最終話 5
サイードと別れた後、ルクソールのウィンターパレスホテルに行き、カーナヴォン卿とロバート・ウィルソンに報告をした。カーナヴォン卿もウィルソンも涙ながらに僕と美豊の話に耳を傾けたが、ハワード・カーターの孫である僕に会えて嬉しいと喜んでくれ、夕食に招待してくれた。そして、その夜、僕達は、そのままウィンターパレスホテルに泊まった。
翌朝、僕は市場に赴き、小さな花束を買った。青いヤグルマギクの花束だった。僕は、その花束を手に、豊子と隼と最後にフェルッカに乗った船着き場に向かった。そして、桟橋に腰かけると、豊子とこんな風に桟橋に座り、釣り糸を垂らしながら、とりとめもない話をしていた遠い日のことを思い出していた。
「蘇生介さん、釣りに付き合ってくれてありがとう。私、ナイル川で釣りをするのが夢だったの」
「え? そうなんだ」
「大学の釣りクラブに入部したばっかりの時に、荘子ちゃんにそう言ったら、すぐに友達になれたのよ」
「荘子も豊ちゃんも変わり者だからな。気が合ったんだろうな。しかし、意外だね。豊ちゃんなら、もうとっくの昔にエジプトには何度も来ていると思ってたよ」
「学生の時は、冬休みの発掘ツアーに毎回参加してたけど、釣りをしてる暇なんかないじゃない? 休みがあっても、みんなで博物館に行ったりしてたし」
「まぁ、そうだね。発掘しに来たのであって、遊びに来てたわけじゃないから」
「うん、そう。でも、私、海外旅行自体、そんなにしたことがないのよ。アメリカには留学したことがあるけど、遊び目的で行ったのは、荘子ちゃんと行ったバリ島とドイツとオランダくらい」
「へー、そうなのか。豊ちゃんみたいな貿易会社の社長令嬢は、子供の頃から何度も海外旅行をしているのかと思ってたよ」
「社長令嬢って、その言い方はやめて。父が頑張ってるだけで、私は何も頑張ってないもの」
「あ、そうだね、申し訳ない」
「釣られる魚は可哀相だけど、釣りって、贅沢だと思わない?」
「どういうところが? ただで魚を食べられるところ?」
すると豊子はぷっと噴き出しながら、「もう、冗談はやめてよ! 違うわよ! 時間の使い方!」と言った。
「そうだね。いつも忙しいから、水面を見ながら何にも考えずにボーっとできるのが、最高に贅沢だね」
「そうなの。私、もしかしたら、釣りが好きなんじゃなくて、川や海をボーっと眺めてるのが好きなのかもしれない」
「やっすい趣味だな」
「あー、蘇生介さんて、そんなこと言うんだ。安いは正義なんだから!」
「はははは、全くその通りだ」
そんな話をしていたら、魚が餌に食いついたのか、糸が引き始めた。
「やった! 釣れたぞ!」
そう言いながら、僕は慌てて竿を持ち上げた。しかし、釣れたのは、五センチほどの小さな小さなナマズだった。豊子はその小さなナマズを見て、笑い転げていた。「唐揚げにでもするか」と僕が言うと、彼女はもっと笑い転げた。
若かりし頃、ナイル川の風に吹かれながら、僕達はいつも笑い合っていた。
しばらくの間、桟橋に座り、朝日に煌めくナイルの川面を見つめていたが、やがて立ち上がって呟いた。
「豊子、隼、ここに来れば、いつでも君達に会えるんだな」
そして、ヤグルマギクの花束をナイルに向かって投げ込んだ。すると、僕が花束を投げ込むと同時に、誰かが僕の後ろから同じように、ヤグルマギクを投げ込んだ。僕は驚いて、後ろを振り返った。
そこにいたのは、美豊と隼人だった。美豊は泣いていた。僕は、美豊と隼人を引き寄せて抱いた。美豊は、声を殺して涙を流した。