1『メディア部』
カラポンを始め、メディア部のメンバーは星流山岳公園で自主制作ドラマの撮影をやっていた。
林檎との仲について心配してきたブシドーに、カラポンは本音をぼやく。
どんこめ式『ちょっとHなSF田舎ストーリー』!
カラポン・ザ・ストーリー、いよいよ本編スタート!
−1− 『 メディア部 』
『私……… あなたのことが、ずっと好きだったの』
目いっぱいに映る彼女の顔は、今まで見たことが無いくらいに綺麗だった。どうして毎日彼女を見ていて気付かなかったんだろう? しなやかな、黒く、長い髪が風に揺れ、舞い散る桜の花びらともあいまって、彼女の美しさを何倍にも引き立てている。
今の彼女は、とても可愛いかった。
『お願い答えて………私知りたいの、あなたの気持ち……… 私のこと………、好き?』
「………ゆき、こゆきっ…!」
「…ぁ、か、カットでぇす!」
ポカン☆ という漫画みたいな音で我に返った俺は、RECボタンを押してビデオを止めた。
「いってぇ〜ッ?! ゆきちゃん、台本が鼻直撃ッたってばよぉ〜………」
「わ、わ!? ごごごめんなさい粟野先輩!」
メディア部、っていう変な部活がある。元々は放送部から発展したものらしいのだが、今では自作のテレビドラマの撮影をやったり、ゲームをやりまくったり、と思ったらプラモを作りまくってたり………。表現の自由と自主性の尊重を都合よく履き違えたような、あまり聞いたことの無い部活だ。
なんかの小説に出てきた『世界を大いに……とかいう団』ってのが、ちょっとだけ似てかな?
ちなみに、今現在やっている活動というのはまだしっかりとした物の方で、自主制作の青春テレビドラマを作っているところだ。わざわざ日曜出勤して、景色のいい近くの山岳公園まで来て撮影に挑んでいたりする。
「ああぁ〜〜〜もう超恥ずかしかったぁぁあ、二度と言えないよこんなセリフ!」
「いっひっひ、最高だったぜブシドー。身の毛もよだつとは、まさにこのことだな」
ちょっとそれどうゆう意味よー! と叫んでるのが、2年の寒来魂子。ブシドーっていうのは名字が“さむらい”って読むのと、元々剣道部だったってことに由来してる。メディア部は兼部だ。
鼻を押さえながら軽口を叩いている方は2年の粟野平助、ただのバカだ。名前も“アホのすけべい”って読み間違えられるしな。
「おいおい俺は褒め言葉で言ってるんだぜ? わっ、カラポンタッチだぜ!!」
「へ? あっ…おい!」
いきなり俺の肩を“ドツいて”いくと、粟野の奴はそそくさと俺の後へと逃げていった。人をからかうだけからかっておいて、最後の始末を俺に任せるのがあいつの悪い癖だ。
「あっ………もうっ! …カラポン監督は、どうだった?」
「ん………あ、ああ」
正直な感想は、何の文句の付けようが無い、ブシドーは完璧な演技だった。カメラ越しに見ていて、目の中いっぱいに彼女の姿を映された俺は、陶酔したような感動さえ覚えたほどだったのだから。
ただ………その感想を素直そのままには答えるわけにはいかない。それには理由があった。
「カーラ、ポ〜ン! 私にも見せてよぉん、ブシちゃんの演技見たい〜!」
あんまり褒めすぎると、“彼女”が機嫌を損ねてしまうからだ。 少しでも機嫌を損ねたなら…
「わかった、わかったから! …林檎、皆が見てるだろ、ちょっと離れ…ぷ!?」
…このように、いきなり抱きついて、キスを迫ってくるのだ。
先に断っておくが、彼女、『蒼井林檎』のこの行為は、必ずしも俺にとって嬉しいものではない。むしろ迷惑に感じることの方が多い。
…今だってこうやって、友人や後輩達から、冷めた目で見られてしまっているのだから。
「わひゃ!?」
「おーおー、急に熱くなってきたなぁカラポンよぉ。熱すぎて小雪ちゃんのお顔が、瞬時にまっ赤っ赤だぜぇい?」
小雪ちゃんというのは、メディア部に入ったばかりの一年生の女の子だ。真面目、ウブ、ちんまいの三要素をこねて固めてできたような、眼鏡のよく似合うおさげ髪の女の子だ。
…今日が初めてでこそないものの、俺と林檎のキスを見ただけでこの有様だ。
「ほら小雪、しっかりしなさいって」
「ぁ、…う、うん、ごめん…」
ポン、と、台本で小雪ちゃんを小突いたのは、ぼたんちゃん。ぼたんちゃんも、小雪ちゃんと一緒に入ってきた一年生で、二人は常にセットで行動している。しっかりしている反面、ちょっとキツイ印象を受ける時もある子だ。
「それで、カラポン先輩。今の魂子先輩の演技はどうだったんですか? OKですか、リテイクですか?」
「お、おう。一発OKだ、すげーいい演技だったぜブシドー」
「えっ、ホント? マジ!? やったぁ!」
撮りなおしにならなくて安心したのだろう。ブシドーはホッ、と、息をついていた。カメラ越しでは全然分らなかったけど、やっぱり緊張していたんだな。
「えぇ〜と………、シーン7の5が終わったから、えぇとえと………」
「ゆき、私も今の魂子先輩の演技モニターで見たいな。ちょっと休憩にしよ?」
「ぷにちゃんにさんせーいっ! 私もブシちゃんの演技をもう一回見たいでぇ〜すぅ」
…『ぷにちゃん』というのは、林檎がぼたんちゃんに勝手につけたあだ名だ。いつだったか、林檎とぼたんちゃんがケンカした時があって、その時ぼたんちゃんのほっぺたを引っ張った林檎が、あまりの柔らかさにゲラゲラ笑い出してしまったことがあった。
それ以来、林檎はぼたんちゃんのことを『ぷにちゃん』と呼ぶようになっている。…この話を聞いて分かったかもしれないが、俺のあだ名である『カラポン』というのを命名したのも、蒼井林檎だ。
ちなみに、当たり前のように溶け込んでいるが、林檎はメディア部の部員じゃない。本当は陸上部なのだが、そっちはずっと長いこと、ほったらかしにしていやがる。 短距離で結構速いって、評判良かったんだぜ? あのキス魔。
「えぇと…どうしますか、カラポン先輩?」
「あたしも休みたいなー、だってもう1時間くらいぶっ続けだよ! ねぇカラポン!」
「わかった、わかったって! それじゃ、少し休憩にしよう。3時になったら再開な」
さて、早速芝生に座りこんだ粟野や林檎達は、ビデオを巻き戻して今日撮ったシーンのチェックを始めようとしていた。
「カラポンどこ行くの、チェックしてかないの?」
さりげなーくその場を離れようとした所を、ブシドーが寄って引きとめてきた。
「ん、ちょっと自販機に。チェックはずっとカメラで見てたし、編集の時に嫌ってほど見るからいいよ。ブシドーの演技も完璧だったしな」
「本当? ありがと! あたしも買いにいくから、一緒に行こっ」
「おっ、俺にもコーラ買ってきてくれよー」
聞き耳を立てていたのか、粟野がすかさず百二〇円を投げてきた。
「あたしりんごジュース〜、雪ちゃんとぷにちゃんはー?」
「あっ………え、えと、私は……」
「私、ストレートティー。甘いのしか無かったら、いいです」
二人は、さも当然のように言い放ったあげく、一切財布の紐を緩めようとはしなかった。林檎はともかく、ぼたんちゃんはたいした根性だよな!
「…へいへい。じゃ、ちょっくら行ってくるよ」
「あっ、すすすみません! 私、よ〜いお茶で………すみません、細かいのが無いので」
小雪ちゃんは五千円札を渡そうとしてきたのだが、残念ながら自販機では使えない。『今度学校で』と言って俺が断ると、申し訳なさそうに、すみません…と頭を下げていった。
その後の方では、既に林檎達がビデオを見ながらワイワイと騒ぎ始めていた。
―――――ガラコン。
「ぼたんちゃん、ストレートティーだっけ?」
「大きいペットボトルしかないね。しかもコレ、ストレートなのにちょっと甘い奴じゃなかっけ?」
実に困った品揃えだ。しかも山の上の観光地だからかコーラも十円高かった。あとで粟野に請求しないと…。
「じゃあいいよ。コレ買って、いらないって言うようだったら俺が飲む」
「…あんまり甘やかさない方がいいんじゃないの? あの子、ちょっと調子に乗ってる所があるし、ビシっと言っておかないと」
さすがブシドー、同じことを考えていたんだな。
「いいんだよ、まだ入ったばっかなんだし。林檎なんかに比べたら、扱いやすい方さ」
「あんたも苦労してんのねぇ。あっ、運ぶならちょっと待って」
何だろうと思ったら、ブシドーはスカートのポケットから綺麗に折畳んだビニール袋を取り出した。ちょうど、5本くらいの飲み物が入るくらいの大きさだった。
「おおっ、さすがブシドー」
「何かしら使えるでしょ? あたしって気が利く〜」
当然その袋は俺が持った、というより持たされた。5本も入っていると、結構な重たさだったしな。
「カラポンってさ、林檎先輩と付き合い始めてからどれぐらいだっけ?」
自販機からの帰り道。唐突にブシドーはそんな話題を振ってきた。あまり林檎のことを話したくない俺は、あえて不機嫌そうに答えた。
「ん…? 1年ちょっとかな、高校入る前から知り合いではあったけど。…それがどうした?」
「べぇっつにー? ただ、何であんな人と付き合い始めたのかなーって思って。いっつも嫌そうな顔してるじゃん、カラポンは」
「―――――」
たしかに、ブシドーの言うとおりだった。正直に言えば、俺は林檎があまり好きではない。性格も、服装も、それから化粧だって。付き合い始めてから見えてきた嫌な所が、あまりにも多すぎた。
「ホントは今すぐにでも、別れたいとか思ってるんじゃないのかなー、なんて思ってみたりみなかったり」
「ああ、そうだよ」
あっさりと肯定しすぎたかな? ブシドーは声も出さず、ぽかんと間抜けな顔をしていた。
「できることなら、さっさと別れちまいたい。正直言って、ウザい」
「なら言っちゃえばいいじゃない! お前みたいなのと付き合ってられっかって。このままだとズルズル言って卒業後も付き合うことになるんじゃないの? あたしはソレ、プラスじゃないと思うけどなー」
ブシドーの言う通りだろう。遠まわしに、メディア部の活動の邪魔をさせるなと言っているような気もした。
だけど、
「あいつ、怒るとヤバイんだ」
「それが理由? ……あきれた。カラポンさ、男として、そういうの情けないとか思わないの?」
ブシドーはまだ、本当にキレた林檎を見たことがない。だからそんなことが言えるんだ、と言いたい気持ちは胸にしまった。ブシドーに言ったところで、あいつがどう変わるということじゃないんだから。
「カラポンさ、疲れてるんじゃない? カラポンの出ないシーンから先にやっておくから、どっかで少し休んできなよ。林檎先輩にはうまく言っておくからさ」
「…悪い、そうしてもらえるか?」
ブシドーは俺からビニール袋を受け取ると、何を思ったか、バシンッ! と空いている方の手で俺の肩を掴んできた。
「カラポンっ、元気出せよ!」
それだけ言うと、ブシドーは180度振り返って林檎達のいる方向へと小走りに駆けていった。…なんだか、粟野よりいい男友達やってるみたいな気がした。
(でもあいつ、女の子なんだよな…)
そう感じたのは、振り向き際にふわっと揺れた髪からこぼれた、甘い香りがずっと残っていたからなのかもしれない。何より、はためく制服のスカートから垣間見えた赤の水玉パンツが、彼女が女の子であることを主張しているような、そんな気がした。
「実はいちごだったりして………何を考えてんだ俺」
せっかくブシドーが、俺と林檎を切り離した自由な時間を用意してくれたのだ。ありがたく使わせてもらおう。
俺は、山岳公園の端の方にある、展望台の方へと向かった。
俺達が今来ているここ、星流山岳公園は、キャンプ場と自然公園が一つになったような感じのただっ広い公園で、しゃれた名前の割にたいして何も無いのがその特徴だ。
星流というのは『せな』と読んで、ここら一帯の地域はほとんどこの名前だ。星流湖、星流川、星流本町、星流川高校、星流川渓流鉄道なんてのまである。逆に、それだけ他に名前をつけるような物が何もないということの裏返しでもあるわけだ。
そんなたいして何にも無い星流山岳公園でも、個人的に気に入っている場所があった。
その一つが、ここ。第一展望台、通称『電車広場』。木製の柵の手前に有料双眼鏡の並んだ崖があって、その手前は広い草っぱらになっている。
草っぱらには昔の電車が3、4両階段状に置かれていて、その中も山々の風景が楽しめる休憩所となっているわけだ。
「別に電車には興味ないけど…だいたい誰もいないんだよな、ここ」
昔の電車とはいえ、窓は開くし、座席のクッションがある車両を選べば昼寝にはもってこいの場所だった。
俺は座席をベッドのように使って横になり、目を閉じた。薄暗く、ほとんど木製の車内が持つ独特の臭いはほどよい眠気を誘い、時々吹く風が窓ガラスを揺らしていい子守唄になった――――。
(ああ………静かに眠れそうだ)
一方その頃、撮影場所では林檎達がビデオを見て盛り上がっていた。
「おまたせー、買ってきたよ〜………って、おーい?」
「わっ、いたそ〜…」
「あははは! アホ助君、派手に転びすぎ! お腹よじれちゃいそうっ、あははは!!」
「せんぱーい、そのアホ助って呼び方いいかげんやめてもらえないっすかねー?」
「あ、魂子先輩。ストレートティーありました? …ペットボトルですか、…甘いかも? ………うーん」
ぼたんはほんの一口だけ口をつけると、いかにも微妙そうな顔をして、魂子に礼も言わずにキャップを閉めてしまった。『甘いのしか無かったら、いいって言ったのに…』と、呟きながら。
―――――――
また、同じだった。
夕焼けが綺麗に見える丘で、俺はそいつのことを見上げていた。
「カラポン」
彼女は、俺のことをいつもそう言うように、小さな声で呼んだ。制服のミニスカートからはジャージをめくったのがはみ出ていて、せっかくの絶景を台無しにしている。
散々やめろと言ってるのに。
「林檎………」
残酷だ。この世界で俺ができることはただ一つ。彼女の名前、『蒼井林檎』を呼ぶことだけ。
彼女はこれから、ベラベラと喋り続けるというのに。
「私ね、もう我慢できないの。気持ちがあふれ出ちゃう、漏れてきちゃってるよ、カラポン」
普段からよくかったるそうな顔をしていた林檎。今はもう、生きることにさえかったるそうな、生気のかけらもない表情をしていた。
「………林檎」
「カラポンがいけないんだよ? 全部、カラポンのせい。あははハ」
笑いながら、彼女は怒っている。笑いながら、彼女は、泣いていた。
謝ることも、慰めることも、何もできない。
だって――――――だから。 俺は、彼女の名前を呼ぶことしかできない。
「……りん、ご………!」
「だから、お願い―――――」
それから数秒間、俺は何も思い出せなくなる。見れば既視感に苛まれるのに、何度も見たはずなのに、俺は思い出すことができない。
思い出したくないのだと思う。頭が拒否しているのを、俺は感じていた。
そしていつの間にか。
ロボットになってしまった林檎を、ロボットになってしまった俺が―――――
「!!!」
―――――
「…ゆ、夢か………」
悪夢から目覚めた俺は、勢い余って座席から落下してしまっていた。変な所を打ったのか、ヒジやら頭がズキズキと痛かった。
「大丈夫ぅカラポン?」
「!!? 林檎…何でここに?」
いったいいつからここにいたんだ?林檎は、俺が元いた座席のすぐ隣に、並ぶようにして座っていた。
…さっきの夢を思い出して、身体中に鳥肌が立つのを感じていたのだが、俺はそれを悟られまいと、不機嫌そうなのを装って林檎を睨んだ。
「眠かったなら言ってくれればいいのに。ほら、膝枕〜」
リズムを取るように、林檎は恥じらいもなくスカートをふぁさふぁさと上げ下げしてアピールしてみせた。見えそうな角度なんだけど………
「ジャージ、やめろって言ってるだろ、それ…」
日曜とはいえ学園物の撮影なので、今日は全員が制服だった。林檎も同じように制服だったのだが………なぜかいつも、スカートの下に緑のジャージを穿いている。もういいかげん梅雨も近いって時期なのに、暑くないんだろうか。
林檎は小さく笑って、
「ごめんカラポン」
と、おもむろにジャージをももの根元ぐらいまでめくりあげてみせた。急に肌色の見える部分が増え、妙に色っぽく感じてしまった。
「バ…!」
「ファスナー当たると痛いもんね。ハイ、これで膝枕おっけー、どうぞ〜」
そういうことを言ってるんじゃないって………。
林檎はにぱにぱ笑いながら、両手を広げて俺を招いていた。はしたなくもスカートをおっ広げ、お行儀よく端を綺麗に折り畳んで。
「もう寝ないんだって!」
床に転がっていた俺は、立ち上がって抗議した。何分寝てたかはわからない。が、いいかげん撮影に戻らないといけないし、そもそもここに林檎が来てしまったからには、根本的な意味が無いのだ。
「え〜、じゃあ今度は私が寝る! カラポン、腕枕〜うでまくらぁ〜ん」
「わゅ!? や、やめろ馬鹿、引っ張るなコラッ!! ぅわっ!!?」
腕にしがみつかれ後に押された俺は、座席に足をぶつけてバランスを崩し、林檎を巻き込みながら再び床へ倒れてしまった。
勢いよく背中を打ちつけて、俺は一瞬めまいさえ感じたほどだった。
「あはは、ようやく観念したねカラポン! 私と一緒に寝ようね―――――んっ…」
林檎は頬と、顔を自分の方に向け、唇にキスを“3秒ずつ”すると、満足そうに俺の左腕を枕にし、ゆっくりと目を閉じた。これでもか、というぐらいに体を密着させ、足は絡ませて――――こんな光景を見ていると、さっきの恐ろしい夢がまるで嘘のように感じてくる。…夢は、嘘?
(………そうだよな。あの夢は、嘘なんだ。林檎がロボットであるわけが、ないんだ。夢が嘘で、いいんじゃないか…)
「…で、そろそろ満足しましたか、先輩?」
「!!?」
薄れていた意識が、ガラスを踏んづけられたみたいに一瞬で崩れ散った。いったいどこからそんな声がしたんだ、と思って体を起こしたら、それは思った以上に近い所から聞こえていたことに気が付いた。
「小雪が見たら卒倒しそうな光景ですね。あぁ、エロエロしい、エロエロしい!」
真上の窓からだった。ぼたんちゃんが、汚らしい物を見るような目で俺達を見下ろしていた。
「そういうお前も顔が赤くなってんぞ」
「う、うるさいです。高校生にはちょっとばかし過激なんですよ、先輩達は!」
「う〜んぅ〜」
気付いてるんだか気付いてないんだか、林檎は子供が駄々をこねてるような声を上げて、更に強い力で身体にまとわりついてきた。えぇい、暑苦しい。
「お前も起きろっ、ていうか寝てないだろ。撮影の続きをやりに戻るぞ!」
「ぇ〜ん、もっと寝てたいよぉ〜、一緒に寝ようよぉカラポぉン」
この後、腕にしがみついた林檎をひっぺがすのにどれだけ苦労したか、ここで話せないのがまったく残念だ。なぜなら十八禁規制に引っかかっちまいそうだからな、内容的に。
とにもかくにも、俺はぼたんちゃんに見下ろされながら、なんとか林檎を立ち上がらせ、電車の外へと出て行った。太陽が妙に眩しかったのに、腕時計を見たら、入ってからまだ十五分ぐらいしか経っていなかった。
「待たせたなぼたんちゃん。でも、何でここがわかったんだ?」
「林檎先輩の後を追っかけてきただけですよ。カラポン先輩がいないって、林檎先輩がいきなりどっか行こうとするから」
…なるほど、それなら納得がいく。
「ふーむ、なかなかいい物を見させてもらったぜ、カラポン?」
ジー、という音と視線を背後から一斉に感じた。何だ? と思ったら、粟野がビデオカメラを向けて俺の後に立っていた。その後では、ブシドーが小雪ちゃんの目をふさぎながらヨチヨチと歩いてきていた。
「…あぅ。カラポン先輩、出てきたんですか?」
「そうねー、もうちょい雪ちゃんは目つぶってた方がいいかなー」
…もしかして、全員俺達を覗いてたんだろうか? ということは、粟野も…
「…おまえ、まさかそのカメラで、」
「いっひっひ、俺達参加する部門変更するか? テレビドラマから、官能ドキュメントに………あぁぁっ! 何をするカラポン!!」
カメラマンは俺だ、という自分でもよくわからない謎な理屈で、俺は粟野から強引にカメラを取り上げた。俺は無言でテープを取り出すと、それを…
「あぁっ!? カラポン、ダメ!! ソレさっきのあたしの演技も…」
「!」
…ビィーっと、黒いテープを引っ張ってしまった後だった………しまった…。
「あわわ…え、えと、それ、さっき私達が巻き戻して見てたテープですよね?」
「えっ、なに? それじゃもしかして、俺元々潰してたってこと? あ、いや、再生した後にやったから…あ、あれー?」
「ふ〜〜た〜〜り〜〜と〜〜も〜〜〜〜」
あ…殺気が………剣道部的な、殺気的な何かが………。
――――
夕刻。その日予定していた撮影はほぼ無事に終了することができた。俺が伸ばしてしまったテープも普通に再生することができたし、その後の使用にも十分耐えることができた。伸びた部分に録画されていたのも(冷静に考えれば当たり前なのだが)俺と林檎のあられもない映像部分だったことが後に判明して、とりあえず一安心だ。
「みんな、今日はお疲れ様。特に小雪ちゃんとぼたんちゃんは、日曜日なのにわざわざ来てもらってありがとうね。結構、こういうのやる時とかはあることだから、覚悟しといてくれると助かるかな」
「うげぇ、そうなんですかぁ…」
小雪ちゃんの言葉に、なぜかブシドーが吹き出した。どういうツボだ?
「あっはっは…ごめんごめん、続けてカラポン」
「お、おう………とりあえず、今日の所はこれで終わりにして、また明日放課後に校内での撮影をやりたいと思う。またいつもの時間に放送室集合、って感じで」
全員がそれぞれ適当な返事をして、今日はこれで解散になる。と言っても、全員同じ電車に乗って山を下りることには変わりないのだけれど。
夕方の星流湖東駅は、日曜日ということもあって家族連れとか、リュックサックを背負ったおじいさんおばあさん達がベンチを占拠していた。
ふと、値段の高い自販機が目に入った。
(そういや喉渇いたな………うん?)
自販機にぼたんちゃんが近づいてきて、カバンの中からペットボトルを取り出し、ゴミ箱に入れようとしていた。ほとんど、というより開けてすらいないように見える。俺はゴミ箱に入る直前のペットボトルとぼたんちゃんの手を掴んで制止した。
「ぼたんちゃん、これ昼間買った奴だろ? 飲まなかったの?」
「…甘いのしか無かったらいらないって言ったじゃないですか。どうせ持ってても後で捨てるだけですし」
もったいない。捨てるにしたって、中身を残したまま捨てるのだってどうかと思うぞ。
「俺が飲むよ。悪かったな、頼んでもないの買ってきて」
わざと不機嫌そうな声を出して、有無を言わさず俺はそのペットボトルを取り上げた。思った通り、ズッシリと中身は全部入っていた。
「え…? あ、先輩…、それ…!」
ぐび、ぐび、ごく………完全にぬるまりきっていたが、渇いた喉にはちょうどいい。一気に半分ぐらい飲み干した俺は、ふと粟野に十円請求しなければいけなかったことを思い出して、粟野達のいる所へと戻っていった。
「おい粟野、昼間に買ったコーラなんだけどよ…」
「あーっ、カラポンだけズルーい! あたしにも紅茶頂戴ちょうだーい!」
邪魔された…。
「〜? カラポーン、これぬるいじゃーん。やっぱ私いらない、飲んでぇ〜」
「お前…人から取り上げといて………」
その時、パチンという電気的なノイズが聞こえたかと思うと、鼓膜が破れそうな大音量でスピーカーが奇声を上げた。…いや、正確には駅員が奇声を上げてるんだが…。
『お待だぜをい゛だじまじダァーっ!! ま゛もなぐ折返し北貝梨行ぎが………』
「わひぃゃっ?! す、すごい声………」
「ぷっぷっふ……いちいち面白いなぁ、小雪ちゃんはもう!」
小さな電車が2両しか繋がっていないので、車内の座席はすぐに埋まってしまった。なんとか確保できたボックス席を女子達に譲って、俺と粟野は吊革を掴むことにした。ちなみに冷房なんてハイテクな物は積んでないので、窓は全開になっていた。走っていればある程度マシなのだが、それでも少し暑いぐらいだ。
「夕暮れの森っていうのもいいよねー。太陽が見えたり隠れたりして、キラキラ光ってるように見えるよ」
「こういう風景も何かで使えるんじゃないか?」
森の中を走ったり、トンネルをくぐったり、川沿いに沿ったりと、車窓は次々と違う魅力を持った風景を見せてくれる。俺はそんな光景を、なんとなくカメラを回して撮っていた。時々、部員の皆の様子とかも撮りながら。
「わあ!? カラポン先輩何撮ってるんですか! 盗撮ですよ、犯罪ですよ! 私なんか撮ったっておいしくなんかありませんよ!!」
「ゆき、声でかい…」
やがて太陽が山に隠れ、残光だけが空を照らし始めた頃。電車は、途中の主要駅『星流本町』に着いた。ブシドーはここで降りてしまう。
「じゃあね皆、また明日! カラポン、今日はありがとね!」
「頑張ったのはブシドーの方だろ、特に今日は。また頼むな」
「おつかれ〜」
「バイバイ、ブシちゃーん!」
「「魂子先輩、お疲れ様でしたー」」
星流本町を出発した電車は、それからしばらく星流川の流れに沿って山を下っていく。たわいもない話で盛り上がっていた所に、突然林檎が声を上げた。
「カラポンっ、見て見て!! アレ!」
「ん?」
窓から乗り出して指さした方向には、もちろん川があった。外はもう暗くなり始めていたのだが、川を渡る橋に電灯がついていて、その付近だけが明るくなっていた。よく見ると、川の中で二人の男女が遊んでいるような様子が見えた。
「まさかとは思うけど………」
「うん! カラポン行こう!」
その“まさか”だった。
――――
ぴちゃ。じょぼんっ。
「つんめてぇ………」
途中下車する頃には、すっかり辺りは夜になっていた。小雪ちゃんとぼたんちゃんを粟野に任せ、俺と林檎は川へと降りてきていた。
「あっははは! きもちーぃ!! ほらっ、カラポンもおいでよー!」
川に入ろっ! なんて言い出して驚いたのは、むしろ粟野達の方だった。俺はなんとなくそんな予感はしていたし、これくらいの突発イベントでいちいち驚いていたら、林檎の彼氏なんてとうていできないだろう。
(もちろん俺だって、こんな女の彼氏なんかすぐにでもやめたいのだけど………っ?!)
「ねぇっ、カーラポン! えいっ!」
「わっ、冷てぇ!? ばか野郎、何すんだ! 危ないんだから早く戻って来いっ、服が濡れたらどうすんだ!」
だってぇー、と、口をとんがらせる林檎の顔も、半分見えなくなってきてるような暗さだ。滑りでもしたら………一発アウトだろう。
俺は川岸の石の上に座って、早く林檎が飽きて戻ってくるのを待っていた。林檎が脱ぎ捨てた、ジャージズボンと、ホワイトソックスの護衛をしつつ。
「大丈夫っ、濡れたらジャージ穿けばいいもん! ほぉら、いいじゃんっ、カラポぉン!」
じゃぶん―――ジョバァん―――。
「カラポ―――んっ………!」
しぶきを上げながら戻ってきた林檎は、有無を言わさず唇を突き出してきた。反射的に目を瞑った俺は、抗わずその身体を受け止め、互いの背中に両手を………。
「……ひっ!? つんめんッ、てぇ〜〜〜!!!!!」
「やぁん、カラポンのエッチっ! 林檎の胸に勝手に触らないで! アハハハ!!」
俺はどこからツッこめばいい………? 背中がヒンヤリと手形の形を感じるほどに冷たい。林檎はくるくる回りながら、また川の中へ入っていった――――。
「あっ―――と、とっ…」
回転していた林檎は、いきなり川のど真ん中でリンボーダンスを………するだろうか、普通?
「!? 林檎っ!! 危ない!!!」
気付いた時には、もう、手遅れだった。足を滑らせた林檎は、お尻から勢い良く真っ暗闇の川に消え、派手に飛び散った水しぶきだけが、林檎が立っていた場所を教えていた。川の流れが強すぎて、落ちた音さえ聞こえなかったぐらいだったというのに―――!
「あのバカ…! だから早く戻れって!」
この時は考えもしなかったけれど、もしかしたら本当のバカは俺の方だったのかもしれない。だって、靴も、ワイシャツも脱がずに飛び込んでいたのだから。結果論かな?
「林檎っ! 林檎っ、どこだ、林檎………っ!!」
流れを掻き分けて川に入った俺は、その違和感にすぐ気がついてしまった。同時に、つい口からこぼしまったことを、果たして誰が責められるだろうか。
「カラ、ポンっ!」
「うげっ、しまっ、たぁ〜あっ?!!」
ざっばーぁん!!!
「………ねぇ。ごめん、って言ってるでしょ? ねぇ、聞いてるのカラポン?」
「………」
俺は川に入る前、三つ冷静な判断に欠けていたことがあった。
1.川の深さはせいぜい膝上程度で、十分足がついていたこと→林檎の立ち姿を見ていれば気付けたはず!
2.1を踏まえて、転んでも流されることなく立ち上がれたはずだということ。→俺は助けに行くことなかった!
3.転んだのが、他でもない蒼井林檎であったこと。→こいつが何をしでかすか予測すべきだった!
「………ねぇ、ねぇってば。返事してよカラポン!」
「聞こえてるよ…」
被害状況を報告しよう。ワイシャツは完全に水に浸かり、Tシャツもびちょびちょ。ズボンもぐちょぐちょで、トランクスはまだかろうじてマシな被害だった。靴に至っては………脱いだら、メダカみたいなのが飛び出てきた有様だ。
転んですぐ、水に潜って岩陰に隠れた林檎は、俺を驚かそうと、近づいてきたのを見計らって抱きついてきたのだ。ところが、林檎自身も予想以上に服が水を吸っていたらしく、重みでバランスを崩し、再び転倒。…言うまでもなく、俺をも巻き込んで、この有様だ。
(最悪だ…)
川を上がって早々、俺は砂利の上に生えた大きな木の陰に隠れ、トランクス一枚になった。制服が吸い込んだ水は絞っても絞っても抜けきらなくて、しばらく着れそうにない。
これじゃあ電車にも乗れない。かと言って、歩いて帰れる距離でもないし、歩いて帰るのも問題あるよな…。ある程度渇くのを待つしかないな。
「………気持ち悪い」
「自業自得だろ…少し渇くまで我慢してろよ。お前はまだ、ジャージがあるんだし」
林檎はどうしてるのかと思ったが、俺がいる木のすぐ裏側に来ているらしく、同じように服を脱いでいるらしかった。見たわけじゃないぞ、衣擦れの音が聞こえたんだいっ。
「…そうじゃないの。………なんか、変なのが………入ってる」
「変なの? どこに?」
急に林檎の声が小さくなって、川の流れの音に消されて聞こえなくなってしまった。転んだ時にザリガニでも入ったんだろうか?
「聞こえないよ。もっと大きい声で言えよ、俺何もできないけどさ」
「………つ……て………」
林檎は何を言ってるんだ? だんだん寒くなってきた俺は、林檎の戯言より風邪を引かないだろうかとか、予備の制服はどこにしまってあっただろうかとか、そっちの方が気がかりになっていた。
「だから…! …私の………の中に…………入ってるから………その………」
ゴソゴソと衣擦れの音が聞こえて、気配が近づいてきた。案の定、ブラジャー姿の林檎が、上目遣いで俺の様子を伺いにきていた。どういうわけか、脱いだのはワイシャツだけで、下はまだスカートを穿いたままだった。
「…な、なんだよ………本当に聞こえないんだから、もう一回言えよ」
「………カラポンのいじわる、恥ずかしいから何度も言わせないで……」
どうしたって言うんだ? 林檎の様子は明らかにおかしかった。キス魔の蒼井林檎が二人きりのこの状況下、今更いったい何を恥ずかしがると言うのだろう?
「じゃぁ………もう一回だけ、言うよ? 大きい声で言いたくないから、もうちょっと近くいくよ?」
「おう…」
…なんだか、妙な緊張感が漂ってきた。林檎は俺の座っている木の根っこに滑り込み、俺の耳に手を当てて顔を近づけた。
(不覚にも胸が…)
えぇい、そんなことを気にしている場合じゃない! 邪念を振り払い、意識を集中させて、林檎の生暖かい吐息交じりの声に耳を傾けた。
「あのね………さっきから、変なのが入ってる感じがするの………すっごく小さいけれど…時々コロ、って動いて、怖いの………」
「…だから、それがいったいどこに入ったんだよ。俺に取ってもらいたいから、言ってるんだろう? どこだよ、背中か?」
「―――――」
林檎は一度言葉を切ると、初めて見るような恥ずかしさでいっぱいのような表情をして、俯いていた。モジモジと、両手はスカートの裾を何度もいじっていた。
「…カラポン。優しく………してね?」
「何言って………?」
林檎は、少し膝を曲げ、屈んだぐらいの姿勢で立ち上がった。そして、俺が驚く間も与えずに、それからの行程を一気にやってのけたのだ。
「こ………ここに、入り込んだみたいなの―――――!」
「――――っ………だ、だっておまえ、そこ………」
絶句。
その時俺は、果たしてどんな言葉を発するのが正解だったのだろうか。…正解なんてあったのか?
「ここに何か入っている―――!! お願い、早く取って―――!!!」
林檎が左手で指さした所、それは………両足の付け根の中心とも、ヘソの下とも言えなくもない場所。…早い話が、股間だった。
(嘘だろ………嘘に決まってるだろ? これも何か、林檎の悪い冗談に決まってる………)
しかし、林檎はスカートをたくしあげたままだった。目を凝らすと、泥や藻、小さな砂利があちらこちらに付いていて、まだ雫も滴り落ちていた。
「ねぇ…お願い、カラポン………早く…取って………」
「じ、自分で脱いで取ってこいよ! そんな所に手を突っ込むわけにいかないだろ!」
ゴミ、めだか、蟹、藻………いったい何がそんな所に入り込んだんだ? もしかして…ヒルか?
(確かにそんなのが入ってたら、俺だって触りたくはねーけど………あーっ、もうしゃあねぇ!)
いつまでも迷っているわけにはいかない。お互いこんな格好をし続けてるわけにもいかないし…林檎の目が、俺には耐えられなかった。覚悟を決めるしかない―――。
「…わかったよ。スカートから手を離せ、林檎」
ようやくスカートを元に戻した林檎は、少し目を泳がせながら、俺に言われた通り立ち上がって、両手を広げた。
「………パンツを下ろす。俺は絶対見ないからな、絶対見ないからな! 足まで下ろしてきたらすぐにジャージを穿け」
「…うん」
ああ、何をやってるんだろう俺………。何でこんな、トランクス一丁の格好で、女子校生の………それもずぶ濡れになったスカートの中に両手を突っ込んで、パンツをずり下ろさなきゃいけないんだ………願わくば誰にも見られませんように、特に巡回中のおまわりさんとか………
ファーン!!
「!!」
電車の警笛だった。真っ暗になってすっかり忘れていたが、俺達のいる川岸の上、堤防のてっぺんには線路があって、その向こうには線路に沿って道路だってあるのだ。当然家とかお店だって………なんだか急に心臓がバクバクしてきて、半裸なせいもあって指先がガクガクと震えてきていた。
「カラポン……そこ、パンツじゃないよ…?」
「わ、悪い! …見えねえんだよ、わかんねぇんだよ………」
目の前いっぱいは紺色の縦模様、その内側でモゾモゾと俺の手が上の方を目指してきている。…右手が布の端っこらしき物を掴んだ。
「…うん、それ」
「…わかった。ゆっくり行くぞ、痛かったら言え………」
ひとさし指を布と肌の隙間に潜り込ませ、めくるように引っ張りながら下向きの力を加えはじめ………その、思っていた以上の重みに少し動揺していた。水を吸いまくっているのか、肌にべったりとくっついてしまっているのか、思うように動かすことができなかった。
「ぁ………んんっ………やだ、………」
「痛いのか…?」
少し何かが引っかかっているような抵抗も感じた。かなり小さいが……小石のような何か? が、入っているらしい。少し肌に食い込んでしまったのだろうか…と、冷や汗をかいた。
「………気持ちいい」
「…ばか、一気に行くぞ!!」
すっかり忘れていた。蒼井林檎はそういう女だった! 半ばキレ気味になった俺は、もう力任せに足元に向けて引っ張った。突然、大きく何かが引っかかって、林檎が膝を曲げてきた。
「痛い!」
「わっ、あぶねぇよ、ばか!」
しかし、膝を曲げたおかげか、その後スルスルーとパンツが靴下の付近まで落っこちてきた。
(え…エロい………)
くしゃくしゃに縮まり、なんともエロい。しかし、これで終わりじゃない。林檎は『わぁ…』という感嘆を漏らすと、足を片方ずつ上げてそれを俺に取るように促した。俺はもう、目を逸らすのに必死だった。
「み、見てないからな! 見てない! 見てない!! さっさとジャージ穿け!」
手探りでやっとそれを掴み、俺は何とも表現しがたい気分に浸っていた。蒼井林檎のパンツは川水を吸い込んでひどく重くなっていて、その正体さえ知っていなければすぐにでも捨てたいぐらいの奇妙な触感を持った物体でしかなかったからだ。
(………いったい何が入り込んでいたんだ? うわ……これすね毛じゃないよな………ん?)
ゴソゴソと、ジャージを穿きこんでいる林檎に背中を向けてそれを調べていると、一箇所妙に硬くなっている所があった。布が複雑に重なり合ったり、細長い変な藻みたいなのが邪魔していて、なかなかそこを開くことができない。
「………からぽん、よかったらそれあげるよ?」
「うるさい! いらねえよバカ!!」
正直に言おう。今、俺の中で、二つの心の片方が大泣きしていることを。そのもう片方の心が慰めるのに必死になっていることを…
「…カラポンのえっちぃ」
「―――――」
でも、次の瞬間。
俺は、時が止まる音を聞いたような気がした。鳥肌が立った、いや………それ以上の恐怖………悪寒が全身を貫いた。
「な………」
遠くで、林檎が軽口を言っているようなのが聞こえた気がした。
遠く? 林檎は今、すぐ後にいるじゃないか。何でこんなに声が聞こえないんだ?
(なん………で………?)
「――――ぽん、……らぽ……?」
声が聞こえる…? そうだ、コレを―――――
「―――っ!!」
シュッ――――ぽちゃん。
「…どうしたのカラポン? 今、何投げたの?」
「………取れたんだよ、ほら。絞って乾かせばまた穿けるだろ。もう大丈夫だ」
知らず知らずの内に、林檎のパンツを握り締めていた。それを見た林檎はちょっと困ったように笑いながら、
「ありがと、カラポン」
受け取るよりも先に、俺にキスをした。
「………」
その後、俺達は服の水を絞りに絞って、なんとか電車に乗って家路に着いた。座席ががら空きなのに二人だけ立っててちょっと変な目で見られたが、無事に帰れただけまだいいだろう。
「じゃあまた明日ね、カラポン」
「………また明日」
すっかり夜も更けた、日曜の改札口。人ごみの中、制服姿の俺達二人は目立っていた。白のブラが透け透けになっている林檎は、尚更だった。
「……ん…」
さよならのキスをして、尚更目立った。苦笑いして後ろ指さす人もいた。『若いっていいねー』『うらやましいわー』、そんな声も聞こえた。
でも俺は、決して幸せじゃなかった。
(蒼井林檎は、ロボットかもしれない………)
その疑いが晴れるまで、俺が蒼井林檎を本当に愛せることはないのだろう。
(俺は蒼井林檎に………殺されるかもしれない)
蒼井林檎が本当にロボットならば。そして、
(…俺もまた、本当はロボットであり………)
蒼井林檎を、殺してしまうかもしれない。………夢の通りならば………。
「………本当に、あれは夢なんだろうか………」
もしも、本当に夢だったなら。蒼井林檎が普通の人間だったならば。そんなはずがないのに。
なぜ、『蒼井林檎のパンツ』から、『 ネジ 』が出てきたのだろう?
「蒼井林檎は本当にロボットだと思う?」
「!!?」
妙に甲高い声だった。いったい誰………そんな疑問と同時に浮かんだのは、
(俺以外にあの夢を見た人がいるのか…?)
という、そんな恐怖にも似た感情だった。
しかし、周りを見回しても、その声の主と思わしき人が見つからなかった。
「どこ見てんの? こっちこっち!」
こっちって………下?
「あ………」
「へへっ、見つかっちゃった☆:-)」
その人………小学生ぐらいの女の子が、体育座りをして俺のことを覗き込んでいた。さっきの声は…この子が?
「随分と遅いご帰宅! 日曜日なのに制服デスか? 蒼ちゃんとのキスって何の味? 蜜の味? レモン味?」
「………なにぃ…?」
何なんだこの子は…? いきなり出てきてとんでもねぇこと聞いてきたぞ…?
パッと見た印象はただのガキ。水色の袖なしに、ピンク色の短パン。サッパリした髪は、見方によったら男にも見えそうだ。言ったら怒るんだろうなぁ。
「もしかしてイチゴ味?!」
「…う、うるせぇな。何でそんなことお前に言わなきゃなんねーんだよ。…林檎の知り合いか?」
ちがうよー、と、少女は首を振った。
「今日初めて見たよ。すっごいよねー、ホントにキスたくさんしてくれるんだねー! こんの幸せものーぉん!! にへへへへ」
「……???」
少女への第一印象は、まず、“気持ち悪い”だった。やたらキスの話題を振ってくるし、さっきから顔が変な風にニヤけていやがる。…バカにされてんのか、俺は。
「それでそれで! キスより先ってどんなことを――――」
「さっきのはどういう意味だ」
語気を強めるつもりは無かったが、彼女の言葉を遮り、俺は投げつけるように言い放っていた。そこに怒りを感じたのか、少女は目を丸くした後、少し不満そうな顔をして俺を見上げていた。
「だからー、蒼井林檎は本当にロボットだと思うの? って、聞いただけだよお兄ちゃん」
「お兄ちゃんってのはやめろ………って、何だ、俺の名前は知らないのか」
「知ってるわけないじゃん」
何故だろう、今すんげぇ殺意にも似た感情が湧き出たんだけど………俺、正常だよね?
「蒼井林檎は………蒼ちゃんは、特別な存在だから。おに………ん〜〜〜、んっ! が知らないところで有名人なの!!」
「どこで有名だっていうんだよ………ていうか人の名前を勝手に『んー』にするな。宇宙人か俺は」
「じゃー宇宙人! やい宇宙人! 宇宙人は蒼ちゃんが本当にロボットだと思うの!? どうなの! 答えろぉぃ!」
「ぐべっ!?」
ぱ、パンチをくらった………それも容赦ねぇ、力いっぱいやってきた感じだぜおい!
(こ、こんにゃろぉ……!)
…とか何とか騒ぎ出したせいで、周りの目は一気に俺達の方へ向いてきていた。
「…なあ、あんま騒ぐなよ。話聞いてやるから、とりあえずそこにでも入ろう、な?」
何てこと無い、俺は駅前にあるファミレスを指差してそう言っただけだった。そのまんまの意味だったのだけれど―――、
「その必要はありません。あなたは質問に答えさえすれば良いのですから」
…急に後ろから肩を叩かれて、俺はかなり動揺した。
低い声、タバコくさい臭い。背中からの気配は、何かとてつもなくヤバそうな雰囲気を漂わせていたからだ。
「し………質問って、何です…?」
スッと出てきた顔は、予想を遥かに裏切る優しそうな表情をしていた。黒のスーツパンツにワイシャツ、オレンジのサングラスが妙に似合っている。…もしかして、ヤーさん?
「何度かスージぃが尋ねたでしょう。蒼井林檎はロボットであるかどうか、です」
スージー?
…ああ、この子の名前なんだろうな。とは思いつつも、日本人離れした名前には随分違和感があった。
ハーフの血さえ感じさせないぐらいの日本人ぶりだし。強いてあげるなら、声がデカいことぐらいか?
「おまえ、スージー?」
「スージ“ぃ”! スージぃ・長万部! 『スジマン』って呼んで!」
ああ、いよいよヤバい空気になってきたなと、俺は感じた。後ろのおじさんもピクッと動いたぐらいだし…。
「…私達は妥協して、『スージマン』と呼ぶことにしています」
「…そぉですか」
じゃあさようなら…というわけにはいかないらしく、おじさんの握力はどんどん増していっていた。
「あの、痛いんですけど………」
「まだご回答を確認しておりませんので。スージぃ………スージマン、もう一度だけ質問してあげなさい」
「いいよ! 宇宙人っ、よぉく私の目を見てなさいよ!!」
そう言うとスジマン………もとい、スージマンは、俺の膝を踏み台にし、両肩を掴み、そして最後には首根っこまで掴んで俺にしがみついてきやがった。つまりまな板ぺったんこ………じゃなくて、こりゃ“だっこ”だよ、抱っこ!
「何すんだよ?!」
「うわっ、びっしょびしょ! どうしたの宇宙人、川にでも落っこちたの?」
おじさんはおじさんで肩を掴んで離さないし、スージマンも眼前で不敵に笑ってて実に不気味だ。無言の圧力?
何されんの俺!? てか、助けてよ周りの皆さんっ、駅員さん!!
「まあいいや。いいからアンタは、アタシの目を見て答えなさい! 蒼井林檎は、本当にロボットだと思うの? どうなの!?」
そして一瞬。スージマンの目が大きく見開いたかと思ったその瞬間―――。
「そうっ。わかった、ありがと!」
「…へ?」
スージマンは唐突に俺から飛び降りると、満足した顔をして、ウンウンと一人頷いて両手を組んでいた。何をそんなに納得したというんだろう?
「スージマン。そろそろ時間が迫っているぞ」
いつの間にか、おじさんが俺達の真正面に来ていて、スージマンに懐中時計を見せて促した。
「ほわっと! もうそんなに? そんじゃあ仕方ないね、もうちょっとお話したかったけど、今日はこれでおしまい! じゃあね宇宙人っ、また今度ね!」
「あ…おい」
スージマンは、おじさんの背中に飛び乗ると、さも当然のように両肩に手を回し、前を指さした。おじさんも両足をしっかり掴んで、肩車の完成だ。…何なんだこいつら。
「しゅっぱつしんこー!」
「きゅうりのみそづけー」
一人、俺だけが何もわからないまま残っていた。電車が着いたらしく、改札口を人が通り抜けていって、スージマンとおじさんはその雑踏にまぎれいつの間にか見えなくなっていた。
「………また今度、って言ってたよな…」
また会う気なのか? ていうか、また会わないといけないの? ………俺は考えるのをやめた。
面倒くさかったからかもしれないし、体が臭かったせいかもしれない。早く帰って、風呂に入りたかった。
−1−『メディア部 』end
−2−に続く…