その5 助け舟はその名の通り
男性は先刻の〝使い込まれてはいるがしっかりと整備されたボート〟に乗り、ポケットから取り出した鍵を操縦席に差込んで手際よくエンジンをかけると、「乗りなさい」と一声かけて降ろしていた碇を引き上げて船の中に積み込んだ。
「ありがとうございます!」
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
サキの声に遅れるように礼を言い、船に乗り込んだところで気がついた。俺が乗る必要は一切なかったのではないか、と。しかし乗り込んだ手前降りるのも失礼だろう、そのまま船の中腹に移動して腰をおろさせてもらうことにする。
男性は我々が乗ったのを確認すると、アクセル全快で船を湖の中へと走らせた。エンジンが景気よくリズムを取り、俺はいつぞや見た海の男のドラマに思いを馳せることにした。水着もそうだが、釣り用具の一つくらい持ってきてもよかったのかもしれない。
エンジンのリズムを覚え、髪を吹き飛ばそうとする風にも鳴れた頃に船は止まった。岸からどれほど離れたのか。さっきまで近くにあった家が指先以下の大きさになってしまっている。
水面を見てみるも、底が見えない。午前中に遊覧船には乗ったが、これほどまでに恐怖感が違うものか。エンジンによって揺れる船、暴れる波に吹きすさぶ風。どれもこれもレベルだけなら遊覧船と比べればマシかもしれない。よくよく考えれば、あちらは落ちないという余裕があるから綺麗などと言えるのだろう。常に転落の危機にある小さな船の上では綺麗だなどと言おうにも言えない。
だが、冷静に見れば落下時に無事に済まなさそうなのは遊覧船のほうが上である。人間は何によって感情を変化させているのか、この辺りに一つの答えがあるのではないだろうか。
と、ここで船が大きく揺れる。サキに目をやれば、このような恐ろしいところで仁王立ちをしているではないか。度胸は評価するが、こちらのことも気にしていただきたい。
「ビッシー! アンタがここにいるのはわかってるのよ! さっさと顔出しなさい!」
まるでいじめられっこを呼び出す不良のようだ。などと口にしたら、こってり絞られるのだろう。いっそ俺が怒られる方がビッシーに対しては良いことなのかもしれない。だがしかし、架空の生き物のためにわざわざ辛い思いを自分から受けるなど、考えればおかしなことだ。
ビッシーには悪いが、俺は自分の身の安全を優先させていただこう。
「ちゃーんと調べたんだからね。存在する証拠も掴んでるのよ! 命が惜しければなんて言わないわ。アンタも男なら、女の子の言うことを聞きなさい」
誰もビッシーが男だなどと言っていない。そもそも性別があるのかどうかもわからないし、ひょっとすると男女共に存在するのかもしれない。いや、これでは俺がビッシーを肯定していることになる。発言を撤回させていただこう。
さっきは釣り道具を持ってくれば良かったと思ったが、この状況で釣りをするなどシュールにも程がある。叫ぶ女に釣る男、船の主は我々をどう思うだろうか。考えたら負けなのだろう、俺は想像するのをやめた。
ビッシーがあまりに頑固だからか、サキの表情はムッとしたものに変わってゆく。それが、ビッシーは存在するのに出てこないと思っているからなのか、それともビッシーなど存在しないと思い知らされているからなのか。
「ちょっと。アンタも呼びなさいよ」
どうやら、ビッシーが存在するのに出てこないことにご立腹のようだ。奴の固定概念を崩すにはそれこそベルリンの壁を壊すような勢力を裂かねばならないのだろう。
「別にアンタが呼ぶことによってビッシーが出てくるなんて思っちゃいないわ。でも一人より二人、二人より三人。三本の矢は折れなくなるし、三人寄れば文殊の知恵よ」
三人寄ればかしましい、とも言う。
「人数が増えればビッシーに届く声だって多くなる。そうすればさすがのビッシーだってすぐさま私たちの前に姿を現すはずよ。大野さんだって呼んでるんだから」
はて、発言に引っかかるところがあったので見てみれば、船長が一生懸命ビッシーの名を呼んでいるじゃないか。しかもなんだかノリノリで、だ。予想外の出来事に、俺も参加しなくてはならない雰囲気だ。そういえば船長は大野さんというのか。いつの間に聞いたのだろう。
「ビッシー」
「ビッシー出てこーい」
「観念なさーい」
叫ぶ三人。老若男女問わず同じ名前を呼び続けるのは実におかしな光景である。いつまで経っても出てこない様子に「アンタが真面目にやらないから」と、サキからの野次が飛んでくる。
喉が悲鳴を上げ始めた頃、太陽は西の空に沈み日が暮れようとしていた。
海ではないが、海と言ってもおかしくない広さの湖だ。周りを家々が囲んでいるとはいえ、届く明かりは豆粒どころかゴマ粒サイズで頼りにならない。船の灯りだって前方にしか向かず危険極まりない。落ちてしまえば下手すれば死んでしまうだろう。
湖上でのビッシーの捜索は、これにて打ち切られた。