庇護者ケルブ
「闇の子」を養育することになった者、この者を仮にケルブとしよう。
ケルブにとって、当初、「闇の子」は単なる研究対象の派生物的存在であった。
闇が迫って来ている中、光の文明の者たちは、闇の危険性を認めようとはしない。観測する限りで、既に幾つかの星域が飲み込まれており、その破壊に闇が係わっていることを上に報告しても、「その星域の問題」扱いに留めるだけであり、光の文明の者たちは相手にしなかった。
そのため、闇を観測する方法を確立する方向に舵を切り、闇の存在が現実にあることを示すことに成功した。
それと時を同じくするかのように、ある子どもが、何処からか送られて来た。
その子どもの力の方向性を徹底的に調べた結果、闇に連なる者であることが判明する。
ケルブにとって、これは僥倖だった。
闇の存在を決定的に示す証拠が目の前に現れたのだから。
一方、闇からすれば、ケルブが観測を確立してくれたお陰で、その子どもを形作るだけの力を得たことになる。
光の文明の者たちも、少なからずその見解に達し、ケルブがその子ども、謂わば「闇の子」の庇護者として面倒を見ることになったのである。
ケルブもまた、その面を認めつつ、「闇の子」に身近に係わることが出来ることを喜んだ。実際、他の者たちであれば、どのように扱いになっていたかは知れない。
ケルブは、「闇の子」に係る上で、光の文明の子どもたちと同様に接しようとした。「闇の子」も、それを喜んでいるように見えた。しかし、「闇の子」が光の文明の子どもたちと係わる中で、子どもたちから向けられる「世間」の風当たりは強いものがあった。
たとえ、ケルブが、光の文明の子どもたちと同様に接し、そのように扱っていても、他の者たちが同様とは限らない。そもそも、ケルブが庇護者になった経緯を鑑みればこそ、尚更である。
そんな中、「闇の子」は耐えた方だったろう。
しかし、ずっと耐え切れる訳でもなかった。
「闇の子」も、光の文明の子どもたち同様に、子どもなのだから。
「闇の子」は他の子どもたちとの違いを認めればこそ、光の文明の子どもたちとは、見える景色も変わっていた。その景色を愛おしく思っている様子もあれ、その将来を考えて思い悩んでいる様子もあった。
そこに、ケルブが当初訴えていた闇の危険性への認識が広がるにつれ、光の文明の者たちの危機感も高まっていた。遂には、子ども同士であれば、誰でも起こり得ただろうトラブルを理由に、議会の決定を必要とする事態にまで発展した。
議会は、その支持者らの声を受ける形で、「光の文明の者は、光の下に居ても良い。しかし、闇に連なる者は、闇に帰れ」と唱え、「闇の子」を技術的に光を遮断した空間に閉じ込めたのである。
ケルブにとって、それは、どうにも仕様のないことのように思えた。
闇の危険性は、自分自身が訴え始めたものである。それを否定する訳にもいかない。
そして将来的に予測される事々、言うなれば、光の文明が闇に覆われ破壊されることになる可能性があること、それを考えればこそ、光の文明の者たちの危機感を否定する訳にもいかない。
しかし、「闇の子」を糾弾したところで、何か変わるだろうか。
「闇の子」が、光の文明の景色を見ながら、それを愛おしく思っている様子や、その将来を考えて思い悩んでいる様子は、件の糾弾を優先する程に軽視して良いほどのことなのだろうか。
加えて、件の空間に閉じ込められている「闇の子」の打ちひしがれる様子は、モニター越しとはいえ、痛々しく見えた。「闇の子」には既に命があり、闇に帰ることなど出来る訳もない。それを、身近に見て来た者として、認める他はなかった。他の者たちが「闇に連なる者なのだから、打ちひしがれる様子は、そのように振る舞っているだけだ」と警戒心を更に高めても尚、そう思った。
それに気付いた時には、ケルブは次の行動に移っていた。
事の発端が、子ども同士であれば、誰でも起こり得ただろうトラブルであること。何より、「闇の子」とはいえ、未来あるはずの子ども一人を、「果たして、あのような状況に置いて何食わぬ顔でいて良いのだろうか」と。
それを訴えた。「闇の子」ではあるのだろう。しかし、「闇の子」ということで、あのような形で糾弾したところで、子どもの悪感情は拭えないどころか、その根を深くして行く。それを防ぐための適正な措置がとられて然るべき。
それを訴えた。
ケルブの訴えは、光の文明の者たちの関心をくすぐることに、どうにか成功。
議会も説得を受け、「闇の子」は件の空間から解放された。
ケルブは、解放された「闇の子」を抱き締めた。「闇の子」は、その行為が理解出来ていないようだったが、温かい食事を提供することで、やや安堵の表情を浮かべると共に、何かに気付いたのか、困惑の表情を浮かべた。
何時しか、「闇の子」は、泣いていた。
ケルブは、その嗚咽が治まるまで、「闇の子」の頭を撫で続けた。