第八話 4
その頃、美豊は、あれだけ傷つけられたのに、もう一度、横浜の母を訪ねていた。昼過ぎに着いたが、「スナック みすず」の扉は閉まっていた。店の裏に回ると、二階へ続くと思われる扉があったので、ブザーを押してみた。しかし、反応がなかった。美豊は粘り強く何度も何度もブザーを押し続けた。すると、しばらくしてインターフォンに「なんだよ! こっちは寝てんだから邪魔するんじゃないよ!」と母の声がした。
「起こしてごめんなさい。どうしても訊きたいことがあって来たの」
「えっ?」
「美豊です」
「……」
「大事なことなんです。だから来たの」
「……もう二度と来ないと思ってたよ」
「……」
「分かった。店の扉を開けるから、店の前で待ってな」
「ありがとう」
美豊の母は、何も言わずにコーヒーを淹れ、美豊の前に差し出した。
「あんたは甘い物が好きだったから、砂糖もミルクも入れるだろう?」
母はそう言いながら、まるで幼い子供にしてやるように、砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜた。美豊は一口飲み、顔を綻ばせた。母の淹れたコーヒーは、甘く温かだった。
「ところで、話ってなんだい?」
美豊は、首にかかっていたカルトゥーシュを取り外し、母に見せた。
「これの元の持ち主は、誰なのか聞きたかったの」
「あら、懐かしい。これはお前のお父さんが、いつも身に付けていたものだよ」
母はカルトゥーシュを手に取り、眺めながら言った。
「そうだよね? 私も確かにパパから貰ったんだもの。でも、元の持ち主は誰なの? もしかして、お祖父さんがお祖母さんにあげたものだったんじゃないの?」
「そうだね、確か、お父さんは、そんなことを言ってたと思うよ」
「やっぱり……。お祖父さんは、一体誰だったの?」
「さぁね、イギリスの貴族だったらしいと聞いたことがあるけど。日本を旅している時に、お祖母さんと知り合ったとかなんとか言ってたような……。世界旅行中に日本に寄ったらしいから、金持ちだったんだろうなと思った記憶があるよ。だから、貴族だったとしても不思議はないね」
「本当に? イギリス人だったの? 名前は?」
「名前を聞いたとは思うけど、イギリス人の名前だから覚えてないよ」
「もしかして、カーナヴォンとかいう人じゃない?」
「ああ! 確かそんな名前だったよ!」
「やっぱり!」
美豊は、その後、カーナヴォン卿が世界的にも有名な人物だったことを母に説明し、母は目を丸くさせながら美豊の話を聞いていた。
「でも、ママ。どうして歌舞伎町を引き払って野毛に引っ越したの?」
「歌舞伎町に未練がなかったわけじゃないよ。でも、歌舞伎町は、水商売するにはいいかもしれないけれど、人の住むところじゃないからね。あちこちで、しょっちゅうトラブルが起こってるし、たまに人が死んだりするしね」
「そうなんだ……」
「野毛は、歌舞伎町と違ってのんびりしてるんだよ」
「ふーん」
「横浜は長崎に似てる。だから、引っ越したのさ」
美豊は、そう言って笑った母の顔を見て、救われたような気がしていた。