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桃の実

作者: 千葉しげる

正しい行いは、吉と出ることもあるということ。

昔、ある山間の村に、一組の百姓の夫婦がいた。夫婦になって七年も経つというのに、子供は授からなかった。亭主も女房も昼間は野良で働き、夜は草履を作り、機を織りして生活していた。

隣の夫婦には、もう五人目が産まれたというのに、そのことを思うとは女はひどく焦りを感じていた。亭主に隣の家の話をすると。あーそうか。と、いうばかりでその頃から夜になると草履も作らず、酒ばかりを飲むようになり、いつもそのまま寝てしまった。

なんとか子を授からんものか、親元や親戚に尋ねたいところであったが、女は早くに両親と死に別れ、頼るべき親戚もどこにいるかもわからず、亭主も同じような境遇であった。

こうなっては、神にすがるしかないと思った。田んぼばかりの土地ではあったが、近くに神社はあった。白髭神社という古びた神社であった。由来はわからない。

女は夜中になって、亭主が寝入ったところを確かめてから、両手に松明を持ち神社へ向かった。あらかじめ神社の参道の端にほっておいた穴に松明を差し、灯とした。願い事はただ一つ、子宝を授かるということであった。

女は裸足になり小石を百個集め、御百度参りを始めた。集めた百個の小石は一回お参りするたびに、一個お賽銭箱の脇に置かせてもらうこととした。

夏に始めた御百度参りは、秋を過ぎ冬になっても続いた。雨の降る日冷たい風の吹く日、雪の日もあった。雪の日など、擦り切れた足の裏の血がにじみ、翌朝血の足跡となり、それを見つけた村人が。何事ぞと、ちょっとした小さな騒ぎになったこともあった。

そんな正月を過ぎた頃、女は不思議な夢を見た。白髪の老人が、雲ひとつない青空と、地面にはただ白い玉石が一面に広がるばかりの何の景色もないところに立っており、女にこう語りかけてきた。

お前の住んでおる村の一番近くの山に登り、頂上にある桃の木の実を取ってきて食べるがよろしい。そうすれば子は授かるであろう。と、いうものだった。

女は目を醒まし、今見た夢は神様のお告げではなかろうかと思った。夜が明け朝になると女は亭主に今朝見た夢の話をし、老人の語った近くの山へ登ってみようと思うと話した。

季節は冬である。当然山には、三日前に降り積もった雪もまだ残っていた。女は自分の家から一番近い山に登ることに決め、亭主には。日暮れまでには戻るから。と、告げて出かけて行った。

この時期本当に、桃などなっている木などあるのだろうかと、不信に思いつつ残雪に足を取られないように、慎重に山を登っていくことにした。

五時間ほどかかったが、ようやく頂上にたどり着いた。早速桃の木を探し始めたが、どの木も冬枯れで、葉っぱは茶色く、すでに落ちてしまっている木が多かった。しかし、その中で一際大きな古木に目が止まった。葉は全部落ちてしまっていたが、何やら実がぶら下がっているのを見つけ、これに違いないと近づいていった。はたしてそれは確かに桃の実であった。

この冬のさなかに、まるで自分を待っていてくれたかのように桃の実はなっていた。不思議なことに、腐っている様子もなく、まさに今が食べ頃の実となっていた。 

女はあの夢枕に立った老人に感謝しつつも、両手で大事に実をもいで落とさぬように懐に入れた。この実を食べさえすれば、子供が授かると思うと、夫婦になってもうすぐ八年のあれやこれやの苦労が思い出され、涙が止まらなかった。そうこうしている間に日は天上をさしていた。女はそろそろ降りることとした。

下り坂も注意が必要だった。懐に入れた桃の実を落とさぬように、坂を下っていった。時折足を滑らせて、懐の桃の実が飛び出しそうになったが、何とか山の中腹くらいまで降りて来られた。

女は嬉しさのあまり駆け出しそうになる自分を抑えた。当然のことながら、この実さえあれば念願の子供が授かる、この実さえあれば人並みの幸せな暮らしができる、と、女は強く思った。さあ急いで帰らねば。亭主の喜ぶ顔が浮かんできた。

注意深く山を降りてきた女は、斜面に足を取られそうになると、麓までもう少し、もう少し、と念じた。しかしながら、行きは一気に登ってはきたものの、帰りは少々くたびれてしまい、どこぞに休めるところはないものかとしばし立ち止まった。

それほど高い山ではなかったが、下界を見下ろす崖がないわけでもなかった。崖の近くには一息入れるのにちょうどよいむき出しの岩などがいくつか目に入った。

女は、日没までにはまだ時間があるとみて、腰掛ける岩を探した。とその時、女は思いもよらぬものを見てしまった。それはボロボロの上着に裸足のままの老人が岩の脇でうずくまっているのだった。

様子から見て男であることはわかった。髪の毛は抜け落ち、体は痩せ衰えているのが遠目からもはっきりとわかった。

女は、見てしまった以上声をかけてやらねばならぬと思い、足早に近づいた。そして、どうなされました?。そこで何をされているのですか?。と、優しく話しかけた。

すると、痩せこけた老人はゆっくりと顔を上げると歯もないのかモゴモゴと、かすれるような声で話し始めた。

なんでも、隣村からやってきたようで、年を取り過ぎてもはや働けぬようになったので、残忍にも息子夫婦に家を追い出されたという。

もう死ぬしかないと思い、この山にたどり着いたが、死にきれず、後はここで餓死するのを待っているのだという。さらに、憐れなことに三日間も飲まず食わずとのことであった。

女は、この老人に深く同情し、うずくまる老人のもとにさらに近づいた。そして、その肩に手を添え、さらにもう片方の手を懐に入れ、桃の実を握った。

その瞬間、女の心に迷いが生じた。この大切な桃の実をこの老人にあげてしまって良いものかどうか、女の心にこの桃の実を手に入れるまでの苦労がよぎった。

しかし、女はそんな自分を強く戒めた。死にかけている人間を見過ごせるわけがないではないか。女は心を改め、ただ素直な自分の心に従った。 そして、握り出した桃の実を老人の口元に近づけ。お食べなさい。精がつきますよ。と、言った。すると老人はにわかにパッと目を見開き、両手で桃の実を掴むと勢いよく食べ始めた。いや、むしろ飲み込むといった具合であった。

女は、その様子を見ながら、心の中で。これで良かったのだ。これで良かったのだ。と、つぶやいた。老人があっという間に桃の実を平らげてしまった後、女は。せめて種だけでも残してくれたらよかったのに。と、ほんの少し残念に思った。

老人は、食べ終わった後、女に顔を向け、微笑みながら、そして涙を流しながら。ありがとう。と、言った。女は、その言葉を受け。いいんですよ。と、言った。と、その直後から老人に異変が起こり始めていた。

徐々にではあるが、頭に黒い髪の毛が生え始め、抜けおちたはずの歯も生えだし、たるんだ皮膚も張りを保ち、くすんだ色は白くなりだした。

みるみるうちに若返り、いつしか、一人の青年になっていた。さらにその変化は止まらず、体も小さくなり出した。そして、青年は少年になり、今度はあっという間に、ボロボロの着物の中で、男の赤ん坊となってしまい、その変化は止まった。

女は、あっけにとられて見ていたが、ボロボロの着物の中で、おぎゃーおぎゃーとなく赤ん坊の姿を見て、慌てて着物に包んで抱き上げたその時初めて、女は子供を授かったのだと理解した。そして、これまでの自分の行いの全てが正しかったのだと悟った。

もし、桃の実を手に入れてから老人に食べさせることをしなかったとしたら、今頃どうなってしまっていたことか、仮に亭主と半分ずつ食べたとしても、子供を授かるどころか、お互い子供ぐらいにはなってしまっていたかもしれない。そうなれば、頼るべき親ももはやいない我が身は飢え死にしていたかもしれない。

あの夢枕に立った白髪の老人は、桃の実を食べよ、とは言っていたが自分で食べよ、と、までは言っていなかった。ただ同情の心を持って憐れな老人に桃の実を与えたことにより、子供が授かった。それによって自分たちは救われたのだ。だが、もし自分たちで食べていたとしたら恐ろしい結果になっていた。慈悲なき心の恐ろしさをまざまざと思い知らされた女であった。

その後、家に戻った女は亭主に山であったことをすべて話し、連れ帰った男の赤ん坊を自分たちの子供として育てることとした。 ただ、この子には、仮に将来自分に子供ができたとしても、その子に自分の親を大切にする心を植えつけねばならぬことを教えてやらねばなるまいと思う女であった。

やはり、情けは人のためならず。と、いうことでしょうか。

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