ウィルの話
ラストの話になります。
このお話は夫婦喧嘩でユリシスを怒らせたウィルが、謝ろうとして失敗した、「上司に相談した」と言っていた、相談するまでの経緯のようなものです。
いつもの仕事ぶりはどこへやら、ポンコツになったウィルを修理するための話です。
王太子が初登場します。
「……おい、ウィル!」
強い口調で呼ばれて、肩をびくりと震わせる。慌てて振り返ると、上司であるエディがこちらを見ていた。
「何度呼ばせるんだ。それ、終わったなら寄こしてくれ」
「あ……申し訳ありません」
ウィルは手元の書類を揃えて、エディへ手渡す。受け取ったエディは素早く目を通し、何やらメモを取っていた。作業がひと段落すると、ウィルをじろりと睨む。
「いつもはねじ巻きのように決められた動きしかしないような奴が、どうしたんだ。ぼーっとして、腑抜けている」
「……申し訳ありません」
「謝罪を要求しているわけではないんだが」
上司に詰められて小さくなっているウィルに、まぁまぁと救いの手が入る。
「よしてやれ、エディ。ウィルは昨夜、妻を迎えたんだ。余韻に浸っていた仕方あるまい」
この部屋の主にして、ウィルとエディの主である王太子、アーロンである。
戦争から帰還してから、ウィルは本格的にアーロンの従者として勤めるようになり、エディを上司として日々励んでいる。
普段は正確な仕事ぶりを評価されているのだが、今日ははっきり言って駄目だった。数分おきにぼうっとして、手が止まる。そんなウィルの様子をエディは訝しんでいたが、アーロンの指摘に納得した。
「そうか、そういえばそうだったな」
戦争から帰還したウィルは、父の死に直面すると同時に、婚約者が浮気をして逃げたと知らされた。ウィル本人は仕方ない事だと割り切り、気にした様子もなかったが、世間はそうはいかない。ウィルの功績を妬む者は「戦争の功労者の傷侯爵も、あの顔では女に見向きもされない」と笑い、他国は「獅子奮迅の活躍をした傷侯爵に娘を嫁がせて縁を作るチャンスだ」と付け入ろうとする。
どちらも放置できないと考えた王家は、渋るウィルを丸め込む形で、彼に嫁げる娘を探し始めた。国中の女は彼の顔に怯え、婚約者を蔑ろにしたという心無い噂に踊らされて忌避したが、唯一申し込みがあったのがメルデン伯爵家である。言われてもピンとくるものがない、これと言った業績等ない家名であるが、国内の貴族だし、娘に関しても悪い噂は聞かない。
ものは例という事で二人の結婚が成立し、昨日が件の娘の嫁入り日だったのだ。
「じゃあ昨日は初夜だったのか。なんかごめん」
「いえ……」
「でもそれなら、今日は休みでよかったのでは? というか、昨日も普通に出勤してたよな? 休みは取らなかったのか」
エディがアーロンを振り返ったが、アーロンも首を傾げる。
「私も昨日と今日は休みを勧めたのだが、本人が問題ないと。……この件については私も申し訳なく思っているから、無理強いしたくないと本人の意思を尊重したが、奥方は大丈夫だったのか」
奥方、という単語を聞いて、ウィルがピクリと反応する。
「どんな人? ウィルの好みには合っていた? 今度紹介してよ」
エディが畳みかけるように質問するが、ウィルは沈黙を貫く。おや、と思った二人がウィルの顔を覗き込むと、彼は沈痛な面持ちで俯き黙り込んでいるのだった。上司二人は思わず引いてしまった。彼のこんな表情を見るのは初めての事である。
「どうした、ウィル……まさか喧嘩でもしたのか」
アーロンが気遣うように尋ねると、ウィルが縮こまった。図星らしい。
「新婚早々妻を放って仕事へ行けば、怒られるのも無理はない……だが今回は私にも非があるから、奥方へ謝罪を……」
「い、いえ。違います」
王太子自ら謝罪をと言われて、ウィルは慌てて否定した。アーロンを巻き込むわけにはいかない。なぜなら、妻が怒っている理由は間違いなくウィルにあるのだから。
「違う?」
「はい……」
ではどう違うのかと尋ねても、ウィルは言いにくそうにするだけ。アーロンとエディは揃ってペンを置き、休憩する旨を使用人へ伝えると、あっという間にお茶の用意がされる。エディは早速一口、口をつけると、ウィルをねめつけた。
「さて、ウィル。正直に答えなさい。君がさっさと答えないと、仕事はこのまま進まないぞ」
「は?」
ウィルは思わずアーロンを振り返ったが、アーロンは神妙な面持ちで頷いた。何だそれは。
「公務が滞るのは問題でしょう!」
「確かにそうだが、お前が使い物にならないのも困る。明日には解消されるという保証はあるか?」
尋ねられて、ウィルはぐっと詰まった。解消は、勿論したい。だが、どうすればいいのか分からない。黙り込んだウィルに、エディが頷いて見せる。
「一人で悩むより、早く相談した方が楽になれるぞ。こう言うとアレだが、僕も殿下も、君より女性の扱いに長けている。何か力になれるかもしれない」
「……」
確かにその通りだ。ウィルは生まれてこの方、女性に言い寄られた経験など皆無だが(本人の気性としてはそれで大助かりだった)、アーロンやエディは常に女性に囲まれているような印象さえある。何かよいアドバイスが貰えるかもしれない。
ウィルは決断し、悩みを打ち明けることにした。悩みというよりは、ほぼ懺悔だった。
家に帰ったら妻が到着していた事、話をしたいと言われ了承したこと。部屋へ招いた彼女に、一方的に契約結婚だからと拒絶を突きつけた事。期待を持たせない為に冷たい物言いをした事。用件が終わり部屋へ戻るよう促したら妻が机を叩き、自分を座らせたこと。契約など承知の上で良好な関係を築こうとした彼女に、自分の勝手な思い込みを押し付けて怒らせたこと。彼女の言い分を聞いて自身を恥じ、謝罪せねばと思い至って朝食を共にしたが、結局何も言えず、そのまま仕事に来てしまった事を白状した。
「……」
「……」
「……」
王太子の執務室は沈黙が落ちていた。今では誰もが、沈痛な面持ちである。そしてアーロンとエディはそれぞれが『こいつ、こんなにもごもご喋れるんだな……』と別の意味で感心していた。
さておき。
「……分かっていることを再三告げるようで悪いが、ウィルが悪い。わりと全面的に」
「そうだな。早急な謝罪が必要だ」
「はい……」
「謝れないのは、自分は悪くないとどこかで思っているからか?」
「それは違います」
ウィルは力強く否定し、顔を上げた。真剣な顔は、ともすれば怒っているようにも見えたかもしれない。醜い傷を負った顔が怒りに染まっているように見えれば、さぞ見苦しい事だろう。しかし、アーロンもエディも、怯えるような事はなく、同様に真剣な表情でウィルをまっすぐに見つめている。二人は大切な主君、上司であると同時に、得難い理解者なのである。
(ああ、でも……)
ふと、ウィルは昨日何度も思った事を、また思い出した。
(彼女も……私から目を逸らすことは一度もしなかったな)
真っすぐにウィルを見つめる彼女の姿を思い出す。数多の女性たちはおろか、かつての婚約者ですらウィルを直視しないように努力していたというのに、妻となった彼女は、顔を歪めるどころか絶対にウィルから視線を逸らさなかった。昨夜は怒りに任せてのことかもしれないが、今朝、朝食の席でもウィルを真正面から見ても怯むことはしなかった。どころか見送りさえしてくれた。
ウィルは彼女の事を何も知らない。何を知る前に否定してしまったからだ。
(謝って、きちんと話をしたい)
昨夜から何度も何度も考えて出た結論だ。実行できなかったが。
ウィルは意を決して、頭を下げた。
「謝りたいと思っているのに、なかなか言い出せなくて困っています……絶対に、このまま引き延ばして有耶無耶にしたくない。どうか知恵を貸してください」
アーロンとエディは顔を見合わせると、大きく頷いた。
「もちろんだ」
「力を尽くそう」
その顔が明らかに面白がっていることは、頭を下げたままのウィルには分からなかった。
そして今宵、彼は結婚初日で怒らせた妻へ一言の謝罪のために、全身全霊の勝負へ挑む戦士となるのである。
お読みいただきありがとうございました。
上司二人は面白がっているところもありますが、「人の不幸で飯が上手い」とかではなく、「ウィルがこんなに困り果てているのを初めて見た」「こいつにもちゃんと感情あるんだな」みたいな感じで、微笑ましく思っています。だからちゃんと的確なアドバイスをくれます。
本作品は、一先ずこれで完結です。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。