1通目 彼女からの手紙
『 あなたが好きです 』
彼女からの最後の手紙には……ただ一言だけが、綴られていた。
◇ ◇ ◇
僕には秘密の文通友達がいる。
「おい、陽。昨日のテレビ見たか? すっげ面白かったやつ!」
「見た見た、“世紀のお笑い特集・鳥も豚も木から落ちる!”ってやつだろ」
「そーそー」
クラスの友達と話しながら、横目で彼女の姿を確認する。長い髪を無造作に垂らし、両手で一冊の文庫本を手にしてゆっくりとページを捲るその姿を。
彼女の名前は柏紫乃。
誰も知らない、僕だけの文通友達だ。
始まりは四月の終わり、ちょうど入学してから始めての課題を出された日のことだった。
「なんだよ源氏物語の現代語訳って。わかんねぇよ」
古文の課題で指定された箇所を現代語訳しなければならないという内容の課題を出されたのだ。教科書の中の指定された箇所は日本語とは思えないような暗号文がずらずらと並んでいて、僕の力では解読できそうになかった。しかしそう言って諦めて課題提出をできなかったら、入学早々教師たちに不真面目な生徒という非常に迷惑なレッテルを貼られてしまう。そうするとあと三年は続く高校生活が過ごし難くなってしまうため、渋々取り掛かることにしたのだ。
「……ここが図書室か。初めて来た」
普通の教室の扉よりも頑丈そうな造りの扉を開く。しんと静まった空間に足を踏み入れると、足音が響かないようにと絨毯が敷かれていることに驚いてしまう。本を並べている棚も枠付きで、随分金を掛けているのだなと思いながら眺める。
「……えっと、源氏物語……源氏……」
図書室に来た目的はただ一つ、源氏物語の現代語訳版の書籍だ。わざわざ時間をかけて訳するよりも、プロの人が訳したものを写す方が時間もかからないし、この上なく正しいと気が付いたからだ。その方が源氏物語も下手な訳をさせられるよりいいだろう、うん。
……しかし。
「……ない」
図書室なんて場所には滅多に来ないから、本の配架場所なんて分かるわけがない。困りながら奥まで来て、また戻ろうと振り返る。その時、背中が棚に当たり、カサリと音を立てて何かが落ちた。
もしもこの日、僕が図書室になんて来なければ――彼女と知り合う機会なんて永遠に無かったかもしれない。そう考えると、世の中は不思議なものだなと思う。
落ちた物を拾い、それが一通の手紙だということに気付く。真っ白な封筒、宛名も差出人も書かれていないそれは、封もされていなかった。
悪いかな、と思いつつ封筒から便箋を取り出し、中身を読む。そこには丸っぽい女の子らしい文字で書かれた、誰に宛てたものでもない言葉が綴られていた。
『 憧れていた熊蜂高校に入学できて嬉しいです。噂に違わぬ蔵書数に驚きました。卒業までに全てに目を通すことができるでしょうか。できたらいいなぁ 』
他愛のない日常が綴られている手紙。便箋は二枚入っていて、全てを読み終えた僕は何故か鞄からノートを取り出していた。ノートの端を千切り、文字を書き込む。誰ともしれない相手への返信を書き終えた僕は白い封筒に入れ直して元あった場所に戻す。そこは誰も読まないだろうといった分厚い“日本文学書道の歴史”の四巻と五巻の間に挟む。きっと手紙を書いた人も、誰も触れないだろうと思ってこの場所にしたのかもしれない。そんなことを考えながらその場所を離れる。
今考えてもどうしてあんなことをしたのか分からない。ただ、気が付いたら返事を書いていたのだ。
一週間後、手紙を挟んだ場所に向かうと、白い封筒が消えていて一枚の紙切れが挟んであった。
『 あなたは誰? 』
一言、書いてあった。
僕はその裏に『橘陽です。君は?』と書く。返事は来るだろうか。……大丈夫、きっと来る。
その一週間後の月曜日、返事が来ていた。これから先も、何度となく呼び続けるであろう彼女の名前を添えられて。
こうして僕たちの文通は始まった。