最終話 7
まだまだ時間はあるとはいえ、作治郎教授に言われたように、来シーズンのエジプトでの発掘調査に備えるために、荷造りを始めようと思っていた。しかし、この際、長年放置したままになっていた屋敷中のガラクタを断捨離しようと思いついた。まずは、一番手強いと思われる書斎から取りかかろうと思い、「いるもの」と「いらないもの」の分別をしていたが、全部「いるもの」になってしまい、途方に暮れていた。
そんな時、不意に携帯が鳴った。電話の相手は黒木拓狼だった。僕は、帰国してすぐに、「豊子と隼の消息が分かったので、一度会ってじっくり話がしたい」と彼に電話を入れていたのだった。黒木拓郎は、忙しい仕事の合間を縫って、僕の自宅まで来てくれ、僕は、彼をリビングに通した。
「仕事が忙しいだろうから、僕の方が出向けば良かっただろうに、わざわざ来てくれてありがとう」
「いえ、お電話、ありがとうございました」
「仕事のほうはどうだい?」
「今、円安だから輸入の方は大変です。でも、輸出の方は好調なので、海外の顧客をもっと開拓しようと思っています」
「そうか、そうだよね。会社経営している人を僕は尊敬するよ。商品の目利きもさることながら、資金繰りやら、色々大変だろう? 拓狼君は、若いのに良くやってるよ」
「いや、それほどでも……」
「そんなことないよ。君は立派だ」
僕がそう言うと、黒木拓狼はしきりに謙遜していた。そして、「ところで、豊子と隼のことだが……」と、僕が切り出すと、彼は急に神妙な顔になった。その後、どういう経緯で自分がエジプトに行くことになったのか、それには美豊と隼人が大きく関わっていたことを黒木拓狼に説明した。
「ハン・ハリーリ市場で豊子のカルトゥーシュを見つけたのは、隼人だったんだ。フェルッカの事故に遭ったのはルクソールだったから、まさか、カイロの市場で見つかるなんて思いもよらなかったよ。カルトゥーシュを持ち込んだのは、ケナの浮浪者の少年で、店主はすぐに盗品だと気付いて、売らずにずっと持っていてくれたんだよ」
「はぁ、そうでしたか……。世の中、そんな不思議なことがあるんですね」
「そうだね……。まぁ、何かに導かれたのかもしれない」
「そうかもしれませんね」
「その後、すぐにカルトゥーシュを川で見つけてくれたケナの漁師と遺族に会いに行き、その遺族の人に、豊子と隼を目撃した男性を教えて貰ったんだ。豊子と隼は、船の残骸に一緒につかまって流されていたそうで、男性が助けようとしたら、豊子はそれに気づいて必死で川縁まで泳いだそうだ。でも、川縁に到着した後、隼だけをつかまらせて豊子は手を離し、その後、彼女は力尽きて姿が見えなくなったと言っていた。僕はその様子を聞いて納得したんだ、彼が目撃した女性は間違いなく豊子で、豊子と隼は、やはり亡くなったんだなと」
黒木拓狼は、大きくため息を吐くと、「そうでしたか……。姉らしい最期ですね……」とポツリと呟き、僕は「そうだね、豊子は最期まで優しい人だった」と答えた。
そして、僕は、自分の首に掛けてあったカルトゥーシュを外し、黒木拓狼に見せた。彼は、TOYOKO、JUN、SOUSUKEと彫られている三枚のカルトゥーシュを見て、「この三枚が一緒に見つかったのなら、間違いようがないですね」と言い、僕も頷いた。そして、黒木拓狼は、SOUSUKEと彫られているカルトゥーシュの裏側を見て、「All is love」の文字を確認すると、「姉さんらしい……」と言った。
「緑川さん、実は生前の姉が緑川さんのことで、僕に話していたことがあって、緑川さんにとっては失礼なことだし、初めて聞くことかもしれないですが、お話していいですか?」
「え? どんなこと? 失礼だろうがなんだろうが構わないよ。是非、聞かせて」
「実は、兄と僕は同じ母親なのですが、姉は違うんです。姉は、父が不倫して愛人に産ませた子供なんです。でも、姉の母が亡くなったので、施設にいた姉を捜し出して、父は姉を引き取りました。そのことを姉は緑川さんに何度も話そうとしたそうですが、緑川さんのお祖父さんが白人だったことと、お祖母さんがお祖父さんと結婚していなかったことを緑川さんは卑下していて、姉は自分は育ちが悪いと何度も伝えたけれど、施設にいたということを言えなかった、と言っていました」
「そうだったのか……」
「姉は、僕の家に来て、兄に随分苛められましたが、それでも姉はいつも僕にも兄にも優しく接してくれました。姉の母は、きっと優しい人だったんだろうと思うんです。姉は、『愛こそすべて』といつも言っていましたから。それは、本当にあらゆることに通じると思います。緑川さんもそう思いませんか?」
「そうだね。家族でも商売でも政治でも学問でさえも……」
「僕もそう思います」
「昔ね、豊子の料理がいつも完璧だったから、彼女のことを褒めたことがあったんだよ。君は育ちがいいから料理が完璧なんだろうなって。そしたら、豊子は、料理に育ちは関係ないと言っていた。その後、僕の親父は半分訳の分からない人間の血が混じっているとか言ったら、やっぱり彼女は、人の価値はそんなことでは決まらない、何を持って生まれたかではなく、何をしたかが大事だと言っていた。彼女はいつも正しかったし、僕は、いつもそんな豊子に救われていたんだよ」
「そうだったんですね……」
そんな話を黒木拓狼としていると、美豊と隼人が笑顔で、紅茶とケーキを持って現れた。
「お出しするのが遅くなってすみません。どうぞ召し上がってください」
息せき切っている美豊を見て、「もしかして、今、買いに行ってくれたの?」と僕が言うと、「ええ、まぁ」と美豊が言った。
黒木拓狼は、立ち上がると美豊の手を握って言った。
「豊子姉さんと隼のために色々してくださって、本当に感謝しています」
「いえいえ、大したことはしていません」
美豊は照れながら黒木拓狼にそう返事をし、お辞儀をして隼人と一緒にリビングを出て行った。
「緑川さん、美豊さんと隼人君とこれからずっと一緒に暮らせばいいじゃないですか」
「えっ?」
「姉が反対すると思いますか? 思わないでしょ? 英語も喋れないのにエジプトに姉と隼を捜しに行ってくれたんですよ。そんな人、この世に二人といないでしょ? 彼女の行動は、まさしく人間愛でしょう。愛こそがすべてなんですよ」
そうだ、彼の言う通りだ。美豊が僕に恋愛感情があるからではない。彼女は、僕のことを心から心配し、豊子と隼が生きているなら僕に会わせてやりたいと思っただけなのだ。彼女が持ち合わせているのは、狭くて浅い恋愛感情ではなく広くて深い人間愛なのだ。
その時、どうしてだか、僕の頭の中に突然西部墓地の光景が広がった。見渡す限りのベージュ一色の砂漠の光景。その砂漠の真ん中に天から一条の光が降り注いでいる。まるでここにクフ王の墓が眠っているとでも言うかのように……。
僕は、急いで、作治郎教授に報告しなければと思った。