2『スージマン ~スージぃ・長万部』
−2− 『スージマン ~スージぃ・長万部』
「はい、あ〜ん」
「ぐ………」
いてっ…、喉の奥に入れすぎなんだよ。
中庭にある芝生のど真ん中を陣取った俺達は、いつものように弁当を食っていた。
『いつものように』っていうのは、こういう風に周りの視線が刺さるのを感じながら、一つの弁当を、一つの箸で、二人であーんしながら食っている様子のことを言うわけで。………さすがにこれだけは慣れることができない、恥ずかしすぎる。
「カラポン、私にも!」
「へいへい………ほらよ。………ん?」
ミートボールを林檎の口に放り込もうとしたら、林檎の奴は不機嫌そうに口をツンとさせて閉じてしまった。…やっぱ、やらなきゃダメってか…。
「んーっ!」
「わかった、わかったって! …ほら、開けろ、あーん…」
ああ恥ずかしい、恥ずかしい………。どうして林檎は、こんなに恥ずかしげも無く、“イッちまった”みたいな顔してミートボールを食ってられるんだろう………それにしても、本当にうまそうに食べるんだよな、こいつ。
「なぁ、最後の一個もらってもいい?」
「だーめ! さっき食べたじゃん!」
言うが早いか手が早いか、最後のミートボールを手づかみで奪い取った林檎は、文句を言う隙すら与えず口の中に放り込んでしまった。お行儀が悪い。
「ちぇっ……っぷ?!」
突然口の中に肉々しい味が染み込んできて、トロトロとした粘液みたいなのが舌やら歯やら唇やらにまとわりついてくるような感じがした。………不意を打たれた。
「はい、おすそわけっ。どう、おいしかった?」
「………ここ、まだついてるぞ」
唇の下にミートボールの色がついていたのを見つけて、俺は仕返しとばかりに、そこをわざと汚らしいように舐めてやった。
「やんっ……ばかぁ…」
またその仕返しとばかりにキスを返す林檎。こういう時の、抜け切れてしまったような表情とかは嫌いじゃない。
自分は大して熱意を出していないのに、林檎が勝手に壊れてしまってるようで、可愛げがあって、そして滑稽であり、林檎という年上の女を見下すことができる瞬間――――その優越感を、俺はどうも嫌いじゃないらしい。
だから俺は、蒼井林檎が『嫌いではなかった』。だけど――――
「うっは………見ろよあれ。きったねぇキッス、」
「お互い臭くてしょうがねーべ、 弁当食った後じゃよぉ。きひひ」
「 」
俺は何も言えなかった。口は塞がってるし、言えば林檎も気付いて、機嫌を損ねるだろう。
だから俺は、顔を持つフリをして、林檎の両耳を塞いだ。
「ん…」
何を勘違いしたのか、林檎はますます体を密着させてきた。柔らかい感触が服越しに押し迫ってきているのを感じながらも、俺は耳からは手を離さないように気をつけた。
――――――――
「じゃあねカラポン! また放課後!」
「ああ」
さよならのキスをして、バイバイと手を振り、階段を上っていく林檎。段を上がるごとに少しずつ見えてくる、スカートの中のジャージが、また俺の気分を滅入らせていく。それは、同時に、やっと解放されたという安堵感も生んでくれるのだから、皮肉な話だ。
(最初はもっとドキドキしたんだけどな………今じゃ、楽しささえ感じられない)
「あっ、そうだ!」
しまった、顔に出たか? と、俺は慌てて何でもないような表情を作って上を見上げた。階段の手すりから、林檎が身を乗り出して顔を覗かせていた。
「ごめんカラポンっ、今日病院行く日だった! やっぱ今日は放送室行けない!」
「あ、ああ、わかった。…じゃあ、また明日、だな。」
「寂しいなぁ……えいっ!」
何か思いついた顔をしたかと思うと、林檎はいきなり手すりの上をまたいで、下の段の手すりに降りてきたかと思うと、また足を広げ、手すりの両脇に足を乗せ、前かがみになった。
「な、何やってんだよ!」
「すべり台!」
両手をお尻の後に持っていって、自分の体を押すと、不安定に上下左右へ大きく体を揺らしながら、林檎は手すりの上を滑り………どちらかと言うと、『摺り落ちて』きた。
「わっ! あぶねぇよ馬鹿!」
「わわわあ、はぁ〜!」
…たぶん、そのまま滑ってくれればたいしたこと無かったと思うのだけれど、林檎は手すりの終わる直前に馬跳びのようにして跳ね上がってしまった。受け止めに行った俺は、モロにその膝蹴りを顔面で喰らうハメになった。
「ふがっ!?」
鼻から奇妙な感覚がしたのを感じながら、俺は林檎に床へ押さえつけられてしまった。林檎は俺の腹辺りから上に交差するように重なったらしく、胸が圧迫されて息がしづらかった。
「ぅ〜っ、いったぁい…カラポンごめん、大丈夫?」
「………死んでは、いない………」
下の階から上ってきた生徒とか教師達が、俺達を見てギョっとしたような顔をして、目を逸らして行った。………叱るか心配するか、どっちかしてください…。
「………遅刻するぜ。俺は大丈夫だから、行けよ」
「…うん」
というか、どいてくれないと俺が遅刻する。しかし、林檎はすぐにはどいてくれなかった。というのも、
「カラポン、好き」
やっぱり、キスを。それも、長く、十秒くらいしてから、ようやく階段を上っていったのだ。パンチラならぬ、ジャーチラを見送った俺は、ようやく身体を起こし、呆然と窓から降り注ぐ、白い光を受け止めていた。
「………鼻血、出てるっぽいな」
こういうのが、俺と林檎のいつもの昼休み。俺は全然昼“休み”になってないっていうのは、言うまでもないだろう?
――――――
コーンキーン、カーンコーン………。
校長が変わってから付けられたというチャイムは、すこぶる評判が悪かった。チャイムという定着しきったメロディを裏切られる、何ともへっぽこなストレスがあるからだ。
これが今日最後のチャイム。ようやくへっぽこなストレスから解消されるってもんだ。
「粟野、ティッシュまだあるか?」
「何だよ、まだ止まんねーのか? 林檎先輩と過激なえっちのしすぎなんじゃねーの」
粟野はティッシュではなく、教卓の中に入ってるトイレットペーパーを取って渡してきた。昼休みの一件以降、鼻の両穴にティッシュを詰め込んでいたのだが、午後の二時間の間どうも止まらなくて困っていた。
「うるせーな。俺だって、あそこまでやりたくてやってるわけじゃねーよ」
「何だよそれ、不満だってのか? ぜ〜たくだよなぁお前! 林檎先輩いいじゃねぇかよ! 上も下もムッチムチの、ボッ! キュッ! ボンっ! 顔立ちもいい、トロンとした垂れ目に薔薇の蕾みのような清楚な唇! どこを取っても不足無し!
おまけに陸上部では全国大会が期待される超速スプリンター! そんな完全無欠な先輩と! 毎日抱き合って、キスをしまくって! あの胸と! 尻と! 唇を! 全部独り占めしておいて、お前はいったい何が不満だって言うんだよぉっ!」
………粟野はわーざと声を大にして、全身全霊を込めたパフォーマンスを加えて俺に詰め寄ってくる。教室の男子の一部は、おもむろに『ウンウン』と頷いている奴までいた。
「………林檎は料理しないぞ」
「そぉんっれぇえが、贅沢だと言うのだぁぁっ!!!!」
激しく机を三回叩かれた…。
「…別にいいじゃねぇかよ、お前三次元の女には興味が無いって言ってたじゃねぇか」
「いや! この頃カラポンを見ていて考えが変わり始めてきたんだ。二次元の彼女達は確かに理想的………しかし! 俺が生きる世界は『三次元』! 彼女達とは、決して会えない、触れ合えない、声すら掛けられない………この絶望に気付いた時、俺は人生の分岐点に立たされたと感じたのさ!
真実の愛を、二次元を貫くのか! それとも実感のある、触れることのできる、不完全な三次元の愛を選ぶのか!
あああ!!!! 俺はどうしたらいいっ、どうしたらいいんだぁ!!!!」
…教室の空気はさっきとガラリと変わって、俺を非難する目から、いつの間にか粟野を蔑む目に変わり始めていた。
「………アホのスケべぇ、本領発揮か」
「その名前で呼ぶなっ! ………なぁカラポン、お前はどれだけ幸福なのかってのを考えたことはあるか? いや、無いな! お前は自分がどれだけ恵まれてるかってことに気付いていないんだよ!」
どういうことだ? ティッシュを詰め替えながら、俺は黙って話を聞いていた。
「林檎先輩とはつまり、二次元の、絵に描いたような完璧なプロポーションと設定を持ちながら、三次元の実感ある柔らかさ! 触れ合える身近さ! そして愛! 二次元と三次元の全てを兼ね備えた完璧な女性! その全てをお前はぁぁああ!!!!」
………ダメだ、もうついていけない。二次元と三次元がごっちゃになった粟野を止めるのには、二、三時間は必要になるだろう。
「えーと………今日来れないんだっけか、ブシドー?」
「…へっ、あ、アタシ?!」
前振りも無く話しかけたものだから、ブシドーはすっとん狂な声を上げてビクンッ! と、反応した。…何でそんなに驚いてるんだ?
「…たしか今日は剣道部だろう? そろそろ主役のブシドーがいないと撮れないシーンしか無くなってきたし、来れないなら来れないでアフレコとかもやらないと行けないだろ?」
「あ………うん、ごめん。今日は剣道の方に出させて。明日は、ちゃんと出れるから!」
ごめん! と両手をパチンと合わせると、ブシドーは鞄と竹刀を持って、逃げるように教室の外へと走っていった。途中、ドアの所に鞄をぶつけたりと、何だか落ち着きが無い様子だった。
「………試合が近いのかな?」
「俺を無視するとはいい度胸だなぁ、カァラポォ〜ン」
おお、すっかり忘れていたぞアホのスケベェ。
――――――
「…あれ、誰もいないのか?」
メディア部の活動場所は放送室。ビデオカメラとか、パソコンとか、アフレコ用のマイクやミキサーとかも全部揃ってる、絶好の活動場所ってわけだ。元々が放送部だった、ってのもあるけどな。
「だいたい誰かいるはずなんだけど………うん?」
鍵の掛かったドアに、小さく折畳んだ紙が挟まっていた。引き抜いてみると、表には『カラポン先輩』とだけ書かれてていた。
「………小雪ちゃんとぼたんちゃんか」
『今日は文化祭のクラスの準備があるので、私と小雪は出れません。すみません。 ぼたん』
メモ帳か何かのページを綺麗に切り取ったような紙に、それだけが書かれていた。猫とウサギのキャラクターが薄くプリントされていて、何とも可愛らしい。
(ぼたんちゃんも、こういう可愛いのが好きなんだなぁ)
女の子だから当然と言えば当然なのだが、ちょっとそういうイメージが無かったので意外だった。…いや、ちょっと待てよ?
「林檎がいない、ブシドーがいない、小雪ちゃんもぼたんちゃんもいなくて………粟野も来ないとか言ってたし…ということは、」
つまり、今日は放送室に誰も来ないのだ。…俺以外のメディア部部員、全員不在。
「………一人で撮影もできねぇし、今日は帰るか」
俺は顧問の柴本先生の所に寄って、今日は帰ることを告げてから校舎を出ることにした。途中、渡り廊下から格技場が見えて、剣道部が激しく竹刀をぶつけ合っている様子がよーく確認できた。
こっちのいいかげんな部活と違って、向こうはきっちりと部活をしているらしかった。
(ブシドーも大変だよなぁ。助っ人って言っても、ほとんどメディア部を兼部してるようなもんだもんなぁ…)
ホント、頭が下がる思いだった。自然と、頭が深々と格技場に向かってお辞儀をしてしまっていた、
――――――
梅雨の合間の、晴れ晴れとした青い空。遠くの山の向こうには、モクモクとした入道雲が垣間見えて、もう夏なんだよ! と、えばりに来ているようにさえ思える。田んぼの稲も青々とした穂を実らせ、時折車が吹かせる風に合わせて、そよそよと静かに揺れていた。
こんないい日は、絶好の撮影日和なんだけれど、キャストもいないし、スタッフもいない。
仕方なく、一人家路に自転車で向かう俺。なんか寂しい。
「寄り道でもしてくかー」
帰っても、撮影した映像の編集ぐらいしかやることがないしな。『それが一番大変な作業なんだ』っていうツッコミとか、『宿題とかは無いんかい』ってツッコミは、この際スルーだ、スルー。
(たまにはこんな息抜きも、いいんじゃないかな)
田んぼと住宅街を挟む道路を抜けていくと、田んぼ側の方に突然、こんもりとした形の小さな森が出現する。昔からセミとか、カブトとか、昆虫の宝庫みたいな所で、小さい頃にはよく網を持って突撃した覚えのある場所だ。
俺はその入口である、木々のトンネルで覆われた小道を登り始めた。このてっぺんには、ほったらかしにされた感じの小さな神社があって、いかにも怪しげな伝説とかが眠っていそうな雰囲気を持っているのだけれど、残念ながらそれを匂わせる碑文とか、お社も何も置いてはいなかった。
こっちは裏道で、鳥居がある方とは逆側に出る道だった。
「…この森の隙間から見える景色が、結構好きだったんだよな」
田んぼがずーっと奥の方へと広がって、その中心には星流川。その星流川に吸い寄せられるように線路が大きくカーブしていて、そして二つが合流するようにして山の中へと消えていっている。
電車がその上をゆっくりと動いていっては消えていく様子が、特にお気に入りだった。
「ここもどっかのシーンで入れたいなぁ」
ネタ帳、メモ。思いついたら、これ、基本だな。
神社のベンチで一休みして、無理やり自転車を転がしつつ石段を降りてきた俺は、田んぼ密集地帯に沿って走る道路を、わざわざ家路から離れるのを分かりながら自転車に乗っていた。なんとなく、今日はそうしてみたい気分だったんだろう。
(林檎とかメディア部とか、そういう負担から解放されていく感じがする…ああ、いい気持ちだ! ………ん?)
後から、クラクションの音がした。大型車? たいして車が通ることも無いような裏道なのに?
(…路線バス? こんな所に通ってたっけ)
あぜの方に一歩降りて道を譲ると、銀色車体に紅帯を巻いたバスはブロロ………と、エンジンを軽やかに唸らせて通り抜けていった。小さな女の子が一番後ろを独り占めしていて、両手を付いて後を見ているのがわかった。見た感じ、他に誰も乗っていないらしかった。
「こんなとこにバス停が……なんだ、一日三本しか無いじゃないか」
信号の無い交差点の手前に、ポツンと小さな棒がつっ立てるだけみたいなバス停があった。
上についていたらしい丸い板はひっくり返って土台の傍に落ちていた。『水車小屋交差点』と古めかしい字で書かれていて、赤茶色の錆がビッシリと浮いている。
さっきのバスは、そこから更に少し進んだ所で左に曲がっていった。田んぼが切れて、山道への入口のようになっている場所があるのだ。
(ここは知ってる。反対側へ行けば家の方へ出れるんだ)
その坂道の脇に、やはり小さなバス停がぽつんと置いてあった。『上根田折返場』。バスがそこに止まっていなければ、バス停と気付かないかもしれないような場所だったが、折り返しができるようにと、少し広くなっていた。
「…乗ってるのかな、このバス」
なんて、経営状況を心配する理由も無くて。『回送』の幕を出してこっちを向いているバスの前を横切って、家路へと向かった。
坂道の方には行かないで、山を避けるように伸びる道へ、再び田んぼ道。北貝梨の街が、ようやく近くに見えてきた。
「…ん?」
プップッ、
後から、クラクションの音がした。大型車? たいして車が通ることも無いような………って、あれ?
「………さっきのバス?」
『回送』の幕を出した、銀色車体に紅帯のバスが、ソロソロと近づいてきていた。田んぼの稲穂とまったく溶け合わない色なだけに、えらく浮き出て目立っている。
あぜの中に一歩入って避けると、なぜか、バスは自分の横まで来て停車し、中扉を開いた。バス停も無いのに?
プー、プシュァー。
『整理券をお取りくだサイ。バス共通カードをご利用の方は………』
録音された女性の声が、放り投げるように適当な音量で繰り返されている。
…もちろんのことだが、降りてくる人も乗ろうとする人もいない。しかし、中扉は開きっぱなしだった。冷房もどんどん抜け出て行ってるのもお構いなしだ。
すると、バスの中からドタドタドタ―――という、騒がしい音が聞こえてきた。
「うちゅーじぃんんん〜〜〜、みぃっけぇッ!!!」
「ぬわっ?! …お前は昨日の…」
スージぃ長万部! 中扉に現われたのは、昨日北貝梨駅で出会った、あのやかましい少女だった。
「ようこそ! あなたを幻想郷へと導く素敵な真紅の路線バス、その名もスジマン線! パンパカパーン!! 栄えあるお客様第一号に選ばれたのは、あなた! 北貝梨市在住のうちゅーじんさんでぇーっス!!」
ドンドンぱふぱふ〜な音が聞こえそうだ、と思ってたら、本当に太鼓とかおもちゃのラッパとかを鳴らしていやがった。いったいどこから出したんだ。
「『つまり貸切というわけです。遠慮なさらずに、どうぞご乗車くださいませ』」
案内音声が途切れて、聞き覚えのある男の声がスピーカーから割って入って来た。プシューという音がして、前扉が開くと、サングラスをした運転手が、身体を乗り出して、どうぞと言わんばかりに俺を促していた。
「…よく見えないけど、あの人って」
「うん、パパだよ」
…パパだったのかあの人。どうりで肩車とかしてたわけだ。
「いや、それもそうだけど………お前の父さんはバスの運転手だったのか? なんか昨日は“我々”とか言ってた気がしたけど」
「違うよ。シュミで大型二種免許を持ってるだけ! 観光バスとか、ハイヤーとかだって運転できるんだから!」
訳が分からん…。だいたい二種免許って趣味で取れるものなのか? 少なくとも、勝手に路線バスを貸切ることなんてできないと思うんだが…。
「ま! こんな所で立ち話も何だから。とにかく乗れ、うちゅーじん! タダで乗っていいぞ、タダ! 無料、フリー、庶民の味方!」
スージマンはグイグイと俺をバスの中に引っ張りこもうとした。が、そんな拉致監禁行為を認めるわけにはいかない。俺は地面に踏ん張り立つことで抗議した。
「乗るか。あとさ、その『宇宙人』って呼び方やめろよ。俺はお前と同じ地球人だっての」
「いいじゃん、名前知らないんだし。とにかく乗れ! うちゅーじん、早くしろぉい!」
絶対こいつは人の話を聞くつもりはないらしい…。しびれを切らしたのか、スージマンはバスから降りて、後ろから俺の背中を押し始めた。それでも駄目だと思ったのか、しまいには自分も後ろを向いて、おしくらまんじゅうみたいにケツをぶつけだした。もちろん、俺はビクとも動かない。
(かってぇケツ………林檎はもっと柔らかかったのに、成長の違いか?)
「いや〜ん! お兄ちゃんのえっちぃ! 後ろはだめぇ〜ん」
「あっ! 汚ねぇぞてめぇ! 人聞きの悪いこと言うんじゃねぇコラ!!」
田んぼ道のど真ん中で誰かに聞かれるわけがないのだけれど。
あかんべーをして逃げるスージマンを、俺は無意識に捕まえようと追いかけていた。
「きゃははは! ほらほら! 早くワタシを捕まえてよー、ノロマうちゅーじんっ! きゃはははは!! 犯されちゃうーっ!!!」
「黙って逃げろやこらぁーーっ! ホントに襲ちっまうぞバカヤロぉお!!!」
あぜ道に下りて、田んぼの泥を飛ばして走って、道路に上がって………冷静に考えられたなら、何でこんなアホみたいなことをやってるんだろうと、立ち止まることができただろう。
でなければ、自然と足は止まっっていたはずだ。バスのステップを踏んだその時に。
『発車しまス。お掴まりくだサイ』
「え?」
プーッ、ぷしゅゎ〜………。
非情な録音された女性の声を合図に、バスはゴロゴロと唸りを上げて、ゆっくりと田んぼ道を動き出した。………スージマンは一番後ろの座席を陣取り、ここの女王様を気取るかのように、偉そうに足を組んで座っていた。
「やぁっと乗ってくれた! もちっと素直に乗ってくれるかなーって思ったんだけどなぁ。引力が弱くなってたのかな?」
足をわざとらしく組み直し、短いスカートが大袈裟にヒラリとはためいた。
「………お前の引力なんざ、たいしたことねぇよ」
ゴロゴロとエンジンを響かせるバスの中。………俺は、なんだかどうでもいいような気分になってきて、近くの座席に崩れるようにして座り込んだ。丸い銀色の冷房の吹き出し口が自分に向いていて、えらく寒い。それを左手でいじって、直接冷気が当たらないようにそっぽを向かせた。
「………自転車、置いてきちまったな」
窓から後を覗いたが、既に田んぼ道をだいぶ走ってしまったらしく、俺の自転車らしき物を見つけることはできなかった。バスは交差点を曲がったらしく、田んぼ道を離れ、住宅が並ぶ一般道へと入っていった。
「後でまた戻ってきてあげるから!」
「ぬわっ?! 隣に来るな、気色悪い!!」
走行中の席の移動は非常に危険です、って、誰かに習わなかったのか? 不気味にもいやらしくも、ニヤニヤ笑っているのだから尚のこと気持ちが悪かった。
「ふひひひ。そんなに避けたりしないでよぉ、やっと二人きりになれたんだしぃ! ねぇ〜えぇんっ」
「触るなっ、ウザい、キモい、ベタベタする! おまえ、飴玉かなんか触った後だろ!?」
右腕に抱き付かれた瞬間、ペッタリと引っ付くような感触があった。その瞬間にはもう、俺は不快感をむき出しにして払いのけようとしていた。
スージマンも、踏み潰されたまんじゅうみたいな顔をして、プンスカと怒っていた。
「飴なんか触ってないっ! 何でそんなに嫌がるの? 蒼ちゃんとは、ベッ・タ・ベタ・やぁってたくせに〜ぃ」
…蒼ちゃんって、蒼井林檎のことか?
「そだよ。あたし、ぜーんぶ見てたんだから。二人が川に入って、イチャイチャしながら、それはもうそれはもう、びっちょびちょの、濡れ濡れの、グッショグショになるまで、熱く、激しく、情熱的にぅンぐぅーッ!!?」
「覗きはいけないなぁ覗きはぁ〜〜〜」
顎を下から摘みあげると、これまた焼過ぎて破裂した餅みたいにしわくちゃになって、えらく面白い顔ができあがっていた。こいつは尻よりも、ほっぺたの方が柔らかいかもしれないな。
「ぶひゅやふょぉ!!! いたぁいっ、ぶつぞぉ!!」
と、言い終わる前にはポカリと頭をひっぱたかれた。その手でスージマンは、たいそう痛そうに自分の頬を撫でながら、半べそをかいていた。
「ぶつ前に言え、ぶつ前に………昨日も聞いたかもしれないけど、お前は林檎の何なんだ。友達か、親戚なのか?」
「だから違うって言ったでしょう? 私は蒼ちゃんを、昨日初めて見た。まだ話したことも直接会ったこともないよ」
たしかにそんな話を聞いたような気がする。…が、なぜかスージマンと話したことを思い出そうとしても、ハッキリとした記憶を掘り起こすことができずにいた。つい昨日のことなのに。
「うちゅーじんはどうなの? 蒼ちゃんとはどういう関係? 恋人? 恋人なの?? 教えてくれないと答えてあげなーい」
「だからそのうちゅーじんっての………カラポンだ、カラポンって呼べ。そっちの方がまだ慣れてる」
スージマンは一瞬キョトンとしたような顔をしたが、すぐに目をキラキラさせて、
「カラポン星人?」
と聞いてきた。
「違うっつの」
もう一度俺は、びろぉぉぉんと伸びる、柔らかほっぺたを堪能した。
―――――
バスはどこに向かっているのやら、だんだん木々の数が多くなってきてるような、そんな堀の深い丘を上ったり下ったりを繰り返していた。
走り出して5、6分。まだ目的地には着いてないらしい。
「…ふ〜ん。じゃ、キスより先はまだなんだ」
「当たり前だ! …俺達はまだ、高校生なんだから」
スージマンは、俺と林檎の関係についてしつこく質問してきた。出会ったのはいつか、付き合い始めたのはいつか、ファーストキスはいつか、どこで、何時何分何秒何曜日、どんなシチュエーションで、…などなど。
「でもさー、蒼ちゃんって人間なら17歳で結婚できるんでしょー? いいなぁー」
「…人間ならとか言うな。あいつはロボットなんかじゃない………」
交差点を右折したらしく、体が左に持っていかれた。スージマンも同様に傾いてきて、それを狙ってたかのように腕にへばり付き、浮き上がった両足なんか、そのまま俺の膝の上に乗っけてきやがった。お姫様抱っこでもしろって言うのか?
「おい…、だから引っ付くなって―――」
「蒼井林檎はロボットかもしれない」
―――ぞくり、と。
利き過ぎる冷房が、吹雪みたいに感じるぐらいに、……………体から、血の気が引いていった。
スージマンは、ニッコリと笑って、
「っていうのは、昨日も言ったじゃん。ね、カラポン?」
と、林檎の真似をしたぞ、どうだ! というような口振りで言った。
なぜか、目が黒くて綺麗だなと、見当違いなことを考えていた。
「私達ね、蒼ちゃんの秘密を知ってるかもしれないんだ。だから恋人のカラポンには、それを教えてあげたいなーって思ってる。カラポンだって知りたいでしょ、蒼井林檎の秘密」
「それは―――」
知りたい。本当のことを、知りたい。でもそれはきっと、林檎にとっては知られたくないことのはず。…秘密なんだから。
なのに、なんで―――
(………なんて、奇麗な、瞳、なんだ、………)
黒。吸い寄せられるような、黒の瞳。全ての意識が、スージマンの2つの瞳に釘付けになっているような気さえする。………何なんだ、この、黒は………?
「教えてあげるよ、蒼ちゃんの秘密。でも、あたしも知りたいことがいっぱいあるんだ。バスが着くまで、もっとお話しよっ。ね?」
「あ、あぁ…」
頭より口が先に動いているような、そんな違和感。………俺達を乗せた紅筋のバスは、ますます訳の分からない方向へと向かっている、そんなような気がしてならなかった。
−2− 『スージマン ~スージぃ・長万部』end
つづく…
ようやく物語の、本当の意味でのスタートに持ってける………次回、急展開?!