後編 星見の予言と求婚の秘宝
足音もなく駆けてきた傭兵の手が、荷台の脇に下がっている紐を引く。
絞られた幌がするすると上がっていく。傭兵は小さな手燭の炎を掲げて、荷馬車の荷台を照らす。
「昆虫採集で『数える』っていうと、これかねぇ」
所狭しと積み上げられているのは、大量の貯蔵樽。紐の先を柱の金具に引っ掛けて、身軽な動きで荷台に飛び乗った傭兵は、並ぶ樽を端から順に数えていき、37個目——いつだったか、御者集団と飲み比べをしたときに古参の一人が酒のはずみでうっかり漏らした『秘密の数字』——の樽の蓋をコンと軽快に叩く。腰に巻いた革ベルトから短剣を引き抜き、その木蓋をこじ開ける。
「あった」
樽の中に詰められていた真っ白な粒をひと舐めして、その、よく精製された上質な甘味にうっとりと微笑んでから、空の小瓶ですくいあげる。
と。
近づいてくるいくつかの足音と、中身の入った樽を転がす重い音。陽気な笑い声。傭兵は反射的に重心を落として短剣を構え——ぴたりと動きを止めた。剣を収めた手が、代わりに、樽の間に引っかかっていた板切れを手に取る。
「ん?」「シッ」
短いやりとりが聞こえたと思うなり、
「おい!! そこで何してる!!」
荷運び屋の男たちが、酒臭い息を吐きながら荷台に駆け寄る。馬車の後輪に差し込まれていたはずの車輪止めが飛んでくるのをひょいと避けて、振り返った女性が、小脇に抱えたただの板切れを示して、落ち着いた声音で答える。
「どうも。貯穀害虫と貯蔵量の抜き打ち検査です」
「なにっ」
「大丈夫、異常なしです。報告してきますね」
傭兵は穀物の入った樽の蓋をコンと叩き、荷運び屋たちの横をすり抜けて荷台から飛び降りた。何食わぬ顔で商隊長たちのテントのほうへと歩いていく。
夕食の皿を洗う料理人たちの間を抜け、獣除けの柵に繋がれた馬の背をひと撫でして、炊事場の裏に積まれていた薪木の山のてっぺんに、持っていた板切れを放る。商隊長のテントの脇を通り過ぎ、表情も足取りもそのままに、枝葉を掻き分けてゆるやかな坂道を上がっていく。駐留地を一人離れた傭兵は、丘陵の斜面に生える木の幹に触れる。ごつごつとした特徴的な樹皮を短剣で少し削り取ると、白い、乾いた木肌に指を滑らせる。
御伽噺の中で——高貴な姫に恋した求婚者は、緑石の丘陵に赴き、白楢の大樹の皮を象牙の小刀で剥がして、流れ出る樹液で躑躅蝶の群れを呼び寄せる、のだが。
「樹液が出るには時季外れだものな。——で、『隠れる』と『目をつむる』、と」
近くの茂みに分け入って、草の柔らかいところを選んで、ごろりと寝転がる。あくびをひとつ、風に揺れる緑色の枝葉をぼんやりと見上げてから、傭兵は目を閉じた。
*
ひときわ冷たい夜風が顔に当たる感覚に、傭兵は目を開ける。
「……ん?」
躑躅の花弁によく似た、鮮やかな翅が樹皮に集まっている。目を輝かせた傭兵はそうっと身を起して蝶に近寄り、木の幹に付いた鮮やかな粉末を指先ですくって、空の小瓶に落とした。
と——
不意に変わった風向きに乗って、丘の下からかすかに届く、警鐘の音。
さっと表情を変えた傭兵は、武人特有の足取りで、舞う蝶たちからすばやく数歩離れて、崖を見下ろす。
手に煌々と燃える松明を持った見慣れない徒党が、黒い馬を駆って西側の砂漠から現れる。鋭い金属が月明かりに反射する。徒党はまっすぐに商隊の駐留地へと向かっていく。
あれくらいならどうとでもなるだろう、と傭兵は仲間の顔を思い浮かべて踵を返そうとして。
ゆっくりと目を細める。
徒党騒ぎとは正反対の方角——木々とテントの影に隠れるようにして、人目を忍んで商隊長のテントに入っていく数人の影。
小瓶にきつく蓋をした傭兵は、それを腰から下げた革袋に落としてから、短剣の柄に手を滑らせる。
*
「——そこまで。全員、外に出ろ」
夜の空気を裂くような、鋭い傭兵の声。
室内にいた全員が——商隊長の荷を物色していた者たちが、一斉に振り返る。
ゆるいウェーブの髪を夜風になびかせた傭兵の女が一人、テントの入口に仁王立ちしている。手にはよく使い込まれた短剣。入口前で見張りをしていたはずの盗賊の新入りが、意識を刈り取られて、どさり、と崩れ落ちる鈍い音。
盗賊たちと傭兵が睨み合って数秒、テントの外から駆けてくる足音がひとつ。
傭兵が後方に意識を少し向けて、
「何やってる」
聞き覚えのある声に、傭兵の口元がゆっくりと緩んでいく。
だぼだぼの服をまとった小柄な少年が、肩で息をしながら駆け寄ってくる。右目の前の水膜が大きく揺らぐ。頭に巻いた重そうなターバンの先端、特徴的な紋様の描かれた布が夜風になびく。
「これには目ぇつむって一度戻ってこいって、そう書いただろ」
「あぁそういう意味? てっきり、」
「知ってる、今さっき読み直した」
短く言い捨てた少年の手が、護身用の小刀を取り出して鞘を払う。薄い水膜越しに見上げた先、薄雲がかかった空に舌打ちを鳴らす。
少年をかばうように前に立った女が、武器を構える盗賊たちを見渡す。
盗賊の一人がテントの内側に剣を突き立て、横へ引く。大きく切り裂かれた隙間から夜風が吹き込み、あっという間に、柱だけを残して分厚い布が地面に落ちる。防音断熱用の綿が風に飛ばされる。
傭兵が、後方へ短く言う。「時間稼ぐから、ほかの兵呼んできて」
目の前の二の腕に巻かれた包帯に、赤色がにじみ始めるのを見、少年は顔をしかめて平坦に答える。
「あんたが行け。さっきからさんざん呼んだ。……星詠みの言うこと聞くやつなんか、」
「——北の空、2時、係数45、35、子丑の高さに赤の星」
二人の背後から男の声。
その内容に、少年が呆けたように口を開け、瞳が戸惑いに揺れたのは一瞬。素早く手を伸ばして女の手をぐいと引く。
「わ」
よろめいた傭兵の背中を、頭一つ小柄な少年が両腕で抱きとめる。小刀が地面に落ちる。長い髪がふわりと舞う。
盗賊の一人が、火鉢に立てかけられていた火鋏を掴んで投げる。女の短剣の先をかすめてわずかに軌道を変えた火鋏が、少年たちの後方から飛んできた一本の矢をもかすめ——
軌道を変えたその矢が、別の盗賊の左胸に、吸い込まれるように、まっすぐに突き立った。
自身の胸を見つめながら、目を見開いたまま、苦悶の声を上げて崩れ落ちる一人。倒れた木箱から金色の硬貨がばらばらと散らばる。
傭兵はまばたきを数回。そっぽを向いた少年がさっと手を放す。
「ドンピシャだな、こりゃすげぇ」
場違いな口笛と陽気な声に、全員が視線を向けた先——
星の見えない夜空に指矩を向けて、理知的な目を細め、科学者の男が快活に笑う。
「前々からオレもキョーミあったんだよね。明らかに事実無根、荒唐無稽な原理、なのに——なんでか八割当たる。測量じゃあ分かりえない事象まで」
彼の背後には、矢をつがえた弓兵が数十人。四方に散って逃げようとしていた盗賊たちが、動きを止めて嫌そうな顔をする。
「安心しな、オレが代わりに見てやっから」
「どう、やって」
「あとで教えてやる。驚け、これが風土規矩術だ」
男が促すように大きくうなずき、獰猛な目をした傭兵が地を蹴った。薄雲を突き抜けた月明かりに、短剣の銀が光る。
*
騒動の鎮圧は、その数十分後。
遅れて駆け付けた傭兵たちが、盗賊に馬乗りになって後ろ手に縄をかけていく。
「はー、終わった終わった」
すっきりした顔をした女が、短剣を仕舞って、男と弓兵たちに礼を言い。
「さて。だいぶ少ないけど——どうぞ、受け取ってもらえるかな」
少年の前に差し出される、古い硝子の小瓶。底に溜まる躑躅色の鮮やかな粉末がきらめく。
少年の顔をのぞきこんで、ひざまづいた長身の女は、上機嫌にウインクをひとつ。
「ロマンチストは、お嫌いですか?」
からかうような、ひどく楽しげな笑みを浮かべて。
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