光魔法使いは幸せになれるか
光魔法は役に立たない。
この世界では、それが常識だった。
火は薪を燃やし、敵を焼く。水は飲み水を生み、畑を潤す。風は帆船を走らせ、時には刃となって魔物を切り裂く。土は壁を築き、道を作り、家を建てる。
誰もが何らかの形で生活や仕事に役立てられる。
では光はどうか。
夜道を照らし、暗い部屋を明るくする。
せいぜいその程度。
光属性の適性を持つ者は珍しく、その希少性だけを見れば貴重な魔法使いとも言えたが、実際にはほとんど価値がなかった。
少なくとも、私が生まれた国では。
だから私は捨てられた。
正確には、誘拐されたことにされて売られた。
それが十歳の時だった。
◇◇◇
朝日が差し込む食堂の床を、私は黙々と雑巾で拭いていた。
開店前の時間である。
宿屋兼食堂『銀の杯亭』は王都から少し離れた街道沿いに建っている。
規模はそれほど大きくない。
一階が食堂、二階が宿泊部屋。
街と街を移動する商人や冒険者、それに巡回中の騎士が利用することが多かった。
私がここで働き始めてから、もう三年近くになる。
朝の掃除を終えれば厨房の手伝い。
昼は給仕。
夜は客室の片付け。
忙しくはあるが、嫌な仕事ではなかった。
何より、ここには私を売る者がいない。
それだけで十分だった。
「リリア、そっちは終わったかい?」
厨房から女将のマリアさんの声が飛んでくる。
「はい、今終わります」
「だったらパンの搬入を手伝っとくれ」
「わかりました」
返事をして立ち上がる。
十七歳になった今でも、私はあまり愛想がいい方ではない。
街を転々としていた頃の癖が抜けないのだ。
知らない人間を警戒する。
余計なことを話さない。
自分の秘密を隠す。
そうしなければ生きていけなかった。
もっとも、マリアさんや主人のガレスさんは別だ。
三年前、行き倒れ寸前だった私を拾ってくれた恩人である。
給金は決して高くない。
それでも住む場所と食事を与えてくれた。
私にとっては家族に近い存在だった。
裏口へ向かう途中、窓から外を見る。
朝日に照らされた街道には荷馬車が何台も並んでいた。
今日も客は多そうだった。
私は軽く目を細める。
そして、ほんの少しだけ魔力を流した。
世界の見え方が変わる。
人の目には見えない光。
前世で赤外線と呼ばれていたものが視界に映り込む。
荷馬車を引く馬の体温。
御者の熱。
荷台の中に積まれた生き物の反応。
私は数秒だけ確認し、すぐに魔法を解除した。
異常なし。
盗賊や密輸品もない。
それがわかっただけで十分だった。
私の光魔法は、世間で知られているものとは少し違う。
いや、本来は同じなのだろう。
ただ、誰も研究していないだけだ。
前世の知識を持っていた私だからこそ辿り着けた。
光とは何か。光は曲がる。反射する。色がある。
見えない光も存在する。
そんな当たり前の知識を利用しただけだ。
最初に気付いたのは、売られた日のことだった。
◇◇◇
馬車の中は暗かった。
手首には縄。
口には猿轡。
泣いても助けは来ない。
なぜなら誘拐犯は父が雇った人間だったからだ。
十歳の私は、その事実を理解していた。
理解したくはなかったけれど。
魔法適性の鑑定から三日後だった。
火、水、風、土、光。
五属性のうち、私が持っていたのは光。
その結果を聞いた父は落胆した。
母は露骨に顔をしかめた。
兄は笑った。
役立たず。
家の利益にならない。
嫁入りの価値も下がる。
そんな言葉を私は聞いてしまった。
そして数日後、誘拐されたことになった。
家の名誉を守るためだったらしい。
死んだことにされなかっただけましなのかもしれない。
当時の私はそう思えなかったが。
馬車が揺れる。
恐怖で震える体を必死に押さえ込む。
逃げたい。助かりたい。生きたい。
そう思った時だった。
荷台の隙間から差し込む光が見えた。
細い線だった。
けれど私はなぜか、その光が妙に気になった。
前世の記憶が刺激されたのだろう。
光は曲がる。レンズ。屈折。反射。
ぼんやりと思い浮かんだ知識。
私は無意識に魔力を流していた。
光を操る。光を曲げる。
ただ明るくするのではなく、別の形で。
すると世界が変わった。
馬車の壁が消えたように見えた。
いや、違う。
私の周囲で光が曲がっている。
向こう側の景色が見えているのだ。
透明になった。
そう理解した瞬間、心臓が激しく鼓動した。
使える。
この魔法は使える。
私は必死に練習した。
馬車が進む間ずっと。
そして夜。
護衛たちが休憩を始めた時、私は逃げ出した。
透明化は完璧ではなかった。
動けば揺らぐ。
音も消えない。
それでも十歳の少女一人が闇に紛れるには十分だった。
あの日から私は生き延びた。
誰にも頼らず。
誰にも見つからないように。
光だけを頼りに。
◇◇◇
「リリア!」
マリアさんの声で意識が現実に戻る。
「すみません」
「珍しいねぇ。ぼーっとするなんて」
「少し昔のことを思い出していました」
「嫌な記憶かい?」
「まあ、それなりに」
そう答えると、マリアさんはそれ以上聞かなかった。
優しい人だ。
聞かれたくないことを察してくれる。
だから私はこの場所が好きだった。
この時の私は知らなかった。
今日この宿に泊まる騎士が、私の人生を大きく変えることになるなど。
そして光魔法が、初めて誰かに正しく評価される日が近付いていることも。
◇◇◇
昼を過ぎた頃には、食堂はかなりの賑わいを見せていた。
商人たちが昼食を取りながら情報交換をし、旅人たちは次の目的地について語り合う。
銀の杯亭は街道沿いの宿屋としては評判が良く、料理も比較的安価だった。
そのため客足が絶えることはない。
私は厨房と食堂を何度も往復しながら料理を運んでいた。
昼の忙しい時間帯がようやく終わりかけた頃だった。
店の扉が開いた。
何気なく視線を向ける。
入ってきたのは五人組だった。
全員が剣を帯びている。
ただし冒険者ではない。装備が統一されていた。胸当てには王国の紋章。
巡回騎士だ。最近は珍しくない。
この辺りでは盗賊被害が増えているという話を耳にしていた。
彼らもその調査だろう。
先頭の男が店内を見回した。
二十代半ばくらいだろうか。
短く切り揃えた黒髪。日に焼けた肌。
派手さはないが整った顔立ちをしている。
肩幅も広く、いかにも剣士といった体格だった。
周囲の客たちも自然と彼へ視線を向けている。
見た目だけなら絵本に出てくる騎士そのものだった。
男は主人のガレスさんに話しかける。
しばらく会話した後、五人は席へ案内された。
どうやら数日滞在するらしい。
私は特に気にせず仕事へ戻った。
騎士は珍しくない。数日泊まって去っていく。
それだけだ。そう思っていた。
その日の夜までは。
◇◇◇
客が寝静まった後。
私は一人で廊下を歩いていた。
客室の確認である。
宿屋では珍しくない仕事だった。
窓の鍵、火の始末、忘れ物の確認。
ひと通り見回った後、最後の部屋へ向かう。
そこは騎士たちの部屋だった。
扉の隙間から灯りが漏れている。
まだ起きているらしい。
私は足を止めた。
会話が聞こえてきたからだ。
「また商人が襲われたらしい」
「北の森か?」
「ああ」
「捕まらないな」
「妙なんだよな」
低い声が続く。
昼間見た黒髪の騎士だった。
他の騎士たちも真剣な様子で話している。
私は立ち聞きするつもりはなかった。
だが次の言葉に耳が引き寄せられた。
「目撃証言が少なすぎる」
「痕跡も残らない」
「本当に盗賊か?」
「魔物ではないのか?」
「それも考えた」
しばらく沈黙が続く。
やがて黒髪の騎士が言った。
「明日、夜の森を調べる」
その一言で話は終わった。
私は静かにその場を離れる。
北の森。
最近噂になっている場所だった。
夜になると人が消える。
商人が襲われる。
荷物だけが消える。
噂の大半は尾ひれが付いているものだ。
それでも騎士が調査に来るくらいには被害が出ているらしい。
私は少しだけ嫌な予感を覚えた。
◇◇◇
翌日。
仕事の合間に私は街へ買い出しへ出ていた。
食材を受け取り、宿へ戻る。
その途中だった。
視界の端に黒髪の騎士が映った。
部下たちと共に街を歩いている。
聞き込みでもしているのだろう。
私は気にせず通り過ぎようとした。
だが、その瞬間。
騎士の視線がこちらへ向いた。
一瞬だけ目が合う。
すぐに逸らそうとしたが、向こうが先に口を開いた。
「銀の杯亭の従業員だったな」
低く落ち着いた声だった。
「はい」
「宿は快適だった。礼を言っておいてくれ」
「わかりました」
短い会話だった。
それだけで終わるはずだった。
しかし彼は少しだけ首を傾げた。
「体調でも悪いのか?」
「え?」
「顔色が少し悪い」
思わず驚く。
そんなことを言われたのは久しぶりだった。
昔はよくあった。
逃亡生活の頃だ。
だが今は違う。
十分に食べているし、眠れている。
おそらく昨日の盗賊の話が気になっていただけだ。
「大丈夫です」
「そうか」
彼はそれ以上追及しなかった。
軽く頷く。
それだけだった。だが不思議だった。
貴族だった頃も、街をさまよっていた頃も。
私を心配する人間などほとんどいなかった。
だからだろうか。
その何気ない一言が妙に心に残った。
◇◇◇
夜になった。
騎士たちは森へ向かった。
私は窓から彼らの背中を見送る。
宿の仕事は終わっている。
本来なら部屋へ戻って寝ればいい。
だが胸騒ぎが消えなかった。
私は小さくため息を吐く。
そして部屋の扉を閉めた。
魔力を流す。視界が変化する。
窓の向こう。街道を歩く人々。遠くの熱源。
世界が別の姿を見せ始める。
赤外線視。
この魔法のおかげで私は何度も命を救われてきた。
私は窓を開いた。
視線を北へ向ける。森の方向だ。
遠すぎる。普通なら見えない。だが私は光を操る。
空気中の光を少しずつ曲げる。即席の望遠鏡を作るように。集中する。遠く、さらに遠く。
森の入り口。
騎士たちの熱が見えた。
五人。
問題ない。
そのまま監視を続ける。
十分。二十分。三十分。
異変は突然だった。
騎士たちとは別の熱源が現れた。
一つではない。二つ。三つ。四つ。さらに増える。
十を超えた。
私は息を呑んだ。
盗賊だ。
しかも待ち伏せしていた。
騎士たちを誘い込んだのだ。
向こうも罠を張っていた。
熱源はさらに増える。
二十近い。
五人では多すぎる。
私は思わず窓枠を握り締めた。
騎士たちが危ない。
そう思った瞬間、自分で驚いた。
なぜそんなことを考えたのだろう。
昨日会ったばかりだ。名前すら知らない。それなのに。
私は迷った。助けるべきか。
関わるべきではない。それが今までの生き方だった。
目立たない。秘密を守る。危険に近付かない。
それで生き延びてきた。
だが。
窓の外に広がる暗闇を見つめながら、私は小さく唇を噛んだ。
もしあの人たちが死ねば、きっと私は後悔する。
理由はわからない。
それでもそう思った。
気付けば私は部屋を飛び出していた。
廊下を駆ける。
裏口から外へ出る。
夜風が頬を打った。
魔力を解放する。
光を曲げる。
姿が消える。
誰にも見つからないまま、私は北の森へ向かって走り出した。
後になって思えば、それが私の人生を変えた瞬間だったのだろう。
◇◇◇
夜の森は静かだった。
風が木々を揺らす音だけが耳に届く。
月明かりすら届きにくい森の奥を、私は走っていた。
透明化を維持しながらの移動は簡単ではない。
集中を切らせば姿が現れる。
魔力の消耗も激しい。
それでも足を止めるつもりはなかった。
騎士たちのいる場所は把握している。
私の目には熱が見える。
そして今、その熱源は完全に包囲されつつあった。
二十近い人影。
全員が武器を持っている。
盗賊だ。
間違いない。
私は木の上へ飛び乗った。
枝の上から状況を確認する。
騎士たちはまだ異変に気付いていない。
森の中を慎重に進んでいる。
盗賊たちはさらにその外側から囲みを狭めていた。
訓練された兵士ではない。
だが森に慣れている。
足音も少ない。
待ち伏せには向いていた。
このままでは危ない。
そう判断した私は光を集めた。
小さな光球を作る。
そして遠くへ飛ばした。
騎士たちの少し先。
木々の間で光が瞬く。
突然現れた光に騎士たちが足を止めた。
その瞬間だった。
盗賊たちが動いた。
「囲め!」
怒号が響く。
矢が放たれる。
騎士たちも即座に反応した。
「敵襲!」
黒髪の騎士が叫ぶ。
剣が抜かれた。
金属音が森に響く。
私は思わず安堵した。
不意打ちにはならなかった。
だが状況は依然として不利だ。
盗賊の数が多すぎる。
木の陰から次々と現れる。
騎士たちは五人。
盗賊は四倍近い。
正面から戦えば勝てない。
私は呼吸を整えた。
ここからは私の仕事だ。
人は殺せない。
剣も使えない。
けれど支援ならできる。
光を集める。
圧縮する。
そして解放した。
森が白く染まった。
「ぐあっ!?」
「目が!」
盗賊たちが悲鳴を上げる。
閃光。
前世で言うスタングレネードのようなものだ。
光そのものに殺傷力はない。
だが暗闇に慣れた目には十分だった。
盗賊たちの動きが止まる。
その隙を騎士たちは見逃さなかった。
剣が閃く。
一人。二人。三人。
盗賊が倒れていく。
しかし敵も馬鹿ではない。
「魔法使いだ!」
「森の中にいるぞ!」
「探せ!」
叫び声が響く。私はすぐに場所を変えた。
木から木へ。透明化したまま移動する。
見つからない。見つかるわけにはいかない。
私は昔からそうやって生きてきた。
その時だった。
盗賊の一人が弓を構える。狙いは黒髪の騎士。
彼は別の敵と交戦中だった。
気付いていない。
矢が放たれる直前、私は反射的に魔法を使った。
光を発生させ、目を眩ませる。
矢の軌道がわずかに逸れた。
頬をかすめるだけで終わる。
黒髪の騎士が目を見開いた。
周囲を見回している。
だが私の姿は見えない。見せるつもりもない。
再び閃光を放つ。盗賊たちが怯む。
騎士たちが押し返す。
戦況は徐々に変わり始めていた。
◇◇◇
十分ほどで勝負は決した。
盗賊たちは逃げ始めた。
半数以上が捕縛され、残りは森へ散る。
追撃は行われなかった。
騎士たちも消耗している。深追いは危険だった。
私は木の上からその様子を見ていた。
終わった。そう思った時だった。
視界の端に熱源が映る。一つ。離れた場所。地面に伏せている。盗賊ではない。
小さい。人影も細い。
私は眉をひそめた。
怪我人だ。それも子供だった。
騎士たちはまだ気付いていない。
私は迷った。関わるべきではない。だが放置もできない。
結局、私はそちらへ向かった。近付いて確認する。
十二歳ほどの少女だった。手足には縄の跡。頬には痣。痩せている。盗賊に攫われたのだろう。
呼吸はある。だが浅い。
私は光を集めた。治癒魔法ではない。光属性に治療能力はない。だが体内を見ることはできる。
骨折はない。出血も少ない。衰弱だ。食事と休息が必要だった。
私は安堵した。死にそうな状態ではない。
その時。
「君は誰だ」
声がした。背筋が凍る。振り返る。
そこには黒髪の騎士が立っていた。
剣を下ろしたまま。警戒しているが敵意はない。
いつの間に。
私は思わず息を呑んだ。
透明化は解除していない。
それなのに。
「そこにいるんだろう」
静かな声だった。
「姿は見えない。だが気配はある」
私は返事をしなかった。できなかった。
見つかった。
その事実だけで心臓が早鐘を打つ。
逃げなければ。
そう思うのに足が動かない。
「助けてくれたのは君か」
私は沈黙を続けた。
「礼を言う」
その言葉に思わず顔を上げる。
騎士は本当に礼を言っていた。
感謝していた。
利用価値を計算しているわけでもない。
警戒しながらも、まず感謝を口にした。
そんな人間に私はほとんど出会ったことがなかった。
「……違います」
気付けば声が出ていた。
小さな声だった。
「私は何もしていません」
「そうか」
騎士はあっさり頷いた。
追及もしない。
だがその表情は少しだけ柔らかかった。
「なら独り言だと思ってくれ」
そう言って彼は少女を抱き上げる。
「助かった」
それだけ言い残し、仲間の元へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
しばらく動けなかった。
胸の奥が妙に落ち着かなかった。
助かった。
たった一言。それだけなのに。なぜだろう。
私は今まも何度か人を助けてきた。
目立たないように。見つからないように。感謝など求めずに。
だが直接礼を言われたのは初めてだった。
初めてだったからこそ。
その言葉は思った以上に深く胸へ残った。
やがて私は視線を逸らした。
夜明けまでには宿へ戻らなければならない。
何事もなかったように。
いつも通りに。
そう思いながら森を後にした。
その時はまだ知らない。
あの騎士が、翌日には私の正体へ大きく近付くことになることを。
◇◇◇
翌朝、私はいつも通りに働いていた。
寝不足ではあったが、それを表に出すつもりはない。
夜明け前には宿へ戻った。
誰にも見られていない。
透明化を維持したまま裏口から入り、自室へ戻り、少しだけ眠った。
それだけだ。
何も問題はない。
そう自分に言い聞かせながら食堂の準備を進める。
しかし世の中というものは、案外思い通りにはいかないらしい。
朝食の時間帯が終わり、客足が落ち着き始めた頃だった。
宿の扉が開く。
昨日の騎士たちだった。
夜通し森にいたはずなのに疲れた様子は少ない。
いや、正確には一人だけ違った。
黒髪の騎士だ。
疲れてはいる。
だがそれ以上に何かを考えているように見えた。
私は視線を合わせないように厨房へ向かう。
その途中だった。
「少しいいだろうか」
呼び止められた。
心臓が跳ねる。
けれど表情は変えない。
振り返る。
「私ですか?」
「ああ」
黒髪の騎士は頷いた。
「仕事の邪魔になるなら後でも構わない」
「いえ」
断る理由もない。
むしろ不自然になる。
私は彼を食堂の隅へ案内した。
昼前の時間帯で客は少ない。
主人も女将も仕込み中だった。
話をするにはちょうどよかった。
「何でしょう」
「礼を言おうと思ってな」
またそれだった。
昨夜も聞いた言葉。
私は内心で警戒を強める。
「何かしましたか?」
「昨夜、森へ行かなかったか」
やはり。
私は平然と首を傾げた。
「行っていません」
「そうか」
彼はあっさり引いた。
拍子抜けするほどに。
だが視線は外さない。
試しているのだろう。
私は気付かないふりを続けた。
数秒の沈黙。
やがて彼は小さく息を吐いた。
「なら本当に独り言だ」
そう言って苦笑する。
「助けられた」
昨夜と同じ言葉だった。
私は返答に困った。
否定しても意味がない。
認めるわけにもいかない。
結局、曖昧に微笑むだけに留めた。
「それは良かったですね」
「君は変わっているな」
突然そう言われる。
「そうでしょうか」
「普通はもっと興味を持つ」
「騎士様の武勇伝にですか?」
「その言い方だと全く興味がないように聞こえる」
「実際、あまりありません」
気付けば少しだけ本音が出ていた。
彼は一瞬驚き、それから笑った。
本当に可笑しかったらしい。
私は戸惑う。
何か変なことを言っただろうか。
「すまない」
彼は肩を竦めた。
「騎士だと名乗ると大抵は目を輝かせるか、逆に緊張する」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
私は納得できなかった。
騎士も人間だ。
特別な存在ではない。
少なくとも私にとっては。
そんなことを考えていると、彼は手を差し出した。
「自己紹介がまだだったな」
確かにそうだ。
「アレクシス・フォルナーだ」
名乗られた以上、こちらも返さなければならない。
「リリアです」
「姓は?」
「ありません」
正確にはある。
だが捨てた。
捨てたかった。
もう思い出したくもない。
アレクシスはそれ以上聞かなかった。
それが少しだけありがたかった。
◇◇◇
救出された少女は三日後に目を覚ました。
話はすぐに街へ広がった。
盗賊たちは人攫いも行っていたらしい。
襲われた商人の荷物を奪うだけではない。
身代金を取れそうな者。売れそうな子供。そういった人間も攫っていた。
森の奥には隠れ家があり、少女はそこへ閉じ込められていたという。
騎士たちが踏み込まなければ、どこかへ売られていただろう。
その話を聞きながら、私は昔を思い出していた。
売られる。その言葉だけで胸の奥が冷える。
忘れたつもりだった。過去になったと思っていた。
だがそうではないらしい。
今でも記憶は残っている。
今でも傷は消えていない。
「リリア?」
女将の声で我に返る。
「大丈夫かい?」
「はい」
「顔色が悪いよ」
「少し考え事を」
マリアさんは心配そうな顔をした。
けれど追及はしない。
この人は昔からそうだった。私が話したくなるまで待ってくれる。
だからこそ話せない。
こんな優しい人たちに、私はずっと嘘をついている。
それが少しだけ苦しかった。
◇◇◇
その日の夜。
私は宿の屋根の上にいた。時々こうして一人になる。
空を見上げる。考え事をする。それが習慣だった。
星が綺麗だった。光の少ない世界だからこそ、夜空はよく見える。
私はぼんやりと星々を眺める。前世と同じ星座はない。当然だ。ここは別の世界なのだから。
「そんなところにいたのか」
声がした。
驚いて振り返る。
そこにはアレクシスがいた。
私は思わず眉をひそめる。
「騎士様は屋根に登る趣味があるんですか」
「今日は偶然だ」
「本当でしょうか」
「疑われているな」
彼は苦笑した。
どうやら本当に偶然らしい。
屋根の反対側から街を見ようとして、私を見つけたのだろう。
私は少しだけ警戒を解く。
アレクシスは私から少し離れた場所へ腰を下ろした。
無理に近付いてこない。
それも彼らしかった。
しばらく沈黙が続く。夜風が吹く。遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
「綺麗だな」
ぽつりとアレクシスが言う。
私は空を見上げた。
「星ですか」
「ああ」
「そうですね」
再び沈黙。不思議だった。会話は少ない。気まずくもない。ただ静かな時間だけが流れていく。
嫌ではなかった。むしろ心地良かった。そんな時間を誰かと過ごしたのは初めてかもしれない。
やがてアレクシスが口を開く。
「昔、光属性の魔法使いに会ったことがある」
私は反射的に体を強張らせた。気付かれないように空を見る。
「珍しいですね」
「ああ」
「どんな人でした?」
「老人だった」
アレクシスは少し考える。
「夜になると街灯代わりに呼ばれていた」
私は思わず苦笑した。
なんとも光属性らしい話だった。
「それだけですか」
「それだけだ」
彼も笑う。
そして少しだけ真面目な顔になった。
「だが昨夜、考えが変わった」
胸がざわつく。私は何も言わない。
「もし本当に光属性の魔法使いだったなら」
アレクシスは夜空を見上げたまま続けた。
「とんでもない才能だと思う」
私は返事ができなかった。
言葉が出なかった。役立たず。価値がない。将来性がない。
そう言われ続けてきた。
だからだろうか。
たった一人の言葉なのに。
胸の奥が熱くなる。泣きそうになり、私は慌てて顔を逸らした。夜で良かったと思う。こんな顔を見られたくなかった。
アレクシスは何も気付いていない。ただ静かに星を見ていた。
私はそっと息を吐く。そして思った。この人は危険だ。
秘密を暴くからではない。
優しいからだ。
優しくされることに慣れていない私には、その方がよほど危険だった。
◇◇◇
それから数日間、穏やかな時間が続いた。
盗賊団の壊滅によって街道の治安は大きく改善し、宿を訪れる商人たちの表情にも余裕が戻っていた。
銀の杯亭も忙しかった。
食事を運び、皿を洗い、部屋を整える。
いつも通りの日常。
本来なら喜ぶべきことだった。
私はずっと平穏を求めて生きてきたのだから。
それなのに最近は妙に落ち着かなかった。
原因はわかっている。
アレクシスだった。
彼は相変わらず宿に滞在していた。
盗賊事件そのものは終わった。
だが捕らえた盗賊たちの尋問や周辺調査が残っているらしい。
そのおかげで顔を合わせる機会も増えた。
朝食を運ぶ。
昼食を運ぶ。
夕食を運ぶ。
それだけなのに妙に意識してしまう。
我ながら単純だと思う。
前世も含めれば三十年以上生きているというのに。
それでも恋愛経験はほとんどなかった。
仕事ばかりの人生だったし、気付けば病院のベッドの上だった。
そして今世では人を信じる余裕すらなかった。
だから今の感情が何なのか、正直よくわからない。
ただ一つ言えることはある。
アレクシスと話す時間は嫌いではなかった。
◇◇◇
事件が起きたのは、そんな頃だった。
昼過ぎ。
一台の馬車が宿の前で止まった。
高価な作りだった。護衛もいる。
貴族の馬車だと一目でわかる。
私は反射的に顔を伏せた。嫌な記憶が蘇る。だが客は客だ。逃げるわけにはいかない。
主人と共に出迎える。馬車から降りてきたのは中年の男性だった。
身なりは豪華だ。立派な服。宝石の付いた指輪。肥えた体。典型的な裕福な貴族に見えた。
その顔を見た瞬間。私は凍り付いた。
知っている。忘れるはずがない。血が引いていく。心臓が嫌な音を立てる。
父だった。
私を売った男だった。
◇◇◇
幸い向こうは気付いていない。
十歳だった娘と十七歳になった今の私では印象も違う。
髪も短くなった。日焼けもしている。
何より貴族令嬢だった頃の面影はほとんど残っていない。
だからこそ私は平静を装った。
必死に。
料理を運ぶ。
水を注ぐ。
笑顔を作る。
震える手を隠す。
だが内心は最悪だった。なぜここにいる。どうして。
偶然か。それとも。考えがまとまらない。
その日の夕方。
私は裏庭へ出ていた。一人になりたかった。落ち着きたかった。深呼吸を繰り返す。
すると背後から足音が聞こえた。
「リリア」
アレクシスだった。
私は振り返る。
「どうしました?」
「それはこちらの台詞だ」
彼は眉をひそめていた。
「朝から様子がおかしい」
「そんなことは」
「ある」
即答だった。
私は思わず視線を逸らす。
誤魔化せると思ったのに。
「何かあったのか」
優しい声だった。
だから困る。
冷たくされれば警戒できる。
突き放されれば距離を取れる。
だが彼は違う。
踏み込まないくせに、放ってもおかない。
「……昔を思い出しただけです」
気付けばそう答えていた。
嘘ではない。
全部を話したわけでもないが。
「嫌な思い出か」
「そうですね」
「忘れられないほど?」
私は少し考えた。
そして苦笑する。
「忘れられるなら忘れています」
アレクシスは何も言わなかった。
ただ隣に立つ。
慰めの言葉もない。
励ましもない。
それがありがたかった。
私は誰かに同情されたかったわけではない。
ただ少しだけ、一人でいたくなかったのかもしれない。
◇◇◇
その夜だった。
私は偶然、聞いてしまった。
宿の廊下で。
父と護衛の会話を。
「本当にこの辺りなのですか」
「報告ではそうなっている」
「しかし七年も前の話でしょう」
「見つからなくても構わん」
父は鼻で笑った。
「ただ確認したいだけだ」
私は足を止める。確認。何を。
「例の娘ですか」
「ああ」
父は不快そうに答えた。
「光属性などという外れを引いた失敗作だ」
胸が痛む。
今さら傷付くものかと思っていた。
そうではなかったらしい。
「生きていれば面倒だ」
「では処理を?」
「必要ならな」
私はその場を離れた。これ以上聞いてはいけない気がした。
足が震える。息が苦しい。七年経った。
もう終わった話だと思っていた。だが向こうは違った。
生きているか確認しに来た。必要なら殺すために。
私は部屋へ戻った。
椅子に座る。両手を見る。震えていた。情けないと思う。
透明化もできる。
暗視もできる。
盗賊団を相手にだって戦えた。
それなのに。
父の存在だけで十歳の頃へ戻ってしまう。
無力だった頃へ。捨てられた頃へ。
その時だった。
窓の外で何かが光った。私は顔を上げる。
小さな光。窓の向こう。夜空の中。光球だった。
私のものではない。街灯のものだ。それなのに、なぜか目が離せなかった。
光。
役立たないと言われたもの。価値がないと言われたもの。
だが私はその光で生き延びた。ここまで来た。
なら。
本当に恐れるべきなのだろうか。
私はゆっくり立ち上がった。
逃げるのは慣れている。
隠れるのも得意だ。
だが今は一人ではない。
マリアさんがいる。
ガレスさんがいる。
そして。
アレクシスもいる。
その事実を思い出した瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
窓の外では星が瞬いている。
私はそれを見上げながら、小さく息を吐いた。
明日になれば、何かが動く。
そんな予感がした。
◇◇◇
翌朝から宿の空気はどこか重かった。
理由ははっきりしている。
あの男がいるからだ。
私の父。
七年前に私を売った男。
もちろん宿の誰もそんなことは知らない。
知っているのは私だけだ。
それでも落ち着かなかった。
朝食の時間が終わり、食器を片付けている時だった。
「おい」
声を掛けられる。
振り返る。
父だった。心臓が強く脈打つ。
だが表情は崩さない。
「何でしょうか」
「お前、この街の者か」
「違います」
「どこから来た」
探るような目だった。
私は淡々と答える。
「覚えていません」
「覚えていない?」
「小さい頃の記憶が曖昧なので」
嘘だ。
だが逃亡生活の中で何度も使った嘘だった。
父は私の顔を見つめる。嫌な沈黙が続く。やがて鼻を鳴らした。
「そうか」
それだけ言って席へ戻る。
しかし私はわかった。
疑われている。
ほんの少しだとしても。
◇◇◇
昼過ぎ。
裏庭で薪を運んでいるとアレクシスが現れた。
「顔色が悪い」
開口一番だった。
私は思わず苦笑する。
「最近そればかりですね」
「最近ずっと悪いからな」
否定できない。
自覚もあった。
昨夜はほとんど眠れていない。
「何かあったのか」
私は返事をしなかった。
話すべきではない。そう思う。
だが限界も近かった。
七年間ずっと一人で抱えてきた。
秘密も。恐怖も。全部。
ふと気付く。
私はいつからこんなにも彼を信頼してしまったのだろう。
ほんの数週間前までは他人だったはずなのに。
しばらく沈黙が続いた。
そして私は負けた。
「もし」
小さく口を開く。
「もし、自分を捨てた家族が目の前に現れたらどうしますか」
アレクシスの表情が変わった。
冗談ではないと理解したのだろう。
「会いたい家族か」
「いいえ」
「憎んでいる?」
私は少し考えた。
「昔は」
そう答える。
「今はわかりません」
憎み続けるには時間が経ちすぎた。
忘れるには傷が深すぎた。
そんな感情だった。
「だが会いたくはない」
「はい」
アレクシスは腕を組んだ。
しばらく考える。
そして静かに言った。
「逃げてもいいと思う」
私は目を瞬かせた。
「騎士らしくないですね」
「そうか?」
「立ち向かえとか言いそうです」
「相手による」
彼は肩を竦める。
「逃げるのが正しい時もある」
その言葉に胸が少し軽くなった。
私はずっと逃げてきた。
それを恥だと思ったこともある。
だが彼は違った。否定しない。責めない。
「ただ」
アレクシスは続ける。
「今の君は一人じゃない」
その言葉に私は息を止めた。
「困ったら頼れ」
当たり前のように言う。
簡単に言う。
そんなことを言われたのは初めてだった。
◇◇◇
その夜、事件は起きた。
私は物音で目を覚ました。
窓の外に人の気配が複数。
嫌な予感がした。
すぐに魔力を流す。
赤外線視。
世界が変わる。宿の裏。熱源が五つ。
武器を持っている。
侵入者だった。
私はベッドから飛び起きた。
次の瞬間。
ガラスが割れる音が響く。
悲鳴。
女将だった。
私は部屋を飛び出した。
廊下を走る。
一階から怒鳴り声が聞こえる。
「探せ!」
「娘だ!」
「この宿にいるはずだ!」
血の気が引いた。
私だ。
私を探している。
父だ。確信した。
正体に気付いたのだ。
いや、確証はなくても構わないのだろう。
怪しい者は全て消すつもりなのだ。
私は階段の陰から様子を窺う。
武装した男たちが食堂へ入り込んでいる。
宿の主人が殴られて倒れていた。
怒りが湧く。
恐怖より先に。
こんなことになるなら。
私がここへ来なければ良かった。
そう思った瞬間だった。
宿の正面扉が吹き飛んだ。
大きな音が響く。
「王国騎士団だ!」
聞き慣れた声。
アレクシスだった。
◇◇◇
戦いは一方的だった。
侵入者たちは元々護衛崩れらしい。
腕は立つ。
だが騎士団には及ばない。
次々と制圧されていく。
私は陰からそれを見ていた。
終わった。
そう思った時だった。
熱源が一つ動く。まだいた。
父だった。
裏口へ逃げようとしている。
私は反射的に追い掛けた。気付けば外へ出ていた。
夜風が吹く。
父は私を見た。
そして止まる。
「やはりお前か」
その顔には驚きよりも苛立ちが浮かんでいた。
「生きていたとはな」
私は何も言わない。
「余計なことを」
父は吐き捨てる。
「最初から死んでいれば良かったものを」
昔なら泣いていただろう。
傷付いただろう。
だが今は違った。
胸が妙に静かだった。
この人は変わらない。
七年前から何も。
だからなのかもしれない。
ようやく理解できた。
私はこの人に認められたかったわけではない。
愛されたかっただけだ。
そしてそれは最初から無理だった。
「さようなら」
自然と言葉が出た。
父が顔をしかめる。
「何だと」
「もう関係ありません」
私は静かに告げた。
「あなたは私を捨てた」
「けど私は生き延びた」
父の表情が歪む。怒りだった。
彼は短剣を抜いた。
「生意気な」
こちらへ踏み出す。
その瞬間。
私は光を解放した。夜が消える。白い光が世界を埋め尽くす。
父は悲鳴を上げた。目を押さえる。
私はただ立っていた。攻撃する気はない。殺す気もない。
もうどうでも良かった。
「終わりです」
その時。
背後から足音がした。
アレクシスだった。
彼は光景を見て立ち止まる。
父。
光。
私。
全てを理解したらしい。
だが驚きはしても責めなかった。
ただ静かに私の隣へ立つ。
「後は任せろ」
その一言だけだった。
私は張り詰めていた力が抜けるのを感じた。
長かった。
本当に長かった。
七年。
逃げ続けた日々。
隠し続けた秘密。
それがようやく終わろうとしていた。
◇◇◇
父はそのまま拘束された。
侵入者たちも全員捕らえられた。
宿の被害はあったものの、幸い死人は出なかった。
ガレスさんもマリアさんも軽傷で済んだ。
それだけが救いだった。
騒動が収まったのは夜明け前だった。
私は宿の裏庭に置かれた古い木箱へ腰掛けていた。
眠気はない。頭も妙に冴えていた。
七年間抱え続けたものが終わったからだろう。肩の力が抜けていた。
同時に不安もあった。もう隠せない。光魔法のことも。過去のことも。
全て知られてしまった。
静かな足音が近付いてくる。
振り返らなくても誰かわかった。
アレクシスだった。
彼は私の隣へ来ると、少し離れた場所へ腰を下ろした。
夜明け前の空は薄く白み始めている。
しばらく二人とも何も言わなかった。
沈黙は不思議と苦ではなかった。
先に口を開いたのは私だった。
「聞かないんですか」
「何を」
「色々です」
アレクシスは少し考えた。
「話したくないなら聞かない」
「ずるいですね」
「そうか?」
「そうです」
私は小さく笑った。
それからゆっくり息を吐く。
話そうと思った。この人には、全部。
◇◇◇
私は生まれた家のことを話した。
光属性と判定されたこと。
役立たずと言われたこと。
誘拐を装って売られたこと。
逃げたこと。
街を転々としたこと。
銀の杯亭に拾われたこと。
そして光魔法のこと。
暗視。
透明化。
遠見。
閃光。
今まで誰にも話さなかった秘密を、全部。
アレクシスは途中で口を挟まなかった。ただ静かに聞いていた。
私が話し終える頃には、東の空が赤く染まり始めていた。
長い沈黙が続く。やがて彼は言った。
「大変だったな」
それだけだった。
同情でもない。憐れみでもない。ただ事実として。
私は思わず笑ってしまった。
「もっと驚くかと思いました」
「十分驚いている」
「見えません」
「騎士だからな」
それらしい答えだった。
私は肩を竦める。
するとアレクシスが真面目な顔になった。
「一つだけ聞きたい」
「何でしょう」
「君は今でも光魔法が役立たずだと思うか」
私は言葉に詰まった。
その問いは単純だった。
だが簡単ではなかった。
昔なら即答できた。役立たずだと。価値がないと。
だって皆がそう言っていたから。
父も。
母も。
兄も。
周囲の全員が。
けれど今は違う。
光魔法で逃げた。
光魔法で生き延びた。
光魔法で人を助けた。
光魔法で盗賊団を止めた。
光魔法で自分自身を守った。
なら。
役立たずだったのは本当に光魔法だったのだろうか。
私は空を見上げた。
朝日が昇り始めている。
夜を追い払うように。
世界を照らすように。
「違うと思います」
自然と言葉が出た。
「光魔法は役立たずじゃありません」
「そうだな」
アレクシスは迷わず頷いた。
「俺もそう思う」
その言葉に胸の奥が温かくなる。
昔の私が聞いたら泣いていたかもしれない。
いや、きっと泣いていた。
◇◇◇
しばらくしてアレクシスが立ち上がった。
私もつられて顔を上げる。
「任務が終わる」
彼は言った。
「王都へ戻ることになる」
胸が少し痛んだ。
そうだ。ずっと宿にいるわけではない。
騎士なのだから。当たり前の話だった。
それなのに、私はその当たり前を忘れかけていた。
「そうですか」
「そうだ」
会話が途切れる。
言いたいことがある。
けれど言葉にならない。
そんな空気が流れた。
先に沈黙を破ったのはアレクシスだった。
「リリア」
「はい」
「一緒に来ないか」
私は目を瞬かせた。
一瞬、意味がわからなかった。
「王都へ?」
「ああ」
「なぜですか」
聞き返した瞬間、自分で馬鹿だと思った。
けれど他に言葉が出なかった。
アレクシスは少し困ったように笑う。
それから真っ直ぐ私を見る。
「好きだからだ」
私は固まった。
本当に。
文字通り。
頭が真っ白になった。
「君といる時間が好きだ」
アレクシスは続ける。
「もっと一緒にいたいと思っている」
「私は」
声が掠れる。
「私は普通の人じゃありません」
「知っている」
「光魔法もあります」
「知っている」
「貴族ですらありません」
「それも知っている」
全部知っている。
それでも。
「だから関係ない」
アレクシスは言った。
「俺が好きなのはリリアだ」
あまりにも真っ直ぐだった。
眩しいくらいに。
だからだろう。
私は思わず笑ってしまった。
泣きそうになりながら。
笑ってしまった。
ずるいと思う。
こんな言葉を言われたら。
断れるわけがない。
◇◇◇
春になった。
私は銀の杯亭を辞めた。
もちろん喧嘩別れではない。
マリアさんには泣かれた。
ガレスさんには「幸せになれ」と頭を撫でられた。
何度も礼を言った。
命を救ってもらった。
居場所を与えてもらった。
一生忘れないと思う。
王都へ向かう馬車の中。
私は窓の外を眺めていた。
隣にはアレクシスがいる。
未来がどうなるかはわからない。
騎士の婚約者になるのも初めてだ。
王都での生活も知らない。
不安はある。
けれど。
昔ほど怖くはなかった。
「どうした」
アレクシスが尋ねる。
私は少しだけ考えた。
それから微笑む。
「一つ、考えていたことがあるんです」
「何だ」
私は窓の外へ視線を向けた。
春の陽光が降り注いでいる。
暖かい光だった。
「光魔法使いは幸せになれるか」
昔の私なら答えられなかった問い。
ずっと答えを探していた問い。
けれど今ならわかる。
アレクシスが不思議そうな顔をする。
私は笑った。
「なれるみたいです」
そう言いながら彼の手を握る。
アレクシスは少し驚いた後、静かに握り返してきた。
馬車は春の街道を進んでいく。
暖かな光の中を。
その先に続く未来を照らすように。
もう私は光を嫌いではなかった。
光は私を見捨てなかった。
そして今。
ようやく手に入れた幸せを、優しく照らしてくれていた。
――――完
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