第七話 8
東京から車を走らせ、軽井沢の黒木家の別荘に到着したのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。三日前の美豊はあんなに真剣な顔をして僕のことを心配していたのに、まるでピクニックにでも行くかのように、朝からおにぎりと玉子焼きを大量に作って車中で食べ散らかし、隼人と一緒になってはしゃいでいた。「結局、ただ自分が楽しみたかっただけじゃないか」と僕はぼやいた。
豊子の父が生きていた頃、この別荘に何度も招待された。別荘の目の前に湖があり、豊子と隼と三人で小舟に乗り、よく釣りをしたものだった。おそらく、荘子も豊子に誘われて学生時代にこの別荘に来たことがあるに違いない。この湖では、ニジマスやイワナがよく釣れた。
湖に浮かんでいる小舟をぼんやり見ていると、豊子と隼が今でも生きていて、僕に向かって手を振っているような気がした。その光景に気を取られていると、隼人に「おじさんが呼んでるよ」と声をかけられ、はっと我に返った。目の前に、あの頃より老いた黒木猛が立っていた。猛は、美豊と隼人を見てびっくりし、美豊に向かって、「豊子! 隼! 帰って来たのか!」と叫んだ。
軽井沢の森には、不思議な力がある。木々のざわめきと湖面にゆらゆらと反射する光、それと立ち込める霧で、自分がどこか未知の空間に迷い込んだような気分にさせられる。自分も猛も一歩間違えば、狂気の世界に引きずり込まれるのではないかと思った。しかし、隼人によってすぐに現実に引き戻された。
「違うよ! おじさん! 僕は隼じゃないよ! 隼人というんだよ」
「えっ?」
「こんにちは。私は、緑川先生のお宅でお世話になっている家政婦の一条美豊と申します。この子は私の息子で一条隼人と言います」
「そうか……、一条美豊さんと隼人君というんだね……」
「ええ。黒木先生はエジプト考古学の権威だとお伺いしています。実は、隼人が最近、エジプト文明を勉強し始めまして、ツタンカーメンに凄く興味を持っているんです。だから、緑川先生に無理にお願いして、同行させて頂きました。あのぉ、ご迷惑だったでしょうか?」
「い、いや、構わないよ。蘇生介君には、誰を連れて来てもいいと言ってあったんだから」
「そうですか! それを聞いて安心しました! 私、家政婦ですから、お料理とか何でも遠慮なく申し付けてください」
「ああ、ありがとう……」
僕と黒木猛だけだったとしたら、とてもこんなに和やかな雰囲気にならなかっただろう。僕は美豊に感謝していた。