5『ミステイク 後編』
扉を閉めた後、ガツンという震動が伝わってきた。顔でもぶつけたのかな…?
「イエリー…!」
イエリーは…拓兄ぃのベッドの上で体を起こしていた。何故か、上は裸だったけど。
「ちっ…Kアンタ、どの面下げて来たつもりよ。アンタ今、最悪のタイミ」
「目を覚ましたんでしょう!? イエリーっ、私だよ、桂だよ! わかる? わかるよね?!」
ベッドの脇にはエルグナ、そしてアヤミクがノートパソコンを開いていた。イエリーに何かをしていたらしく、背中からは2本のケーブルがパソコンと繋がっていた。
「呼んでも無駄よ」
両肩を揺すって呼び掛ける私に返事したのは、イエリーではなく、エルグナだった。彼女はあくまで冷静に、感情を入れることなく私に答えた。
「今、キャッシュメモリのクリアリングと、G.B.A.I.のエラーチェックを行ってるわ。目は開いてるけど、放心状態みたいなものよ、わかるかしら?」
「…わかんない」
溜め息が聞こえた。と、その時、部屋のドアが思い切り、バン! と開いて、トナカイ顔負けの真っ赤なお鼻をしたスージィが、今にも泣き出しそうな顔で入ってきた。
「エルグナ! そいつ捕まえて!! イエリーから今すぐ離して!!」
「え、えぇ? なんでアタシが…」
「アヤビーでもいーからっ、は〜や〜くーッ!!」
すぐさま立ち上がったアヤミクに迷いは感じられなかった。ズンズンと私に近づいてきた彼女は、決して優しい顔はしていなかったのだ。
「お引き取りを、桂さん。イエリーはまだ目覚めきっていないのです…あっ」
プツン、という音がして、床のノートパソコンが揺れ動き、ケーブルが外れて、パチンとアヤミクのスカートの中に収納されていった。痛みを感じるのか、『ぁン…』という声を出して顔をしかめていた。「…失礼。今イエリーは、必要最低限のデータ以外の記憶を削除している所なのです。今イエリーに話しかけても、返事をすることはありません。作業に支障をきたす恐れがあるので、イエリーには触れないようお願いします」
「やだッ! だって、このままだとイエリーが私のことを忘れちゃうんでしょう!? そんなの嫌だよ!!」
では仕方がありません―――――そのアヤミクの言葉を最後に、私の記憶は、途切れた。
―――――
「イエリーが暴走したっ。まずいよ、近づかない方がいい」
スージマンは冷淡に、しかし、俺に振り向くことなく、そう告げたのだった。
…イエリーが、暴走…?
「唐林さま…近づいては、いけません…いけま…せん……」
アヤミクの呼吸は荒く………いや、声に“ノイズ”が混じっていて、ただ事では無いことを物語っていた。
「…何があったんだ」
「だから、暴走したって言ってんでしょ! イエリーがアヤミクを撃って、Kを人質に取ってんのよ!! そんなことも見て分かんないのっ、バッカじゃないの!?」
エルグナまでもが、声を震わせて感情を爆発させているなんて…。
スージマンは、ただ一心にイエリーの目を見ているらしかった。『話しかけないで』と、背中が語っていた。
「………イエリー、桂、何があったんだ。イエリーがこんなこと、するはずが無いだろう」
「聞いても無駄だよ、桂ちゃんは気を失ってる。イエリーもまともな返事をするかどうかは、ちょっと保証できないかな。ごめんね、カラポン星人」
「 ! 」
突然、イエリーの首がカクンと動いて、目が、瞳孔にあたる何かが、俺の方に向かって見開いた。その黄色い何かに人型の影が映っていて、それが俺だと気づくまでに何秒かの時間が必要だった。
「…! チャンスっ! 行けッ、カラポン星人!!」
「「はぁあ!?」」
何言ってんの…と言おうとして、エルグナと声がかぶって飲み込んでしまった。スージマンは振り向いて、まっすぐに“奇麗な瞳”を向けて、叫んだのだ。
「カラポン星人にしかできないのっ! イエリーから桂を受け取って!!」
その言葉の意味が理解できるだろうか? 普通に考えたなら、その場で彼女の口から飛び出すような言葉じゃないことは、誰が考えてもわかるようなことだ、ったはずだ。
だけど、 、 ど、 け、ど…?。
「バッカじゃないの!? 人間じゃ無理なのよ、できっこないのよ!!」
…エル 、 にを …?
「だめっ、エルグナ!! エルグナじゃ無理なんだってば!!」
「ロボにはロボが戦わなきゃいけないのよ!! 人間を傷つけたらいけないんでしょう!!!」
「……ゼッタイ………ホン………」
、 きこえた
「…………タイショウガイ」
ロッ スターの 。
「…!!!」
ザシュウアアアアアア!!!!!!!!!!!
「エルグナ!! …カラポン星人、早く!!」
、 。
―――――
恐怖心は無かった。ただ当たり前のように、歩いてイエリーの前で立ち止まった。所々に黒筋の描かれた裸が印象的だったのも覚えている。
そして。
イエリーは、何事も無かったかのように、腕に捕まえていた桂を、俺に差し出したのだ。そして桂を受け止める俺。よっこらせ、そう、確かに呟いた。覚えている。
振り返り、何にも考えないで、イエリーに背を向けた、そうしたら。
「…あ、れ…?」
ガシャンという音がして、後ろから空気が流れてきたような気がした。でもそれを確かめようとする気にはなれなかった。
…スージマンの姿を見たら、……アヤミクさんがうずくまっているのを見たら、………エルグナが、派手に髪を散らして倒れているのを見たら―――――――。
「…なんだ、これ………」
どうして桂を抱きしめてるんだろう、俺は…?
「…ありがとう、カラポン星人」
スージマンは優しく微笑んで、そう言ってくれた。膝の力が抜けた俺の頭を、撫でてくれたのだった。
「ご迷惑をお掛けいたしました、申し訳ありません。壊れた壁の補修は明日、業者を手配します」
スージマンの口から出たとは思えないような言葉だった。
彼女は轟音を聞いて駆けつけてきた母に、開口一番そう言ったのだった。
「アヤB…立てる?」
「………は、…じょぶ…!」
声がうまく出せないらしく、彼女は黙って立ち上がってお辞儀をした。その他は大丈夫だということらしい。
「二人を運べる? 本社に戻って検査をしたいの」
アヤミクは頷くと、イエリーの隣にしゃがみ込もうとするのだが、バランスを崩して前のめりに倒れ込んでしまった。危うく、机の脚にぶつかるところだった。
「アヤミクさん…!?」
「バランサーもやられたか…バスターの熱のせいかも…?」
桂をベッドに下ろした俺は、改めてアヤミクさんの姿を見て息を飲む。
髪の毛が三分の一くらい焼けてしまっていて、溶けて破けた服の中では、機械やコードが剥き出しになって見えてしまっている。
それはまるで、いつの日かに見た、林檎の夢のようでもあった…。
「カラポン星人、お願い。運ぶの手伝って」
「お、おぉ」
母さんに桂を預け、今度は代わりにアヤミクさんを抱え上げようとした。
(…持ち上げられるかな)
桂は小柄だったが、アヤミクさんは大人、しかもロボットだ。運動部でも無い俺が彼女を玄関まで運べるのか、今更ながら自信が無くなってきてしまった。
「…ぅでぉ……ザザ」
「…大丈夫ですよアヤミクさん、俺頑張りますから」
何の宣言だ、と自分にツッコミを入れてしまいたい。これじゃまるで、『アヤミクさん重そうですね』って言ってるも同然じゃないか。
半身を起こして、自分で立ち上がろうとするアヤミクさんだったが、やはりまた、バランスを崩して転びそうになってしまった。俺が肩を持って支えてみたのだが、なんだか立つことすら怪しいぐらい、足に力が入らなくなっているらしかった。
「…アヤミクさん、さっき俺が桂にしてたみたいにいきますよ?」
「ザザ…ぇ……ザ、ザザ…ッ!」
いわゆる、お姫様抱っこ。足は動かないけれど、顔の表情と腕がちゃんと動くので、思いっきり抵抗されてしまったけれど。半ば無理やりに膝と背中に手を伸ばして、俺は彼女を持ち上げて立ち上がった。…ごめんなさいアヤミクさん、やっぱ重いです。
「ザザザ、ザザザザ……!」
「聞こえないっすアヤミクさん、何言ってるかわかんないんで、俺にしっかり捕まっててください」
途端に静かになったアヤミクさんは、俺の言った通りにガッチリと背中に腕を回して、ピッタリと体を張り付けてきた。…ピッタリと張り付いた胸同士の感触…柔らかい………いったいどの辺まで人間として再現しているんだろう、スージマンめ………。
そんな余計なことを考えたせいか、ただでさえふわついている足がもつれて、前のめりになってしまった。危ない危ない…アヤミクさんごとすっ転んだら、シャレにならないぞ。
「あ、そうやって持ってるの。キツくない?」
「そうやってるも何も、お前はどうやって………って、ええ!?」
見ると、スージマンは米俵でも担ぐかのように、イエリーの体を肩に乗せて、その腹を掴んで歩いていたのだ。両手、両足が、床と床とのスレスレの高さで、ブランブランと揺れていた。
「この方が楽じゃないかなー。まぁ、どっちでもいいんだけどね。さ、早く下行こっ。あ、もしもし? ちょっと今からさ――――」
空いている方の手でポケットから携帯電話を取り出したスージマンは、涼しい顔をして部屋を出て行った。………イエリーって、そんなに軽いのか? それとも、スージマンが実は隠れムキムキマッチョガールなのか? 確かに胸がぺったんこっぽいしな…。
「…ザザ、ザザザ………」
「あ、あはは、すみませんアヤミクさん。とりあえず下に降りましょう、ええ、そうですね、持ち替えることよりも早く下に降りること考えないと、いきましょいきましょ」
「あんた…顔真っ赤だけど、大丈夫?」
母さん、そのツッコミの前に手伝ってほしい―――――。
―――――
「あんれまー、こらまたすんげぇ光景だなァ、おい!」
「…へ、…?」
…玄関に出て、???が、止まらなかった。何でうちの玄関の前に、赤帯の路線バスが止まってんだ? しかも、この辺じゃ珍しい、折りたたみ式中扉のノンステップバス。でもよく見たら、座席は前半分までしか無くて、後ろの半分には、ベッドや白い機材やらが置いてあって、まるで保健室みたいになっていた。カーテンも閉じられている。
そして何より驚いたのが、俺達が玄関に出てくるのを待ち受けていたのは、あの、コイントス社の駐車場で会った、路線バスの運転手だったのだ。
「運ちゃん! 至急コイントス社まで戻りたいのっ、急いで準備して! 急行急行、快速急行!」
「よしきた合点! 特別快速特急でぶっちぎってやらァ!」
プー、という音がして、バスの中扉の床が、ゆっくりと地面にスライドしてきて、上にあったベッドが下りててきた。スージマンはその上にイエリーを寝かせ、今度は俺からアヤミクさんを受け取って、イエリーの時のようにして肩に抱えて持ち上げた。アヤミクさんが「ひゃぁ」とでも言ってそうな顔をしているのが見えたが、…ノイズしか聞こえてこなかった。
「ありがとね、カラポン星人。ところでさ、何でエルグナじゃなくてアヤビーを先に運んだの?」
「え…あっ!!」
…しまった。いくらアヤミクさんが目の前で倒れたからって、気を失ってたエルグナとイエリーを運ぶ方が優先じゃないか!! だからアヤミクさんは、運ばれる前にあんなに暴れてたのか…?
「んー、結果的にそれで良かったんだけどさ、わかってたんならすごいなー、と思って。まぁいいや、そろそろ起きてると思うから、連れてきてくれる?」
「連れてくるって…誰を?」
「アタシよ、アタシ」
振り返ると…、なんと、玄関にエルグナが立っていた。乱れた髪を両手で払いながらも、しかし、ハッキリとした足取りで歩いてきた。
「お前…もう目が覚めたのか?!」
「何よ、残念だったーとでも言いたいわけ? お生憎様、アタシのG.B.A.I.は特別製なの。ちょっとやそっとの衝撃程度だったら、自己修復プログラムが働くようになってんのよ、ご心配なさらずー!」
べーっ! と、真っ赤な舌を突き出すエルグナにおかしな様子は見られない。…だが、彼女のドレスはボロボロだった。何かの拍子に全部落っこちてしまうんじゃないかというぐらいに、赤色が黒く煤けて、溶けるように破れた穴が大きく開いていた。露出した素肌、薄ピンク色の下着のような物が見え隠れしていて、どうにも目のやり場に困ってしまった。
「エルグナ、コイントスに戻るよ。歩けるんならバスに乗っちゃって」
「むっ。何よー、あたしだけ随分な扱いじゃないの! ちょっとそこのカラポンっ」
お前まで俺をカラポンって呼ぶのかよ!
「アタシをバスの中まで運びなさい。ヘビー級のアヤを運べたんだからチョロイもんでしょ?」
「な、何でそうなるんだよ…! 歩けるんなら自分で…うわっ!?」
どうしたもこうしたも無い、いきなり背中を向けたかと思ったら、跳ね上がって尻から体当たりをしてきたのだ。結果は言うまでもない、庭の芝生の上で俺はエルグナの尻に下敷きにされてしまったのだった。
「ぐぇふっ…」
「なによっ、失礼な男ね! 言っとくけど、アタシの方がアヤより重いとか言ったら、ぶっ殺すからね!」
「絶対基本で殺せないけどねー」
そんなツッコミはいいから助けてくれよ………。
結局、エルグナは俺がおんぶしてバスに運んだのだった。座席に座ったアヤミクさんと一緒に、イエリーのベッドを囲んでパソコンを開き、何かを始めているらしかった。バスのステップに立ったスージマンが、準備OKと、親指を立てて見せていた。
「それじゃ、私達もう行くから。じゃね、カラポン星人、桂が起きたらよろしく言っといて!」
「ちょ、待て待て待て! まだお前には聞きたいことがあるんだっ。わからんことだらけにしたまんま行くとか無しだろ、無し!」
えー、と、スージマンはひどく面倒くさそうな顔をした。
「だって、イエリーの点検を早くしたいんだもん。…んじゃー、一個だけ答えたげる、はいどうぞ」
…聞きたいことは山ほどあるというのに。イエリーが暴走した理由、なぜ暴走したイエリーから俺は無傷で桂を取り返せたのか、なぜアヤミクさんとエルグナは撃たれてしまったのか、…他にもたくさん。
チッチッチッと、スージマンの時計の口真似をしている。早くしろと、言いたいんだろう。
………その時、今までずっと疑問に思っていたことを思い出して、俺は呪文を唱えるように無意識にそれを呟いていた。
「…お前の目………変だよな。綺麗だけど………見ていると、頭がおかしくなる、そんな気がするんだが………」
「……………」
そうだ………今回が初めてじゃない。今までも何度か、あいつの両目を見ていたら、頭がふわふわしてきて、なんだか見当違いなことを………って、アレ?
…なんて、奇麗な、瞳なんだ………。
「じゃあ、行くね。カラポン星人」
「………え?」
スージマンはクルリと背中を向けて、ステップを登ってゆく。プー、という電子音がして、バスの中扉が畳み閉められた。
…今俺、質問に答えてもらったっけか? 全然答えの内容を覚えていないのに、なぜだか俺の頭の中は、期待していた答えを受け取ったという、奇妙な充実感を感じていた。…あいつ、何て言ったんだっけ?
「あっ、そうそう!」
「のわっ! な、何だよ急に窓から…!?」
発車しかけたバスが急に止まって、中扉近くの窓が開けられ、スージマンは近所中に聞こえそうなぐらいのでかい声で、こう俺に叫びやがってくれたのだ。
「林檎ちゃんの裸はちゃんとチェックしといてねー! 写真撮ってきてくれると嬉しいかもー!」
「ば、バッカヤロォ!!! そーゆーのはもっと近くにいる時に言えーーっ!!!!」
窓から身を乗り出してブンブンと手を振るスージマン。落っこちそうだし、電柱に当たりそうで見ている方が怖い。やがてその姿がバスの中に消えると、赤帯の路線バスは交差点を曲がって見えなくなった。…俺と、母さんの二人はその軌跡をたどるように立ち尽くしていた。
「元気な子達だったねぇ」
「元気すぎて訳がわからねぇ………桂は?」
部屋で寝てるよ、と、母さんは答えた。
「しばらく放っておいてあげなさい。お腹が空いたら出てくるでしょ」
…あいつは、どれだけ傷ついてしまったんだろう………考えただけで胸が痛くなってくる…。
家の中に戻った俺は、二階に上がって桂の部屋の前へ立ち寄った。
…考えてみれば、ここが桂の部屋になってからは一度も入ったことが無い。前は兄ちゃんの部屋だったから、間取りなんかは鮮明に覚えている。その兄ちゃんも今は、アメリカに行ってしまった。
(兄ちゃんなら………桂になんて声を掛けたんだろう)
『放っておけよ』
どこかで、そう言っている兄ちゃんの声が聞こえたような気がした。もちろん、俺の中にいる兄ちゃんの幻聴にすぎない。背が高くて、かっこよくて、だけど、時々とても冷たかった兄ちゃん。兄ちゃんの言葉は、いつだって、絶対だった。
「………」
結局、ドアをノックすることも、声を掛けることもできず、俺は穴の開いた自分の部屋へ戻っていった。
ドアは形を保ちながらもその役目を全く担っていなくて、物は散乱し、少し焦げ臭くて、パソコンはスクリーンセーバー状態でつけっぱなし。赤いポリタンクから洩れる軽油の臭いと、開け放たれたダンボールが、イエリーの姿を脳裏に思い出させた。
「さっきまで…ここにいたんだよな………」
エルグナのものと思われる金髪や、アヤミクさんのスーツの切れ端のような布も落ちている。それらを部屋の片隅に集めて、俺は黙々と掃除を始めていた。何かを、したかった。
「…編集、やらないとな」
片付けが終わったら、メディア部のビデオの編集をしなければ。大会までもうそんなに時間が無い。俺は、パソコン周りの物を、一気に掻き揚げるようにして持ち上げた――――。
―――――
夕陽眩しい町外れの田んぼ道を、溶け込むように走り去る赤帯の路線バス。しかしそんな所を通り抜ける路線バスは、一本も無い。
「ザザ…ザ」
「ログが出たわ。最後は『絶対基本保護』で終わってる。私は人間として認められなかった、ってことね」
「ありがとう、エルグナ」
プリントアウトされた紙を見て、前の座席に足を掛けたスージィはウンウンと頷いていた。それほど予想外な結果では無かったのだろう。
「何とかーなるなる~、そんなー気がするよぉ~♪」
「…ふざけてんなら、ぶっ飛ばすわよ」
「ザザザ………」
バスの後部には、カーテンで隠されていて外からは見えないが、大型コンピューターや医療機器のような物がたくさん積まれていた。それらのいくつかには電源が入り、イエリーとケーブルが接続されている。
「大丈夫、イエリーは直るよ。今日はタイミングが悪いのが重なりすぎただけ、運が悪かった。次は同じことはおこさせないよ」
ひょうひょうと言っているように見えて、その語気は実に強気だ。アヤミクは言葉を発せなかったが、しきりに何度も頷いているように見えた。エルグナもそれを感じ取ったのか、座席に深く腰を落として腕組み足組みしていた。
「………帰ったら早く直しなさいよね」
カーテンの閉まった窓に目をやるエルグナ。当然景色は見えるはずがなかった。
スージィはそんなエルグナを横目に見てふっと笑うと、再びログの紙を見上げて目を細めるのだった。
「…やっぱりまだ、早すぎたのかなぁ………」
…日は落ちて、電気も点いていない部屋は真っ暗だった。母が気を利かせてエアコンを入れていってくれたおかげで、六月の嫌な暑さは全く感じていなかったが、布団を剥いでしまって少し寒いぐらいだった。
(まるで私、死んでしまったみたい………)
桂はなんてうまい表現をしたのだろうと、自分の中で拍手を送っていた。アハアハ、と、乾いた笑いをしている自分が不思議でならなかった。何故、笑えるのだろうと。こんなにも悲しい気持ちなのに、どうして自分は笑ってられるのだろうと、不思議で仕方が無かった。
「私が悪い…私が悪い…?」
でもそれ以上は考えられなかった。頭が、考えることを拒否しているのだ。それは怖いからなのか、それとも考えられるだけの糖分が不足しているのか、そんな判断さえも今の桂にはできなかった。自分のことさえわからない、他人事のように感じる、他人事と決め付けてしまいたい。グルグルと、そんな思考が繰り返し螺旋階段のように渦巻いていた。
(…カレーの、匂い………)
その時、足元から『ドン、ドン』という突き上げるような音がしてきた。…母だ、とわかった途端に、お腹の奥底から生き返り始めた桂は、それまでの思考をフルデリートして、全神経に一つの命令を下した。
『よし、ご飯を食べよう。きっと今夜うちはカレーなのだ。腹が減ってはなんとやら』
暗闇の中ベッドから立ち上がった桂は、パンパンパンと自分の頬を叩き、よしっ、と、声を上げた。部屋から出ようとドアに向かった所で、何かが足に当たり、バサッと倒れる音がした。
「ん…? なんだっけ」
ドア横のスイッチを手探りで見つけ、部屋の電気を点ける。彼女はあっ…と、声なき声を上げ、その倒れた物の姿を見て立ち尽くしてしまった。どんどん込み上げてくる、津波のような感情。それは抑えることも、逃げることも、桂にはできなかった。
「…うっ、う、…うぅぅ…ぅ……!」
グランシャリオの倒れた茶色い紙袋。そこには、イエリーのために桂が選んで買った服や、下着が、ギッシリと詰まって、溢れ出ていたのだった………。
―――――――――
月曜日の朝。俺は登校してすぐにメデイア部部室・兼・放送室へと立ち寄っていた。…今日の夢見は、いつもに増して最悪で、思い出すだけで憂鬱になってしまうほどだ。今まで見てきた夢の中では、一番見たくない夢だったかもしれない。
そんな気分を打ち払おうと願を込めるかのように、俺は放送室の合鍵を差し込む…。
―――カチ。
「あれ、開いてんのか…あっ」
「あっ………」
スタジオ部屋に人影………中窓越しに見たその姿は、よりにもよって、ぼたんちゃんだった。…と同時に、イエリーやスージマン達とのやり取りですっかり忘れていたゴタゴタの記憶が、不思議なくらいに自動的に蘇ってくるのだった。
「あー、おはよう…」
「…おはようございます」
…ぼたんちゃんは、少し驚いた表情でスタジオから鞄を持って出てきた。いそいそとして、そのまま出て行こうとするのを見て、俺は思わずその背中を呼び止めてしまっていた。
「………なんですか。遅刻したくないんですけど」
「…その………昨日はごめん。何ていうか、俺…ちょっと言い過ぎた、…と思う。…ごめん」
ぼたんちゃんは放送室のドアノブを握ったままで、振り向きもしなかった。今にも、バン! とドアを開けて出て行ってしまいそうで、俺は思いつくままをそのまま口に出して投げかけていた。カチ、コチ、と、壁時計の小さな音が、うるさく耳を横断していく。…何か、言わねぇと。
「俺は、ぼたんちゃんと小雪が―――」
「関係無い」
…今出かけていた言葉を忘れてしまうほどに、それは強い言葉だった。一度賞状の額縁を見上げると、彼女はドアに言い聞かせるように言った。
「…小雪は、関係ないじゃいですか………」
「………」
それに、と言って、ようやくドアノブから手を離したぼたんちゃんは、前髪を払って振り返った。目がチラチラと泳いでいて、決して俺のことは見ないようにしているらしかった。
「私、全然怒ってませんから。カラポン先輩のこと。昨日何かありましたっけ?」
「あ、おい…!」
バン! と大きな音を立てて、重厚な防音扉が、勢いよく廊下側に開いた。 ガツン!☆!★
「あっ…」
「ふぁッ?! …にゃんッ!!」
廊下からドサドサという音がして、ぼたんちゃんは青い顔を一瞬だけ俺に向け、扉の向こうに消えた。…なんてことだ。嫌な予感は廊下に飛び出してみて、全部肯定されてしまった。
小雪ちゃんが両手両脚をおっ広、蛙をひっくり返したみたいな格好になっていたのだ。
「小雪!? 小雪っ、大丈夫!!? ごめんね、ごめんね……!!!」
「ひゃうわぅ………ぼたんちゃん、おはよぉ~………」
半べそになって膝をつくぼたんちゃんに対し、小雪ちゃんはのんきに手を挙げて挨までする余裕っぷりだった。…頭、打ってないよな?
「だ、大丈夫か小雪ちゃん…?」
「大丈夫なわけないじゃないですか! 小雪、保健室行こうっ、すぐそこだから、ほら!!」
「ぁー、カラポン先輩…おひゃようごじゃ、…ズズズ、あれ…はな…、…ぁ、…ぃじゅ?」
体を起こした途端、サラサラとした赤い液体が彼女の鼻から流れてきて、ポタ、ポタと、彼女のスカートに垂れ落ちた。ぼたんちゃんがそれを見てますます白い顔になって、慌てて鞄からティッシュを出し、小雪ちゃんの鼻に押し当てた。
「先輩見ないでください!! 今小雪の顔見たら、先輩も鼻血出しますよ! ええ、出したいなら今すぐ出させますよ、いいんですか!?」
いいんですかって聞かれて、「ハイお願いします」って答えたら相当なドMだよな。なんてふざけたことが言えるわけもなくて………。
「わ、わかったから、そんな怒るなって………」
幸いにも、保健室は放送室の目と鼻の先の場所にあり、大きな音を聞きつけた先生達の方から駆けつけてきてくれた。白衣を着た二人の養護教員は、授業が始まるから任せるようにと俺達に言ったのだが、ぼたんちゃんが付き添うと言って聞こうとしなかった。
「しょうがないわね、あなたも来なさい。唐林君、二人のクラスの担任に事情を説明してきてあげてね」
「…俺もついて行っちゃダメですか?」
なんだか自分にも責任を感じての発言だったのだが、もう一人の擁護教員―――研修生の小松先生、通称コマっちゃん―――が、ぷんぷん! と指を立てて俺に詰め寄ってきた。
「だめでしょー、わがまま言っちゃ! 芝井先生の言うことちゃんと聞かなきゃ、メッ!! ここはー、お姉さん達にまっかせなさい!」
「は、はい………わかりました」
甲高いハスキーヴォイスでそう言い切ると、えっへんとその巨大な胸を張る小松先生…コマっちゃん。…林檎といい勝負かもしれないとその時思ったのは、内緒だ。
「そんな訳だから、よろしくね唐林君。早くしないとあなたも遅刻するわよ」
「あ、はい…」
芝井先生の言葉に我に返った俺は、拾った小雪ちゃん達の鞄をコマっちゃんに預けた。…そんな至近距離でニコっとされたら顔が緩んじゃいますってばっ、やばいやばい!
「と、ところで芝井先生、何で俺の名前知ってたんですか? 俺、保健室って行ったことなかったと思うんですけど…」
あらっ。と、芝井先生は意外そうな声を挙げた。
「あなたってこの学校じゃ結構な有名人なのよ? 林檎ちゃんの彼氏、って言い方じゃ不満かしら、空っぽ頭のカラポン君?」
「…ははは」
クイっと眼鏡を持ち上げ、不敵に笑う芝井先生。…コマっちゃんにまでクスクスと笑われてしまった。あっ、小雪ちゃんまで!
「失礼しまっす! 二人のことよろしくお願いしまっす!!」
ビシシッ! と敬礼なんぞして、俺は脱兎の如く保健室正面の階段をダッシュしていった。始業三分前、二階の職員室に立ち寄っても、なんとかギリギリ間に合う時間だな―――――。
―――
「いったい何があったというのだっ」
「…うっとうしい」
コーンキーン、カーンコーン………。
へっぽこなストレスを醸し出すチャイムが、昼休みの終わりを宣言する。それは、今日がいつもと違うという確信を、平助に持たせたらしかった。
「お前アホか。昼休みにカラポンが教室で弁当食ってる時点で、あ き ら か におかしいだろ! …ケンカでもしたのか? 林檎先輩と」
「…知らね」
いつもなら、林檎は授業が終わった瞬間か終わる前ぐらいには俺の教室に入ってきて、昼ごはんに誘いに来ていた。昼の放送の担当だったなら、放送室の鍵を開けて待ち構えているぐらいだ。
だが、今日は来なかった。もしかしてと、廊下も覗いてみたのだが、それらしい影も見当たらなかった。
「こりゃ明日は雨だな。日本沈没級の、いや、地球崩壊、銀河系の危機!」
「勝手に滅んでろ…」
久々に一人分の弁当を一人で食べたので、満腹感がいつもの二倍だ。既に頭がぼんやりとしていて、机に突っ伏してたら三秒で落ちてしまいそうなぐらいだった。
「何があったか知らねーけど、早めに謝っといた方がいいんじゃねーの? 怒るとやばいんじゃなかったっけ?」
「…ぐぅ。………イデデ、冗談、冗談だってば。頭掴むなっ…イイッデ!!!」
文字通り割れんばかりの痛みに怒った俺だったが、しかし、平助はそれ以上に怒った顔をしていた。アホの平助、マジモードらしい。
「カラポン。実は俺な、昨日林檎先輩にバッタリ会ったんだよ」
「えっ…」
昨日の、林檎に………いったい、いつ…?
「夕方前ぐらいだったんだけどさ。何ていうか――――」
ガラガラと音がして、ハゲ頭バーコードに丸眼鏡の数学教師が入ってきた。ガタガタと椅子の揺れる音で、一気に教室が騒がしくなった。
「はい、じゃあちょっと早いけど始めよう。えー、今日はちょっと力試しを用意してきたから、最後にやるからね」
「えーっ!!」
コーンキーン、カーンコーン………。
へっぽこストレスな予鈴が鳴り、平助も慌てて自分の席へと駆け戻る。最後に平助から聞いた言葉が頭にこびりついてしまっていた俺は、号令もワンテンポ遅れて、上の空だったらしい。
(何なんだよ………魂抜けてたみたいだった、って………)
翌日、抜き打ち小テストは○が一つだけついて帰ってきたのだが、それはまた別の話である。○と言っても、0点の0だったが………。
―――――
「あっ、カラポンせんぱぁい~今朝はどうもありがとうございましたー」
放課後、重い足取りのまま放送室の防音扉を開くと、手前のミキサールームで小雪ちゃんがちょこんと座っていた。鼻の周りが少しくすんだ色になっているような気がしたが、鼻血は止まったようだ。
「おっす、小雪ちゃん。もう大丈夫なの?」
「はい、おかげさまで………あの、あのあの、本当に、ありがとうございました」
そんなに深々と頭を下げられるほどのことじゃ…ああ、立たなくていいってば。
「ていうか先輩は何もしてないし」
「…いたのか、ぼたんちゃん」
奥のスタジオルームの柱の陰からぼたんちゃんが顔を出していた。まるで狙っていたかのような、計算尽くされた立ち位置なように思えた。
「アフレコしなくていいなら、あたし帰りますけど」
「あー、わかったわかった! 俺が悪かった、何もしてませんでしたとも、ああ確かに。…今日のぼたんちゃんとブシドーの録音が終われば、もう録音しないといけない物は終わりだからな。何としても今日中に終わらせよう。もう日にちねーし」
聞いてるんだか聞いてないんだか、あいうえおいうえー…と、発声練習を始めるぼたんちゃん。…普段はこんな調子だが、彼女の演技力は決して悪くない。ブシドーといい勝負ができると言っても過言では無いだろう。
小雪ちゃんと顔を見合わせて苦笑いすると、あっ! と言って、小雪ちゃんは椅子から立ち上がった。
「今朝のお礼に何かジュースでも買ってきますよ! 小雪ちゃんも小雪ちゃんも! 先輩、何がいいですかか?」
「え、いいの?」
ふふん、と、小雪ちゃんは誇らしげな顔をして胸を叩いた。
「こう見えても私、バイトしてるからお金持ちなんですよーっ。先輩にご馳走させてください!」
「じゃ、あたしストレートティー」
すかさず返事をしたかと思うと、また再び発声練習を始めるぼたんちゃん。抜け目ない奴め…。
「あ、やっぱ私も行こっ。小雪だと何か間違えそうだし」
「も~、私のこともっと信じてよぉー」
そんなこんなで、二人は連れたって放送室を出て駆けて行った。…よかった、今朝あんなことがあっても、二人の仲は変化が無かったようだ。実はそれもちょっと心配だった…。
「さって、準備すっかな…」
録音に使う機材は、基本的にお昼の放送と同じものを使う。ただし、配線を変えたり付け加えたりしないといけないから準備には多少時間が掛かる。放課後の限られた時間、しかもブシドーのように他の部活で忙しい人もいるから、時間は少しでも多く作っておきたい。俺はミキサー席に座って、配線をプチプチ差し替え始めた。
(ブシドーすぐ来てくれるといいんだけど………ん?)
突然、顔にヒンヤリとした感触がして、前が何も見えなくなった。これはひょっとして………。
「だーれだ!」
「…えー」
聞いたこともないような声だった…猫なで声のような、たぶん作り声なのだろう、これじゃ誰だか分からない。
「んー…」
小雪ちゃんとぼたんちゃんは今さっき出て行ったばかりだから、いくらなんでも早すぎるだろう。あと来てないのは…ブシドーか、考えたくはないが、平助という可能性もあるか………。
「ブシドーかな? …お?」
一拍間を置いてから、白々とした明かりが目に入り込んできた。少し目が眩んで、俺は二、三度、意識して強めのまばたきを繰り返した。
「ふぅん……ブシちゃんか、へぇ………」
「………ぁ」
スタジオとミキサー室の間にある正面の窓ガラス。光が反射して、俺の後ろに立っている人物の制服姿が映っていた。
スカート…女子。だが、そのリボンの色は、三年生の色だった―――――。
「私の声って、ブシちゃんに似てたんだ………ふーん、全然知らなかったなあ」
「ぁ………、…、ぁ、」
それはまるで死刑宣告のように、俺の胸に冷たく、深々と突き刺さった。また視界が眩んできて、寒いわけが無いのに体が小刻みに震えているような気がしてならない。
「林……檎………」
蒼井林檎が、俺の真後ろに立っていた。…俺の頭は今、真っ白に、まさに、空っぽ頭のカラポンになってしまっていたのだ………。
「何でかなぁ………何でわかんないのかなぁ、カラポン?」
…昨日の記憶が蘇るごとに、林檎への恐怖がますます大きくなっているのを感じていた。
勇気を振り絞って、後ろに振り返る。…林檎は、両手に腰を当て、わざとらしく怒った顔で俺を見下ろしていた。
「こういうポーズ何て言うか知ってる? “アキンボ”って言うんだって、辞書にも挿絵付きで載ってたよ。昨日退屈すぎてさぁ、英和辞典一ページから全部読み切っちゃった。
辞書に載ってるってことはー、ちゃんと意味があるってことじゃん? どういう意味なんだろうねぇ、分かるかなぁカラポン?」
ズイ、ズイと、腰に両手を当てたまま一歩ずつ近づいてくる林檎。…ふざけているように聞こえるかもしれないが、注釈を付け加えておこう。
林檎は微塵も笑ってないのだ。
「ねぇカラポン。何か言ってよ」
「……ゃ、いや……その………」
目を見ることさえ、怖くてできない。だが、目を逸らせばそらすほど、林檎はますます近づいて問い掛けてくるのだ。
答えられない。怖くて答えられない、見ることができない。だって………
(だって林檎は…林檎は…、林檎はもしかしたら………)
―――ロボットかもしれない。
ドクン。心臓が跳ね上がる音がした。
林檎の両手が、…迫ってくる。
―――そして、林檎は俺を………
「カラポン…ねぇ、カラポン…?」
―――殺そうとする。
「…っ!」
………その瞬間、俺は堪えきれずに思いっきり目を閉じていた。直後に、首への強い圧迫感。…林檎の体温を感じていた。
「カラポン……―――私、いらない子になっちゃったの…?」
え………?
恐る恐る目を開けると、林檎は…俺の首を締め付けて…いたのではなく、抱きついていたのだ。握っていたヘッドフォンが床に落ちて、カツンと小さな音を立てた。
「何で…どうして………? 私のこと、嫌いになっちゃったの? カラポンにとって、私は必要じゃなくなっちゃったの、いらなくなっちゃったの? 他に好きな女の子ができちゃったの?」
「りんご…?」
ぎゅっ…と、腕の力は強くなる。痛めつけるような強さではなくて、大切な物を守るためのような、そんな力使い。胸が潰れていく感触も、今は何のよこしまな感情を起こさせない。
「私はこんなにも………カラポンのことを必要としてるじゃん………カラポン…」
(林檎………お前は………)
…空いてしまった両手が、林檎の背中へと回り込む。強い力は必要無い。添えるように優しく、だけど、温もりが感じられるように、そっと引き寄せて、トントン、と、背中を叩いた。
「大丈夫だよ………」
「え…?」
それは泣いた子供をあやすように。兄が妹をなだめるかのように。言葉よりもずっと感情を伝えるための方法だと、昔ある人に教わった。
「俺は林檎を裏切ったりしない。ちゃんとあの時約束しただろ。覚えてないのか?」
「…覚えてる。でも………」
林檎は一度体を離して、両手で俺の肩を掴んだまま、上目でこんなことを言うのだった。
「……知らない子と買い物してたでしょ」
「桂とその友達だよ。友達っつーには、年が離れてるけどな…」
何でカラポンも一緒なの、と聞き返す林檎に、『お財布係と荷物持ち』と俺は正直に答えた。嘘じゃないだろ?
「あはは…何それ。桂ちゃんに尻に敷かれちゃってるんだ…そっか、おっきくなってたから私、分かんなかったよ」
またギューッとされて、肺から押し出された空気が声にならない変な音を奏で、それでまた林檎が笑った。…もう、大丈夫だろう。
(よかった…)
掴まれていた心臓が、ようやく解き放たれたような感覚。俺はもう一度、彼女の背中に両手を回し、トントンと優しく叩いた。
「でも…私とは最近、あんまり遊んでくれないよね」
「………え」
林檎は、………あぁ、もう、コレが卑怯なんだ、この上目が卑怯なんだ。今までの論理とか作戦を、木っ端微塵に吹き飛ばす破壊力を持ったこの上目で、しかもこんな至近距離で、彼女は言うのだ。
「寂しいよぅ…もっとカラポンと一緒にいたい、一緒に遊びたい、一緒にくっついてたい、いっぱい、いっぱいカラポンとしたいことがあるのに。………ねぇ、もっと、私を必要としてよぅ。私がカラポンをどれたけ必要としてるのか………教えてあげるから………」
そうして、林檎はゆっくりと目を閉じて…その長くしなやかな曲線を描くまつ毛達を強調させる。
ぷくん―――。
そんな音が聞こえてきそうなぐらい、柔らかそうでキレイな、さくらんぼ色をした唇が―――――。
「………ん…」
…無意識の内に、俺もまた目を閉じていた。熱い、熱い…、体が、顔が熱い。こんなキスは、初めてじゃないはずなのに、学校で、町で、人前で、俺達二人は所構わず何度もやってきたはずなのに。なぜ今日のキスは、こんなにもドキドキするのだろう………こんなにも求めてくる林檎は………こんな気持ちになったのは、俺は―――――
(林檎……………!)
「も~、い~か~い?」
「!!!!!? っ、ぶほぉ、ぉほ、ッハっ!?」
…ああ、なんということだろう。その声は、閉じられているはずの重厚な防音扉から聞こえたのだった。ブシドー…寒来魂子の声に、間違いなかった。
「ま~ぁだだよ…へぇーえ、とてもじゃねーが、こりゃ小雪ちゃんには見せられねぇよなぁ」
「ぁーうー…」
「粟野…小雪ちゃん“達”まで………」
目が合った瞬間そっぽを向いたブシドーの隣には、粟野が小雪ちゃんの後ろから目を手で隠していた。小雪ちゃんは缶ジュースを持った両手が宙をさまよっていて、その少し離れた後ろでぼたんちゃんが、廊下の窓に寄りかかって…蔑むような目で俺達のことを見ていた。やっぱり目を逸らされて、動いた口が、『あぁエロエロしい、エロエロしい………』と言っているような気がしてならなかった。
「み、みんな、いつの間に………」
「ちょおっとー、かぁらぽぉんッ!!」
…さっきの変なセキで、俺のツバをモロに顔面に受けてしまった林檎は、それはそれは不機嫌そうな顔をしていた。次の瞬間、ゴチン! という音がして、頭突きされたのだと気づくまでに、三周ぐらい宇宙を回ったような気分になってしまっていた。
「ひどぉいっ! 途中でやめないでよぉっ、本当は謝る気ないんでしょう!!」
「ち、違うって!? お前、そんな、あれ以上のことみんなが見てる前でやれるかっての…!」
「おーやれやれー、俺たちゃ帰るけどなー」
…粟野がヒラヒラと手を振ったことにより、小雪ちゃんはその束縛から解放され、一気に視界が開けたことだろう。一瞬眩しそうな顔をしたかと思うと、次の瞬間、缶を持った手で俺達を指差し、指差し、指差し…を、繰り返していた。ぷるぷる震え、だんだん早くなってきてるような気さえする。
「あ゛っ、あっ、あ~~~~~~☆!〇≧$@?!≒ゑ」
「お、落ち着きなさいユキ! つかそれ、四ッ矢サイダー…」
みるみるうちに小雪ちゃんの“頭”は真っ赤になっていっく。慌ててブシドーが、暴れる小雪ちゃんの体を回れ右させて、『オーヨシヨシ』と謎の呪文を唱えていた。「小雪ちゃんには刺激が強すぎたよねー………ちょっとバカラポン! いつまでも抱き合ってんじゃないわよっ、ていうか林檎先輩も! 録音しないならアタシもう帰るからねっ!」
また変なアダ名がついた…なんてぼやいてる場合じゃない。俺は椅子から立ち上がって、膝立ちしていた林檎を半ば強引に引き剥がした。当然林檎は、アヒルが更に不機嫌になったような口をして抗議してきた。
「やだ! まだカラポンから『好きだよ』って言われてないもん!」
「「「!?」」」
「ぶっ!?」
「はっ!(笑)」
…おいおい誰だ最後に笑ったの、って、粟野しかいねぇか…。
「…先輩、時間がもったいないですから。早いとこ言っちゃってください。………何怖じ気づいてるんですか! 一言言うだけじゃないですか、その……林檎、す、好きだ、って言えば!!」
「おいおいぷにちゃん、自分でも言えないことをこの小心カラポン野郎が―――イデデデ!!! つね、つねんなってコラ!」
廊下を通る生徒達が、チラチラと放送室をのぞき込んでいた。ニヤニヤ笑ってるのまでいやがる…チキショウ、こんなことしてる場合じゃないんだって…もう大会まで日にちが無いんだから…!!
「…林檎!」
「にゃん?」 何がにゃんだ、と喉から前歯まで出かけたのをぐっと飲み込んで、俺は―――覚悟を決めた。猫みたいな顔をした林檎の両肩を掴み、………まっすぐに両目をにら…見つめた。
「………好きだ、林檎」
「………嬉しいっ!」
そう言って、林檎は俺の頭に腕を回して、唇を奪ったのだった―――――。
5『ミステイク』END
つづく………