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光魔法使いは幸せになれるか

作者: 岩尾卓
掲載日:2026/10/02

 光魔法は役に立たない。

 この世界では、それが常識だった。

 火は薪を燃やし、敵を焼く。水は飲み水を生み、畑を潤す。風は帆船を走らせ、時には刃となって魔物を切り裂く。土は壁を築き、道を作り、家を建てる。

 誰もが何らかの形で生活や仕事に役立てられる。

 では光はどうか。

 夜道を照らし、暗い部屋を明るくする。

 せいぜいその程度。

 光属性の適性を持つ者は珍しく、その希少性だけを見れば貴重な魔法使いとも言えたが、実際にはほとんど価値がなかった。

 少なくとも、私が生まれた国では。

 だから私は捨てられた。

 正確には、誘拐されたことにされて売られた。

 それが十歳の時だった。


◇◇◇


 朝日が差し込む食堂の床を、私は黙々と雑巾で拭いていた。

 開店前の時間である。

 宿屋兼食堂『銀の杯亭』は王都から少し離れた街道沿いに建っている。

 規模はそれほど大きくない。

 一階が食堂、二階が宿泊部屋。

 街と街を移動する商人や冒険者、それに巡回中の騎士が利用することが多かった。

 私がここで働き始めてから、もう三年近くになる。

 朝の掃除を終えれば厨房の手伝い。

 昼は給仕。

 夜は客室の片付け。

 忙しくはあるが、嫌な仕事ではなかった。

 何より、ここには私を売る者がいない。

 それだけで十分だった。


「リリア、そっちは終わったかい?」


 厨房から女将のマリアさんの声が飛んでくる。


「はい、今終わります」


「だったらパンの搬入を手伝っとくれ」


「わかりました」


 返事をして立ち上がる。

 十七歳になった今でも、私はあまり愛想がいい方ではない。

 街を転々としていた頃の癖が抜けないのだ。

 知らない人間を警戒する。

 余計なことを話さない。

 自分の秘密を隠す。

 そうしなければ生きていけなかった。

 もっとも、マリアさんや主人のガレスさんは別だ。

 三年前、行き倒れ寸前だった私を拾ってくれた恩人である。

 給金は決して高くない。

 それでも住む場所と食事を与えてくれた。

 私にとっては家族に近い存在だった。

 裏口へ向かう途中、窓から外を見る。

 朝日に照らされた街道には荷馬車が何台も並んでいた。

 今日も客は多そうだった。

 私は軽く目を細める。

 そして、ほんの少しだけ魔力を流した。

 世界の見え方が変わる。

 人の目には見えない光。

 前世で赤外線と呼ばれていたものが視界に映り込む。

 荷馬車を引く馬の体温。

 御者の熱。

 荷台の中に積まれた生き物の反応。

 私は数秒だけ確認し、すぐに魔法を解除した。

 異常なし。

 盗賊や密輸品もない。

 それがわかっただけで十分だった。

 私の光魔法は、世間で知られているものとは少し違う。

 いや、本来は同じなのだろう。

 ただ、誰も研究していないだけだ。

 前世の知識を持っていた私だからこそ辿り着けた。

 光とは何か。光は曲がる。反射する。色がある。

 見えない光も存在する。

 そんな当たり前の知識を利用しただけだ。

 最初に気付いたのは、売られた日のことだった。


◇◇◇


 馬車の中は暗かった。

 手首には縄。

 口には猿轡。

 泣いても助けは来ない。

 なぜなら誘拐犯は父が雇った人間だったからだ。

 十歳の私は、その事実を理解していた。

 理解したくはなかったけれど。

 魔法適性の鑑定から三日後だった。

 火、水、風、土、光。

 五属性のうち、私が持っていたのは光。

 その結果を聞いた父は落胆した。

 母は露骨に顔をしかめた。

 兄は笑った。

 役立たず。

 家の利益にならない。

 嫁入りの価値も下がる。

 そんな言葉を私は聞いてしまった。

 そして数日後、誘拐されたことになった。

 家の名誉を守るためだったらしい。

 死んだことにされなかっただけましなのかもしれない。

 当時の私はそう思えなかったが。

 馬車が揺れる。

 恐怖で震える体を必死に押さえ込む。

 逃げたい。助かりたい。生きたい。

 そう思った時だった。

 荷台の隙間から差し込む光が見えた。

 細い線だった。

 けれど私はなぜか、その光が妙に気になった。

 前世の記憶が刺激されたのだろう。

 光は曲がる。レンズ。屈折。反射。

 ぼんやりと思い浮かんだ知識。

 私は無意識に魔力を流していた。

 光を操る。光を曲げる。

 ただ明るくするのではなく、別の形で。

 すると世界が変わった。

 馬車の壁が消えたように見えた。

 いや、違う。

 私の周囲で光が曲がっている。

 向こう側の景色が見えているのだ。

 透明になった。

 そう理解した瞬間、心臓が激しく鼓動した。

 使える。

 この魔法は使える。

 私は必死に練習した。

 馬車が進む間ずっと。

 そして夜。

 護衛たちが休憩を始めた時、私は逃げ出した。

 透明化は完璧ではなかった。

 動けば揺らぐ。

 音も消えない。

 それでも十歳の少女一人が闇に紛れるには十分だった。

 あの日から私は生き延びた。

 誰にも頼らず。

 誰にも見つからないように。

 光だけを頼りに。


◇◇◇


「リリア!」


 マリアさんの声で意識が現実に戻る。


「すみません」


「珍しいねぇ。ぼーっとするなんて」


「少し昔のことを思い出していました」


「嫌な記憶かい?」


「まあ、それなりに」


 そう答えると、マリアさんはそれ以上聞かなかった。

 優しい人だ。

 聞かれたくないことを察してくれる。

 だから私はこの場所が好きだった。

 この時の私は知らなかった。

 今日この宿に泊まる騎士が、私の人生を大きく変えることになるなど。

 そして光魔法が、初めて誰かに正しく評価される日が近付いていることも。


◇◇◇


 昼を過ぎた頃には、食堂はかなりの賑わいを見せていた。

 商人たちが昼食を取りながら情報交換をし、旅人たちは次の目的地について語り合う。

 銀の杯亭は街道沿いの宿屋としては評判が良く、料理も比較的安価だった。

 そのため客足が絶えることはない。

 私は厨房と食堂を何度も往復しながら料理を運んでいた。

 昼の忙しい時間帯がようやく終わりかけた頃だった。

 店の扉が開いた。

 何気なく視線を向ける。

 入ってきたのは五人組だった。

 全員が剣を帯びている。

 ただし冒険者ではない。装備が統一されていた。胸当てには王国の紋章。

 巡回騎士だ。最近は珍しくない。

 この辺りでは盗賊被害が増えているという話を耳にしていた。

 彼らもその調査だろう。

 先頭の男が店内を見回した。

 二十代半ばくらいだろうか。

 短く切り揃えた黒髪。日に焼けた肌。

 派手さはないが整った顔立ちをしている。

 肩幅も広く、いかにも剣士といった体格だった。

 周囲の客たちも自然と彼へ視線を向けている。

 見た目だけなら絵本に出てくる騎士そのものだった。

 男は主人のガレスさんに話しかける。

 しばらく会話した後、五人は席へ案内された。

 どうやら数日滞在するらしい。

 私は特に気にせず仕事へ戻った。

 騎士は珍しくない。数日泊まって去っていく。

 それだけだ。そう思っていた。

 その日の夜までは。


◇◇◇


 客が寝静まった後。

 私は一人で廊下を歩いていた。

 客室の確認である。

 宿屋では珍しくない仕事だった。

 窓の鍵、火の始末、忘れ物の確認。

 ひと通り見回った後、最後の部屋へ向かう。

 そこは騎士たちの部屋だった。

 扉の隙間から灯りが漏れている。

 まだ起きているらしい。

 私は足を止めた。

 会話が聞こえてきたからだ。


「また商人が襲われたらしい」


「北の森か?」


「ああ」


「捕まらないな」


「妙なんだよな」


 低い声が続く。

 昼間見た黒髪の騎士だった。

 他の騎士たちも真剣な様子で話している。

 私は立ち聞きするつもりはなかった。

 だが次の言葉に耳が引き寄せられた。


「目撃証言が少なすぎる」


「痕跡も残らない」


「本当に盗賊か?」


「魔物ではないのか?」


「それも考えた」


 しばらく沈黙が続く。

 やがて黒髪の騎士が言った。


「明日、夜の森を調べる」


 その一言で話は終わった。

 私は静かにその場を離れる。

 北の森。

 最近噂になっている場所だった。

 夜になると人が消える。

 商人が襲われる。

 荷物だけが消える。

 噂の大半は尾ひれが付いているものだ。

 それでも騎士が調査に来るくらいには被害が出ているらしい。

 私は少しだけ嫌な予感を覚えた。


◇◇◇


 翌日。

 仕事の合間に私は街へ買い出しへ出ていた。

 食材を受け取り、宿へ戻る。

 その途中だった。

 視界の端に黒髪の騎士が映った。

 部下たちと共に街を歩いている。

 聞き込みでもしているのだろう。

 私は気にせず通り過ぎようとした。

 だが、その瞬間。

 騎士の視線がこちらへ向いた。

 一瞬だけ目が合う。

 すぐに逸らそうとしたが、向こうが先に口を開いた。


「銀の杯亭の従業員だったな」


 低く落ち着いた声だった。


「はい」


「宿は快適だった。礼を言っておいてくれ」


「わかりました」


 短い会話だった。

 それだけで終わるはずだった。

 しかし彼は少しだけ首を傾げた。


「体調でも悪いのか?」


「え?」


「顔色が少し悪い」


 思わず驚く。

 そんなことを言われたのは久しぶりだった。

 昔はよくあった。

 逃亡生活の頃だ。

 だが今は違う。

 十分に食べているし、眠れている。

 おそらく昨日の盗賊の話が気になっていただけだ。


「大丈夫です」


「そうか」


 彼はそれ以上追及しなかった。

 軽く頷く。

 それだけだった。だが不思議だった。

 貴族だった頃も、街をさまよっていた頃も。

 私を心配する人間などほとんどいなかった。

 だからだろうか。

 その何気ない一言が妙に心に残った。


◇◇◇


 夜になった。

 騎士たちは森へ向かった。

 私は窓から彼らの背中を見送る。

 宿の仕事は終わっている。

 本来なら部屋へ戻って寝ればいい。

 だが胸騒ぎが消えなかった。

 私は小さくため息を吐く。

 そして部屋の扉を閉めた。

 魔力を流す。視界が変化する。

 窓の向こう。街道を歩く人々。遠くの熱源。

 世界が別の姿を見せ始める。

 赤外線視。

 この魔法のおかげで私は何度も命を救われてきた。

 私は窓を開いた。

 視線を北へ向ける。森の方向だ。

 遠すぎる。普通なら見えない。だが私は光を操る。

 空気中の光を少しずつ曲げる。即席の望遠鏡を作るように。集中する。遠く、さらに遠く。

 森の入り口。

 騎士たちの熱が見えた。

 五人。

 問題ない。

 そのまま監視を続ける。

 十分。二十分。三十分。

 異変は突然だった。

 騎士たちとは別の熱源が現れた。

 一つではない。二つ。三つ。四つ。さらに増える。

 十を超えた。

 私は息を呑んだ。

 盗賊だ。

 しかも待ち伏せしていた。

 騎士たちを誘い込んだのだ。

 向こうも罠を張っていた。

 熱源はさらに増える。

 二十近い。

 五人では多すぎる。

 私は思わず窓枠を握り締めた。

 騎士たちが危ない。

 そう思った瞬間、自分で驚いた。

 なぜそんなことを考えたのだろう。

 昨日会ったばかりだ。名前すら知らない。それなのに。

 私は迷った。助けるべきか。

 関わるべきではない。それが今までの生き方だった。

 目立たない。秘密を守る。危険に近付かない。

 それで生き延びてきた。

 だが。

 窓の外に広がる暗闇を見つめながら、私は小さく唇を噛んだ。

 もしあの人たちが死ねば、きっと私は後悔する。

 理由はわからない。

 それでもそう思った。

 気付けば私は部屋を飛び出していた。

 廊下を駆ける。

 裏口から外へ出る。

 夜風が頬を打った。

 魔力を解放する。

 光を曲げる。

 姿が消える。

 誰にも見つからないまま、私は北の森へ向かって走り出した。

 後になって思えば、それが私の人生を変えた瞬間だったのだろう。


◇◇◇


 夜の森は静かだった。

 風が木々を揺らす音だけが耳に届く。

 月明かりすら届きにくい森の奥を、私は走っていた。

 透明化を維持しながらの移動は簡単ではない。

 集中を切らせば姿が現れる。

 魔力の消耗も激しい。

 それでも足を止めるつもりはなかった。

 騎士たちのいる場所は把握している。

 私の目には熱が見える。

 そして今、その熱源は完全に包囲されつつあった。

 二十近い人影。

 全員が武器を持っている。

 盗賊だ。

 間違いない。

 私は木の上へ飛び乗った。

 枝の上から状況を確認する。

 騎士たちはまだ異変に気付いていない。

 森の中を慎重に進んでいる。

 盗賊たちはさらにその外側から囲みを狭めていた。

 訓練された兵士ではない。

 だが森に慣れている。

 足音も少ない。

 待ち伏せには向いていた。

 このままでは危ない。

 そう判断した私は光を集めた。

 小さな光球を作る。

 そして遠くへ飛ばした。

 騎士たちの少し先。

 木々の間で光が瞬く。

 突然現れた光に騎士たちが足を止めた。

 その瞬間だった。

 盗賊たちが動いた。


「囲め!」


 怒号が響く。

 矢が放たれる。

 騎士たちも即座に反応した。


「敵襲!」


 黒髪の騎士が叫ぶ。

 剣が抜かれた。

 金属音が森に響く。

 私は思わず安堵した。

 不意打ちにはならなかった。

 だが状況は依然として不利だ。

 盗賊の数が多すぎる。

 木の陰から次々と現れる。

 騎士たちは五人。

 盗賊は四倍近い。

 正面から戦えば勝てない。

 私は呼吸を整えた。

 ここからは私の仕事だ。

 人は殺せない。

 剣も使えない。

 けれど支援ならできる。

 光を集める。

 圧縮する。

 そして解放した。

 森が白く染まった。


「ぐあっ!?」


「目が!」


 盗賊たちが悲鳴を上げる。

 閃光。

 前世で言うスタングレネードのようなものだ。

 光そのものに殺傷力はない。

 だが暗闇に慣れた目には十分だった。

 盗賊たちの動きが止まる。

 その隙を騎士たちは見逃さなかった。

 剣が閃く。

 一人。二人。三人。

 盗賊が倒れていく。

 しかし敵も馬鹿ではない。


「魔法使いだ!」


「森の中にいるぞ!」


「探せ!」


 叫び声が響く。私はすぐに場所を変えた。

 木から木へ。透明化したまま移動する。

 見つからない。見つかるわけにはいかない。

 私は昔からそうやって生きてきた。

 その時だった。

 盗賊の一人が弓を構える。狙いは黒髪の騎士。

 彼は別の敵と交戦中だった。

 気付いていない。

 矢が放たれる直前、私は反射的に魔法を使った。

 光を発生させ、目を眩ませる。

 矢の軌道がわずかに逸れた。

 頬をかすめるだけで終わる。

 黒髪の騎士が目を見開いた。

 周囲を見回している。

 だが私の姿は見えない。見せるつもりもない。

 再び閃光を放つ。盗賊たちが怯む。

 騎士たちが押し返す。

 戦況は徐々に変わり始めていた。


◇◇◇


 十分ほどで勝負は決した。

 盗賊たちは逃げ始めた。

 半数以上が捕縛され、残りは森へ散る。

 追撃は行われなかった。

 騎士たちも消耗している。深追いは危険だった。

 私は木の上からその様子を見ていた。

 終わった。そう思った時だった。

 視界の端に熱源が映る。一つ。離れた場所。地面に伏せている。盗賊ではない。

 小さい。人影も細い。

 私は眉をひそめた。

 怪我人だ。それも子供だった。

 騎士たちはまだ気付いていない。

 私は迷った。関わるべきではない。だが放置もできない。

 結局、私はそちらへ向かった。近付いて確認する。

 十二歳ほどの少女だった。手足には縄の跡。頬には痣。痩せている。盗賊に攫われたのだろう。

 呼吸はある。だが浅い。

 私は光を集めた。治癒魔法ではない。光属性に治療能力はない。だが体内を見ることはできる。

 骨折はない。出血も少ない。衰弱だ。食事と休息が必要だった。

 私は安堵した。死にそうな状態ではない。

 その時。


「君は誰だ」


 声がした。背筋が凍る。振り返る。

 そこには黒髪の騎士が立っていた。

 剣を下ろしたまま。警戒しているが敵意はない。

 いつの間に。

 私は思わず息を呑んだ。

 透明化は解除していない。

 それなのに。


「そこにいるんだろう」


 静かな声だった。


「姿は見えない。だが気配はある」


 私は返事をしなかった。できなかった。

 見つかった。

 その事実だけで心臓が早鐘を打つ。

 逃げなければ。

 そう思うのに足が動かない。


「助けてくれたのは君か」


 私は沈黙を続けた。


「礼を言う」


 その言葉に思わず顔を上げる。

 騎士は本当に礼を言っていた。

 感謝していた。

 利用価値を計算しているわけでもない。

 警戒しながらも、まず感謝を口にした。

 そんな人間に私はほとんど出会ったことがなかった。


「……違います」


 気付けば声が出ていた。

 小さな声だった。


「私は何もしていません」


「そうか」


 騎士はあっさり頷いた。

 追及もしない。

 だがその表情は少しだけ柔らかかった。


「なら独り言だと思ってくれ」


 そう言って彼は少女を抱き上げる。


「助かった」


 それだけ言い残し、仲間の元へ戻っていった。

 私はその背中を見送った。

 しばらく動けなかった。

 胸の奥が妙に落ち着かなかった。

 助かった。

 たった一言。それだけなのに。なぜだろう。

 私は今まも何度か人を助けてきた。

 目立たないように。見つからないように。感謝など求めずに。

 だが直接礼を言われたのは初めてだった。

 初めてだったからこそ。

 その言葉は思った以上に深く胸へ残った。

 やがて私は視線を逸らした。

 夜明けまでには宿へ戻らなければならない。

 何事もなかったように。

 いつも通りに。

 そう思いながら森を後にした。

 その時はまだ知らない。

 あの騎士が、翌日には私の正体へ大きく近付くことになることを。


◇◇◇


 翌朝、私はいつも通りに働いていた。

 寝不足ではあったが、それを表に出すつもりはない。

 夜明け前には宿へ戻った。

 誰にも見られていない。

 透明化を維持したまま裏口から入り、自室へ戻り、少しだけ眠った。

 それだけだ。

 何も問題はない。

 そう自分に言い聞かせながら食堂の準備を進める。

 しかし世の中というものは、案外思い通りにはいかないらしい。

 朝食の時間帯が終わり、客足が落ち着き始めた頃だった。

 宿の扉が開く。

 昨日の騎士たちだった。

 夜通し森にいたはずなのに疲れた様子は少ない。

 いや、正確には一人だけ違った。

 黒髪の騎士だ。

 疲れてはいる。

 だがそれ以上に何かを考えているように見えた。

 私は視線を合わせないように厨房へ向かう。

 その途中だった。


「少しいいだろうか」


 呼び止められた。

 心臓が跳ねる。

 けれど表情は変えない。

 振り返る。


「私ですか?」


「ああ」


 黒髪の騎士は頷いた。


「仕事の邪魔になるなら後でも構わない」


「いえ」


 断る理由もない。

 むしろ不自然になる。

 私は彼を食堂の隅へ案内した。

 昼前の時間帯で客は少ない。

 主人も女将も仕込み中だった。

 話をするにはちょうどよかった。


「何でしょう」


「礼を言おうと思ってな」


 またそれだった。

 昨夜も聞いた言葉。

 私は内心で警戒を強める。


「何かしましたか?」


「昨夜、森へ行かなかったか」


 やはり。

 私は平然と首を傾げた。


「行っていません」


「そうか」


 彼はあっさり引いた。

 拍子抜けするほどに。

 だが視線は外さない。

 試しているのだろう。

 私は気付かないふりを続けた。

 数秒の沈黙。

 やがて彼は小さく息を吐いた。


「なら本当に独り言だ」


 そう言って苦笑する。


「助けられた」


 昨夜と同じ言葉だった。

 私は返答に困った。

 否定しても意味がない。

 認めるわけにもいかない。

 結局、曖昧に微笑むだけに留めた。


「それは良かったですね」


「君は変わっているな」


 突然そう言われる。


「そうでしょうか」


「普通はもっと興味を持つ」


「騎士様の武勇伝にですか?」


「その言い方だと全く興味がないように聞こえる」


「実際、あまりありません」


 気付けば少しだけ本音が出ていた。

 彼は一瞬驚き、それから笑った。

 本当に可笑しかったらしい。

 私は戸惑う。

 何か変なことを言っただろうか。


「すまない」


 彼は肩を竦めた。


「騎士だと名乗ると大抵は目を輝かせるか、逆に緊張する」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 私は納得できなかった。

 騎士も人間だ。

 特別な存在ではない。

 少なくとも私にとっては。

 そんなことを考えていると、彼は手を差し出した。


「自己紹介がまだだったな」


 確かにそうだ。


「アレクシス・フォルナーだ」


 名乗られた以上、こちらも返さなければならない。


「リリアです」


「姓は?」


「ありません」


 正確にはある。

 だが捨てた。

 捨てたかった。

 もう思い出したくもない。

 アレクシスはそれ以上聞かなかった。

 それが少しだけありがたかった。


◇◇◇


 救出された少女は三日後に目を覚ました。

 話はすぐに街へ広がった。

 盗賊たちは人攫いも行っていたらしい。

 襲われた商人の荷物を奪うだけではない。

 身代金を取れそうな者。売れそうな子供。そういった人間も攫っていた。

 森の奥には隠れ家があり、少女はそこへ閉じ込められていたという。

 騎士たちが踏み込まなければ、どこかへ売られていただろう。

 その話を聞きながら、私は昔を思い出していた。

 売られる。その言葉だけで胸の奥が冷える。

 忘れたつもりだった。過去になったと思っていた。

 だがそうではないらしい。

 今でも記憶は残っている。

 今でも傷は消えていない。


「リリア?」


 女将の声で我に返る。


「大丈夫かい?」


「はい」


「顔色が悪いよ」


「少し考え事を」


 マリアさんは心配そうな顔をした。

 けれど追及はしない。

 この人は昔からそうだった。私が話したくなるまで待ってくれる。

 だからこそ話せない。

 こんな優しい人たちに、私はずっと嘘をついている。

 それが少しだけ苦しかった。


◇◇◇


 その日の夜。

 私は宿の屋根の上にいた。時々こうして一人になる。

 空を見上げる。考え事をする。それが習慣だった。

 星が綺麗だった。光の少ない世界だからこそ、夜空はよく見える。

 私はぼんやりと星々を眺める。前世と同じ星座はない。当然だ。ここは別の世界なのだから。


「そんなところにいたのか」


 声がした。

 驚いて振り返る。

 そこにはアレクシスがいた。

 私は思わず眉をひそめる。


「騎士様は屋根に登る趣味があるんですか」


「今日は偶然だ」


「本当でしょうか」


「疑われているな」


 彼は苦笑した。

 どうやら本当に偶然らしい。

 屋根の反対側から街を見ようとして、私を見つけたのだろう。

 私は少しだけ警戒を解く。

 アレクシスは私から少し離れた場所へ腰を下ろした。

 無理に近付いてこない。

 それも彼らしかった。

 しばらく沈黙が続く。夜風が吹く。遠くで犬の鳴き声が聞こえた。


「綺麗だな」


 ぽつりとアレクシスが言う。

 私は空を見上げた。


「星ですか」


「ああ」


「そうですね」


 再び沈黙。不思議だった。会話は少ない。気まずくもない。ただ静かな時間だけが流れていく。

 嫌ではなかった。むしろ心地良かった。そんな時間を誰かと過ごしたのは初めてかもしれない。

 やがてアレクシスが口を開く。


「昔、光属性の魔法使いに会ったことがある」


 私は反射的に体を強張らせた。気付かれないように空を見る。


「珍しいですね」


「ああ」


「どんな人でした?」


「老人だった」


 アレクシスは少し考える。


「夜になると街灯代わりに呼ばれていた」


 私は思わず苦笑した。

 なんとも光属性らしい話だった。


「それだけですか」


「それだけだ」


 彼も笑う。

 そして少しだけ真面目な顔になった。


「だが昨夜、考えが変わった」


 胸がざわつく。私は何も言わない。


「もし本当に光属性の魔法使いだったなら」


 アレクシスは夜空を見上げたまま続けた。


「とんでもない才能だと思う」


 私は返事ができなかった。

 言葉が出なかった。役立たず。価値がない。将来性がない。

 そう言われ続けてきた。

 だからだろうか。

 たった一人の言葉なのに。

 胸の奥が熱くなる。泣きそうになり、私は慌てて顔を逸らした。夜で良かったと思う。こんな顔を見られたくなかった。

 アレクシスは何も気付いていない。ただ静かに星を見ていた。

 私はそっと息を吐く。そして思った。この人は危険だ。

 秘密を暴くからではない。

 優しいからだ。

 優しくされることに慣れていない私には、その方がよほど危険だった。


◇◇◇


 それから数日間、穏やかな時間が続いた。

 盗賊団の壊滅によって街道の治安は大きく改善し、宿を訪れる商人たちの表情にも余裕が戻っていた。

 銀の杯亭も忙しかった。

 食事を運び、皿を洗い、部屋を整える。

 いつも通りの日常。

 本来なら喜ぶべきことだった。

 私はずっと平穏を求めて生きてきたのだから。

 それなのに最近は妙に落ち着かなかった。

 原因はわかっている。

 アレクシスだった。

 彼は相変わらず宿に滞在していた。

 盗賊事件そのものは終わった。

 だが捕らえた盗賊たちの尋問や周辺調査が残っているらしい。

 そのおかげで顔を合わせる機会も増えた。

 朝食を運ぶ。

 昼食を運ぶ。

 夕食を運ぶ。

 それだけなのに妙に意識してしまう。

 我ながら単純だと思う。

 前世も含めれば三十年以上生きているというのに。

 それでも恋愛経験はほとんどなかった。

 仕事ばかりの人生だったし、気付けば病院のベッドの上だった。

 そして今世では人を信じる余裕すらなかった。

 だから今の感情が何なのか、正直よくわからない。

 ただ一つ言えることはある。

 アレクシスと話す時間は嫌いではなかった。


◇◇◇


 事件が起きたのは、そんな頃だった。

 昼過ぎ。

 一台の馬車が宿の前で止まった。

 高価な作りだった。護衛もいる。

 貴族の馬車だと一目でわかる。

 私は反射的に顔を伏せた。嫌な記憶が蘇る。だが客は客だ。逃げるわけにはいかない。

 主人と共に出迎える。馬車から降りてきたのは中年の男性だった。

 身なりは豪華だ。立派な服。宝石の付いた指輪。肥えた体。典型的な裕福な貴族に見えた。

 その顔を見た瞬間。私は凍り付いた。

 知っている。忘れるはずがない。血が引いていく。心臓が嫌な音を立てる。

 父だった。

 私を売った男だった。


◇◇◇


 幸い向こうは気付いていない。

 十歳だった娘と十七歳になった今の私では印象も違う。

 髪も短くなった。日焼けもしている。

 何より貴族令嬢だった頃の面影はほとんど残っていない。

 だからこそ私は平静を装った。

 必死に。

 料理を運ぶ。

 水を注ぐ。

 笑顔を作る。

 震える手を隠す。

 だが内心は最悪だった。なぜここにいる。どうして。

 偶然か。それとも。考えがまとまらない。

 その日の夕方。

 私は裏庭へ出ていた。一人になりたかった。落ち着きたかった。深呼吸を繰り返す。

 すると背後から足音が聞こえた。


「リリア」


 アレクシスだった。

 私は振り返る。


「どうしました?」


「それはこちらの台詞だ」


 彼は眉をひそめていた。


「朝から様子がおかしい」


「そんなことは」


「ある」


 即答だった。

 私は思わず視線を逸らす。

 誤魔化せると思ったのに。


「何かあったのか」


 優しい声だった。

 だから困る。

 冷たくされれば警戒できる。

 突き放されれば距離を取れる。

 だが彼は違う。

 踏み込まないくせに、放ってもおかない。


「……昔を思い出しただけです」


 気付けばそう答えていた。

 嘘ではない。

 全部を話したわけでもないが。


「嫌な思い出か」


「そうですね」


「忘れられないほど?」


 私は少し考えた。

 そして苦笑する。


「忘れられるなら忘れています」


 アレクシスは何も言わなかった。

 ただ隣に立つ。

 慰めの言葉もない。

 励ましもない。

 それがありがたかった。

 私は誰かに同情されたかったわけではない。

 ただ少しだけ、一人でいたくなかったのかもしれない。


◇◇◇


 その夜だった。

 私は偶然、聞いてしまった。

 宿の廊下で。

 父と護衛の会話を。


「本当にこの辺りなのですか」


「報告ではそうなっている」


「しかし七年も前の話でしょう」


「見つからなくても構わん」


 父は鼻で笑った。


「ただ確認したいだけだ」


 私は足を止める。確認。何を。


「例の娘ですか」


「ああ」


 父は不快そうに答えた。


「光属性などという外れを引いた失敗作だ」


 胸が痛む。

 今さら傷付くものかと思っていた。

 そうではなかったらしい。


「生きていれば面倒だ」


「では処理を?」


「必要ならな」


 私はその場を離れた。これ以上聞いてはいけない気がした。

 足が震える。息が苦しい。七年経った。

 もう終わった話だと思っていた。だが向こうは違った。

 生きているか確認しに来た。必要なら殺すために。

 私は部屋へ戻った。

 椅子に座る。両手を見る。震えていた。情けないと思う。

 透明化もできる。

 暗視もできる。

 盗賊団を相手にだって戦えた。

 それなのに。

 父の存在だけで十歳の頃へ戻ってしまう。

 無力だった頃へ。捨てられた頃へ。

 その時だった。

 窓の外で何かが光った。私は顔を上げる。

 小さな光。窓の向こう。夜空の中。光球だった。

 私のものではない。街灯のものだ。それなのに、なぜか目が離せなかった。

 光。

 役立たないと言われたもの。価値がないと言われたもの。

 だが私はその光で生き延びた。ここまで来た。

 なら。

 本当に恐れるべきなのだろうか。

 私はゆっくり立ち上がった。

 逃げるのは慣れている。

 隠れるのも得意だ。

 だが今は一人ではない。

 マリアさんがいる。

 ガレスさんがいる。

 そして。

 アレクシスもいる。

 その事実を思い出した瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。

 窓の外では星が瞬いている。

 私はそれを見上げながら、小さく息を吐いた。

 明日になれば、何かが動く。

 そんな予感がした。


◇◇◇


 翌朝から宿の空気はどこか重かった。

 理由ははっきりしている。

 あの男がいるからだ。

 私の父。

 七年前に私を売った男。

 もちろん宿の誰もそんなことは知らない。

 知っているのは私だけだ。

 それでも落ち着かなかった。

 朝食の時間が終わり、食器を片付けている時だった。


「おい」


 声を掛けられる。

 振り返る。

 父だった。心臓が強く脈打つ。

 だが表情は崩さない。


「何でしょうか」


「お前、この街の者か」


「違います」


「どこから来た」


 探るような目だった。

 私は淡々と答える。


「覚えていません」


「覚えていない?」


「小さい頃の記憶が曖昧なので」


 嘘だ。

 だが逃亡生活の中で何度も使った嘘だった。

 父は私の顔を見つめる。嫌な沈黙が続く。やがて鼻を鳴らした。


「そうか」


 それだけ言って席へ戻る。

 しかし私はわかった。

 疑われている。

 ほんの少しだとしても。


◇◇◇


 昼過ぎ。

 裏庭で薪を運んでいるとアレクシスが現れた。


「顔色が悪い」


 開口一番だった。

 私は思わず苦笑する。


「最近そればかりですね」


「最近ずっと悪いからな」


 否定できない。

 自覚もあった。

 昨夜はほとんど眠れていない。


「何かあったのか」


 私は返事をしなかった。

 話すべきではない。そう思う。

 だが限界も近かった。

 七年間ずっと一人で抱えてきた。

 秘密も。恐怖も。全部。

 ふと気付く。

 私はいつからこんなにも彼を信頼してしまったのだろう。

 ほんの数週間前までは他人だったはずなのに。

 しばらく沈黙が続いた。

 そして私は負けた。


「もし」


 小さく口を開く。


「もし、自分を捨てた家族が目の前に現れたらどうしますか」


 アレクシスの表情が変わった。

 冗談ではないと理解したのだろう。


「会いたい家族か」


「いいえ」


「憎んでいる?」


 私は少し考えた。


「昔は」


 そう答える。


「今はわかりません」


 憎み続けるには時間が経ちすぎた。

 忘れるには傷が深すぎた。

 そんな感情だった。


「だが会いたくはない」


「はい」


 アレクシスは腕を組んだ。

 しばらく考える。

 そして静かに言った。


「逃げてもいいと思う」


 私は目を瞬かせた。


「騎士らしくないですね」


「そうか?」


「立ち向かえとか言いそうです」


「相手による」


 彼は肩を竦める。


「逃げるのが正しい時もある」


 その言葉に胸が少し軽くなった。

 私はずっと逃げてきた。

 それを恥だと思ったこともある。

 だが彼は違った。否定しない。責めない。


「ただ」


 アレクシスは続ける。


「今の君は一人じゃない」


 その言葉に私は息を止めた。


「困ったら頼れ」


 当たり前のように言う。

 簡単に言う。

 そんなことを言われたのは初めてだった。


◇◇◇


 その夜、事件は起きた。

 私は物音で目を覚ました。

 窓の外に人の気配が複数。

 嫌な予感がした。

 すぐに魔力を流す。

 赤外線視。

 世界が変わる。宿の裏。熱源が五つ。

 武器を持っている。

 侵入者だった。

 私はベッドから飛び起きた。

 次の瞬間。

 ガラスが割れる音が響く。

 悲鳴。

 女将だった。

 私は部屋を飛び出した。

 廊下を走る。

 一階から怒鳴り声が聞こえる。


「探せ!」


「娘だ!」


「この宿にいるはずだ!」


 血の気が引いた。

 私だ。

 私を探している。

 父だ。確信した。

 正体に気付いたのだ。

 いや、確証はなくても構わないのだろう。

 怪しい者は全て消すつもりなのだ。

 私は階段の陰から様子を窺う。

 武装した男たちが食堂へ入り込んでいる。

 宿の主人が殴られて倒れていた。

 怒りが湧く。

 恐怖より先に。

 こんなことになるなら。

 私がここへ来なければ良かった。

 そう思った瞬間だった。

 宿の正面扉が吹き飛んだ。

 大きな音が響く。


「王国騎士団だ!」


 聞き慣れた声。

 アレクシスだった。


◇◇◇


 戦いは一方的だった。

 侵入者たちは元々護衛崩れらしい。

 腕は立つ。

 だが騎士団には及ばない。

 次々と制圧されていく。

 私は陰からそれを見ていた。

 終わった。

 そう思った時だった。

 熱源が一つ動く。まだいた。

 父だった。

 裏口へ逃げようとしている。

 私は反射的に追い掛けた。気付けば外へ出ていた。

 夜風が吹く。

 父は私を見た。

 そして止まる。


「やはりお前か」


 その顔には驚きよりも苛立ちが浮かんでいた。


「生きていたとはな」


 私は何も言わない。


「余計なことを」


 父は吐き捨てる。


「最初から死んでいれば良かったものを」


 昔なら泣いていただろう。

 傷付いただろう。

 だが今は違った。

 胸が妙に静かだった。

 この人は変わらない。

 七年前から何も。

 だからなのかもしれない。

 ようやく理解できた。

 私はこの人に認められたかったわけではない。

 愛されたかっただけだ。

 そしてそれは最初から無理だった。


「さようなら」


 自然と言葉が出た。

 父が顔をしかめる。


「何だと」


「もう関係ありません」


 私は静かに告げた。


「あなたは私を捨てた」


「けど私は生き延びた」


 父の表情が歪む。怒りだった。

 彼は短剣を抜いた。


「生意気な」


 こちらへ踏み出す。

 その瞬間。

 私は光を解放した。夜が消える。白い光が世界を埋め尽くす。

 父は悲鳴を上げた。目を押さえる。

 私はただ立っていた。攻撃する気はない。殺す気もない。

 もうどうでも良かった。


「終わりです」


 その時。

 背後から足音がした。

 アレクシスだった。

 彼は光景を見て立ち止まる。

 父。

 光。

 私。

 全てを理解したらしい。

 だが驚きはしても責めなかった。

 ただ静かに私の隣へ立つ。


「後は任せろ」


 その一言だけだった。

 私は張り詰めていた力が抜けるのを感じた。

 長かった。

 本当に長かった。

 七年。

 逃げ続けた日々。

 隠し続けた秘密。

 それがようやく終わろうとしていた。


◇◇◇


 父はそのまま拘束された。

 侵入者たちも全員捕らえられた。

 宿の被害はあったものの、幸い死人は出なかった。

 ガレスさんもマリアさんも軽傷で済んだ。

 それだけが救いだった。

 騒動が収まったのは夜明け前だった。

 私は宿の裏庭に置かれた古い木箱へ腰掛けていた。

 眠気はない。頭も妙に冴えていた。

 七年間抱え続けたものが終わったからだろう。肩の力が抜けていた。

 同時に不安もあった。もう隠せない。光魔法のことも。過去のことも。

 全て知られてしまった。

 静かな足音が近付いてくる。

 振り返らなくても誰かわかった。

 アレクシスだった。

 彼は私の隣へ来ると、少し離れた場所へ腰を下ろした。

 夜明け前の空は薄く白み始めている。

 しばらく二人とも何も言わなかった。

 沈黙は不思議と苦ではなかった。

 先に口を開いたのは私だった。


「聞かないんですか」


「何を」


「色々です」


 アレクシスは少し考えた。


「話したくないなら聞かない」


「ずるいですね」


「そうか?」


「そうです」


 私は小さく笑った。

 それからゆっくり息を吐く。

 話そうと思った。この人には、全部。


◇◇◇


 私は生まれた家のことを話した。

 光属性と判定されたこと。

 役立たずと言われたこと。

 誘拐を装って売られたこと。

 逃げたこと。

 街を転々としたこと。

 銀の杯亭に拾われたこと。

 そして光魔法のこと。

 暗視。

 透明化。

 遠見。

 閃光。

 今まで誰にも話さなかった秘密を、全部。

 アレクシスは途中で口を挟まなかった。ただ静かに聞いていた。

 私が話し終える頃には、東の空が赤く染まり始めていた。

 長い沈黙が続く。やがて彼は言った。


「大変だったな」


 それだけだった。

 同情でもない。憐れみでもない。ただ事実として。

 私は思わず笑ってしまった。


「もっと驚くかと思いました」


「十分驚いている」


「見えません」


「騎士だからな」


 それらしい答えだった。

 私は肩を竦める。

 するとアレクシスが真面目な顔になった。


「一つだけ聞きたい」


「何でしょう」


「君は今でも光魔法が役立たずだと思うか」


 私は言葉に詰まった。

 その問いは単純だった。

 だが簡単ではなかった。

 昔なら即答できた。役立たずだと。価値がないと。

 だって皆がそう言っていたから。

 父も。

 母も。

 兄も。

 周囲の全員が。

 けれど今は違う。

 光魔法で逃げた。

 光魔法で生き延びた。

 光魔法で人を助けた。

 光魔法で盗賊団を止めた。

 光魔法で自分自身を守った。

 なら。

 役立たずだったのは本当に光魔法だったのだろうか。

 私は空を見上げた。

 朝日が昇り始めている。

 夜を追い払うように。

 世界を照らすように。


「違うと思います」


 自然と言葉が出た。


「光魔法は役立たずじゃありません」


「そうだな」


 アレクシスは迷わず頷いた。


「俺もそう思う」


 その言葉に胸の奥が温かくなる。

 昔の私が聞いたら泣いていたかもしれない。

 いや、きっと泣いていた。


◇◇◇


 しばらくしてアレクシスが立ち上がった。

 私もつられて顔を上げる。


「任務が終わる」


 彼は言った。


「王都へ戻ることになる」


 胸が少し痛んだ。

 そうだ。ずっと宿にいるわけではない。

 騎士なのだから。当たり前の話だった。

 それなのに、私はその当たり前を忘れかけていた。


「そうですか」


「そうだ」


 会話が途切れる。

 言いたいことがある。

 けれど言葉にならない。

 そんな空気が流れた。

 先に沈黙を破ったのはアレクシスだった。


「リリア」


「はい」


「一緒に来ないか」


 私は目を瞬かせた。

 一瞬、意味がわからなかった。


「王都へ?」


「ああ」


「なぜですか」


 聞き返した瞬間、自分で馬鹿だと思った。

 けれど他に言葉が出なかった。

 アレクシスは少し困ったように笑う。

 それから真っ直ぐ私を見る。


「好きだからだ」


 私は固まった。

 本当に。

 文字通り。

 頭が真っ白になった。


「君といる時間が好きだ」


 アレクシスは続ける。


「もっと一緒にいたいと思っている」


「私は」


 声が掠れる。


「私は普通の人じゃありません」


「知っている」


「光魔法もあります」


「知っている」


「貴族ですらありません」


「それも知っている」


 全部知っている。

 それでも。


「だから関係ない」


 アレクシスは言った。


「俺が好きなのはリリアだ」


 あまりにも真っ直ぐだった。

 眩しいくらいに。

 だからだろう。

 私は思わず笑ってしまった。

 泣きそうになりながら。

 笑ってしまった。

 ずるいと思う。

 こんな言葉を言われたら。

 断れるわけがない。


◇◇◇


 春になった。

 私は銀の杯亭を辞めた。

 もちろん喧嘩別れではない。

 マリアさんには泣かれた。

 ガレスさんには「幸せになれ」と頭を撫でられた。

 何度も礼を言った。

 命を救ってもらった。

 居場所を与えてもらった。

 一生忘れないと思う。

 王都へ向かう馬車の中。

 私は窓の外を眺めていた。

 隣にはアレクシスがいる。

 未来がどうなるかはわからない。

 騎士の婚約者になるのも初めてだ。

 王都での生活も知らない。

 不安はある。

 けれど。

 昔ほど怖くはなかった。


「どうした」


 アレクシスが尋ねる。

 私は少しだけ考えた。

 それから微笑む。


「一つ、考えていたことがあるんです」


「何だ」


 私は窓の外へ視線を向けた。

 春の陽光が降り注いでいる。

 暖かい光だった。


「光魔法使いは幸せになれるか」


 昔の私なら答えられなかった問い。

 ずっと答えを探していた問い。

 けれど今ならわかる。

 アレクシスが不思議そうな顔をする。

 私は笑った。


「なれるみたいです」


 そう言いながら彼の手を握る。

 アレクシスは少し驚いた後、静かに握り返してきた。

 馬車は春の街道を進んでいく。

 暖かな光の中を。

 その先に続く未来を照らすように。

 もう私は光を嫌いではなかった。

 光は私を見捨てなかった。

 そして今。

 ようやく手に入れた幸せを、優しく照らしてくれていた。


――――完


ご拝読いただきありがとうございました。

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