4通目 彼との関係
私は人見知りだ。人と会話をすることがとても恥ずかしく、目を合わすこともできない。折角誰かが話しかけてくれても言葉がつっかえて一言も喋ることができない。
『 僕は君と違って理系かもしれないね。実験はいつも楽しいし、数学は公式さえ覚えていればすぐに解けるから。将来専門の仕事に就かない限り、確かに役には立たないかもしれないけれど覚えていても損はないから頑張ってみたらどう? 』
そんな自分がまさかあの彼と文通をするようになるとは考えたこともなかった。人生って不思議。普段の自分だったら決して口にできないようなことも手紙を介してなら言える。たくさんたくさん、話すことができる。
「足し算や引き算は完璧なんだから。……二桁までは」
目下の課題は掛け算である。掛け算は足し算や引き算よりも少しややこしいのでたまに間違えてしまう。でも大丈夫、よくあることだし、皆もきっと間違えてしまうだろうし。
返事を書き、手紙を挟む。自分が鼻歌を歌っていることに気付いたのは、学校を出てしばらく経ってからだった。
彼と文通をするようになったからといって、私たちの関係が大幅に変わったかといえば、別にそう変わってもいない。クラスは同じだけれど、さして親しいとは言えない間柄のままだ。彼の周りにはいつもたくさんの人がいて、笑い声が絶えない。こんな陰気な私が話しかけても彼の迷惑になるだけ。きっと彼もそんな私と関わりたくなんてないだろう。……あれ、でもそうすると、どうして彼は私なんかに手紙を書いてくれているのかな?
「おっはよ」
「おっす陽、今日も無駄に元気じゃねぇか」
「無駄は余計だっつの」
朝、教室に入ってきた彼は友達らしき人たちと気軽に話をしている。
彼は私とは正反対で、社交的な人柄で明るいクラスの人気者だ。男の子にも女の子にも好かれていて、私は彼が一人でいる姿を見たことがないほど、彼の周りにはいつも人がいる。優しく、そして話上手な彼に私は憧れていた。無理だと分かっているけれど、彼のようになれたらなと。
「……あの、柏さん。現国のノートを提出してくれない?」
「…………!」
彼に注意を向けていたから、折角話しかけてくれているのに気付けなかった。慌てて机の中から現国のノートを取り出し、差し出されていた手に渡す。
「……お、おね……」
言葉が出てこない。
“お願いします”“ありがとう”。簡単な言葉なのにどうしても音として発することができない。
視線を上げることすらできずに黙っていると、話しかけてくれた子がすっと私の席から離れていってしまった。……どうしていつもこうなのだろう、いつもいつも思った通りに行動することができない。
軽く溜息をついて椅子に座り直す。その時ふと視線を感じ、顔を上げる。誰も私を見ていない。後ろの方の私の席とは反対に、彼の席は前の方だ。彼は私に背を向けて友人らしい人と談笑をしている。でも、どうしてだろう。何故か、彼が私を見ている気がした。視線を合わせることさえなのに、どうしてか彼の目が私に向いているような気がした。
図書室で借りた本を胸に抱き廊下を歩いていると、前方から彼が歩いてくるのが見えた。別のクラスの友達だろうか、見覚えのない人たちと一緒にいる。私は目線を落として無言で彼とすれ違う。一言も話しかけず、目も合わせずに通り過ぎる。当たり前だ、だって私は彼の“友達”ではないのだから。
文通をするようになったからといって、何も変わっていない。意識を向けることのない他人以上の他人、それが私たちの関係。
週末、図書室に手紙を受け取りに行く。
『 意外だな。君は勉強が得意なのかと思っていたから。英語の小テスト、どこを間違えていたの? 単語はスペル間違いをしたら意味も全然変わっちゃうから気をつけないとね 』
優しい言葉に頬が緩む。本当に彼は優しい人だ。こんな私なんかにも構ってくれるのだから。
返事を書こうと持ってきた便箋を取り出し、ペンを持った瞬間、不意に思う。それは今までにも何度も出てきた疑問、どうして彼は私と文通をしているのだろうか。彼にはいろいろな友達がいる。話の合う男友達から華やかな女友達、ともすれば年の離れた大人から小さな子供まで交友関係は広いらしい。陰気で無愛想で頭の悪い私なんかを構う理由が分からない。
最初に受け取った手紙には『橘陽』と記されていた。……しかし、それが本当のことなのか私には知る術はない。この手紙も本当に彼が書いたものかも分からない。私の問いかけに誰かが嘘を書いたのかもしれない。本当の私の文通相手は彼ではないのかもしれない。そうだったら現実で、彼から何のリアクションもないことにも納得する。
文通を始める前と何も変わらず話さない、目も合わさない私と彼。
もしかしたら私は、現実には存在しない想像上の彼と文通をしているのかもしれない。
誰からも好かれて友達のたくさんいるクラスメイトの橘陽君。
私の話にも根気強く付き合ってくれている優しい文通相手の橘陽君。
現実の彼と手紙の彼の顔が、私の中で未だに一致してくれない。
朝、彼が教室に入ってくる。けれど私は彼に視線を向けることなく手元の本を読み続ける。そのうち彼と彼の友達の間で笑い声が上がり、他の人たちも彼の周りに集まる。
視線を合わさない、話しかけない、関わらない。
それが私たちの関係。
『 よく使う単語を集めた英語の単語帳を作ったらどうかな? 見て、音読するだけでも結構覚えることができるよ 』
顔文字なんて書いて引かれちゃったりしないだろうかと心配していたので、返事が来てホッとした。
先日返された小テストに先生からのコメントが書かれていて、それを見た喜びのまま返事を書いてしまった。読み返さないまま出してしまい、変に思われたのではないかと後で気づいた。大丈夫、彼から返事が来たから大丈夫。
ちなみに、机の中にある返された小テストには赤ペンでコメントが書かれている。その隣には、一桁の点数が大きく記されていた。