェルッカが、僕達の乗った船に体当たりしてきた。二艘とも船体は砕かれ、僕達三人だけでなく、船員も他の客も全員が川に放り出された。一体何が起こったのか、訳が分からなかった。
僕は、船の残骸と共に、一旦、川底まで沈みかけた。一瞬ではあったが、気を失っていたのだと思う。しかし、すぐに正気を取り戻して川面まで浮上し、豊子と隼を探した。すると、十メートル先に豊子と隼がいるのを見つけた。どこかに打ち付けたのか胸が痛んだが、それでも僕は二人に近づこうと必死に泳いだ。手を伸ばして、「俺につかまれ!」と叫んだ。しかし、彼らはどんどん僕から離れて行く。豊子も隼も僕に向かって「助けて!」と叫んでいる。僕は、腕が折れようが、足がもがれようが、彼らをとらえるために、渾身の力を振り絞って泳いだ。それなのに、ナイルの風は止むことなく、寧ろどんどん強まり、豊子と隼は下流へ流されて行った。
僕は、運良くたまたま近くを通りかかった漁船に助け上げられた。
ナイル川の水面を悠々と走るフェルッカを見ていると、忘れていたはずの事故の記憶が、まざまざと思い出された。そして、今、自分がどこにいるのか、いつの時代を生きているのか訳が分からなくなった。それなのに、僕は延々と川縁を歩き、豊子と隼と一緒にフェルッカに乗り込んだ船着き場に到着した。
太陽は西に傾き、辺り一帯をオレンジ色に染め、ナイルの水面をキラキラと輝かせていた。幻想的なその光景は、この世のものとは思えないほどに美しかった。そして、豊子と隼は、あの日と全く同じようにフェルッカに乗り込もうとしていた。
僕は思わず叫んだ。
「行かないでくれ!」
すると、二人は驚いて僕のほうを振り返った。
そこにいたのは、豊子と隼ではなく、美豊と隼人だった。
最終話に続く