第四話 6
豊子がエジプトに興味を持ったのは、母のカルトゥーシュがきっかけだったが、猛に虐められて飛び込んだ父の書斎にあった本にも影響を受けた。元々、父はエジプト文明に興味があったらしく、書斎にはエジプトに関連した本が山ほどあった。ツタンカーメンに関する本もかなりあった。仲の良かったツタンカーメン王とアンケセナーメン王妃。ツタンカーメンにはアンケセナーメン以外に妻はいなかったという。エジプト文明は憧れだけでなく、心の平安を彼女にもたらした。
豊子より三つ年上だった猛は、十八歳になるとオランダのライド大学に留学した。しかも、専攻はエジプト文明である。兄はどうしてエジプト文明を選んだのだろう? 兄は、「エジプト文明なんかに興味はない。考古学なんてくだらない。留学するなら、アメリカの工科大学がいい」といつも口にしていたのに……。豊子は、兄の選択を不思議に思った。
父は、大らかなのかそれとも無関心なのか、兄の選択に関して全く疑問に思わないようだった。しかし、貿易会社を経営していることもあって、子供の海外留学には理解があり、自分と同じように海外に兄が興味を持ったことを、ごく自然なこととして捉えていたのかもしれない。その証拠に、「豊子も猛のように留学したいならそうしなさい。留学は、見聞を広める良い機会になるからね」と父は言った。
豊子は、高校二年の夏休みには、アメリカでの短期留学も経験した。留学するなら、やはりアメリカかエジプトにしようか、それとも兄のいるオランダにしようかと迷っていた。豊子と猛との関係は、相変わらずギクシャクしたものだったが、猛は帰国するたびに、豊子に土産を渡した。それは、ラピスラズリのネックレスだったり、ラクダのガラス細工だったり、アヌビス神の置物だったりと、どれも豊子が気に入るようなものばかりだった。それを見て、拓狼が言った。
「なんだ、兄貴。豊子姉ちゃんのことを嫌ってるのかと思ってたら、ちゃんと気を遣ってるじゃないか」
「え?」
「だって、豊子姉ちゃんがエジプトが好きだって知ってて、わざわざエジプトで買ってるし。これ、オランダで買ったものじゃないでしょ」
拓狼は、アヌビス神の置物を手に取り、間近でジロジロ見つめながら言った。
「そうなの?」
「うん。もしかして、ライド大学に入学したのも、豊子姉ちゃんのことを考えてのことだったのかもね」
「ええっ? そこまでする?」
「さぁ? 本当のところは分かんないけど」
豊子は、やっと兄と和解できたのかもしれないと思うと、心にのしかかかっていた重りが少しだけ取れたような気がしていた。