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自殺志願少女と誘拐犯  作者: 瑞原唯子
本編

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9/13

第9話 世界でたったひとりの味方

「なんだかんだ炎天下を歩いたよな……」

 空が茜色に染まり、暑さもだいぶやわらいできたころ。最寄り駅から自宅マンションへ向かう道すがら、ふと昼間の強い日差しを思い出してそうぼやくと、隣を歩いているハルナはふふっと愉快そうに笑った。

 今日はのんびりと涼しく過ごすつもりで美術館に出かけた。千尋もハルナも絵画に特別興味があるわけではなかったが、それでもひそひそと話したり笑ったりしながら、楽しく鑑賞した。

 ただ、美術館を見終わってそのまま帰るには時間的に早かったので、もったいないと思い、何となく周辺の繁華街をあちこち歩きまわってしまったのだ。

 街中は直射日光だけでなくアスファルトの照り返しもきつく、そのうえビルの反射光まであり、体感的にはきのうの広大なテーマパーク以上に暑かった。歩いたのが人混みだったせいもあるだろう。

 それでもハルナが好奇心で目をキラキラと輝かせているのを見ると、まあいいかと思ってしまう。どこへでも連れて行ってやりたくなるし、どこまでもつきあってやりたくなるのだ。


 公園前の信号を渡ると自宅マンションだ。

 ハルナと二人で帰宅することがもうすっかり日常となっている。いつものようにオートロックのエントランスを通り抜け、エレベーターで四階に上がって自宅の鍵を開けようとした、そのとき。

 ガチャ——。

 隣の部屋から女性が出てきた。小学生の子供がいる三十代くらいの主婦だ。買い物にでも出かけるのか、カジュアルな服装でトートバッグを肩に掛けている。千尋とは隣人として挨拶する程度の間柄でしかない。

「あら、こんにちは」

「こんにちは」

 千尋は動じることなく挨拶を返す。

 しかし、何も知らないハルナはそうもいかなかった。ビクリとすると、あわてて千尋の後ろに隠れてギュッとシャツをつかむ。その手はかすかに震えていた。

「妹です。夏休みなので遊びに来てるんですよ」

 隣の主婦がどこか訝しむような目をしていることに気付き、こちらからそう告げる。とっさのことでハルナと示し合わせていたわけではないが、聡い子なので意図を汲んでくれるに違いない。

「ほら、挨拶して」

 千尋が促すと、背後からおずおずと顔を出してこんにちはと会釈する。蚊の鳴くような声ではあったが主婦の耳にも届いたのだろう。彼女はにっこりと微笑んでこんにちはと応じた。

「お名前はなんていうの?」

「……ハルナです」

 それを聞いた瞬間、主婦は何かに気付いたように小さくハッとした。すぐさま何でもないとばかりに笑顔に戻ったものの、目だけは笑っていない。じっと観察するようにハルナを見つめている。

「随分、年が離れてらっしゃるのね」

「ああ……その、腹違いなので……」

「あら、私ったら立ち入ったことを」

 いかにも申し訳なさそうに口元に手を添えて言うが、本心には思えない。千尋は余計な嘘をついてしまったことを後悔した。もっとも、どう答えてもすでに手遅れだったのかもしれないが。

「では、失礼します」

「ええ」

 それでも動揺を見せることなく二つの鍵を開けると、ハルナを促して中に入り、ドアハンドルに手をかけたまま耳を澄ませる。すぐに、主婦があわてて部屋に駆け戻っていく音が聞こえた。おそらくは警察に通報するために——。

 ハルナも察したらしく、顔面蒼白になり表情を凍り付かせていた。

「名前……私が、違う名前を言わなかったから……」

「そうじゃない。名前をごまかしたところでもう気付かれていた。ハルナ、おまえが責任を感じることじゃない。むしろオレがもうすこし気をつけるべきだった」

 いまさらどちらの責任だと言い合っても意味がない。

 いずれこういうときが来ることは二人とも覚悟していた。それでもいざ直面すると平静でいることは難しい。かすかに震えている彼女の小さな体をグッと抱き寄せて、千尋はゆっくりと呼吸をした。


 コトリ——。

 千尋が書斎から取ってきてダイニングテーブルに置いたそれを、向かいのハルナは怪訝に見つめる。

「これ、なんですか?」

「ICレコーダーだ」

 何年か前に仕事用として買ったものだが、いまは使っていない。

 千尋は再びそれをつまみ上げ、実際に操作しながら録音再生などの基本的な使い方を教えていく。本体のボタンにも機能が書いてあるので難しくはないはずだ。一度の説明で十分だろう。

「これで親からの仕打ちを録音しろ。殴ってる音はわかりにくいかもしれないが、暴言なら録りやすい。複数の場面のものがあれば説得力が増すだろう。それを持って警察に行けば助けてもらえるはずだ」

 誘拐犯である自分が何を言ったところで取り合ってもらえない。それゆえ彼女自身が行動するしかないのだ。明確な証拠がないかぎり親の主張が優先されるだろうし、まずは証拠を押さえる必要がある。

「戦え。生きろ。七年たてば自由になれる」

 発破をかけると、ハルナはいまにも泣きそうに顔をゆがめてうつむいた。

 酷かもしれないが、いまの千尋に言えるのはもうこれしかなかった。彼女が親元に帰され、暴力や暴言にさらされる日々に逆戻りしたとき、この言葉が力になってくれることを願っている。

「悪いな。途中で放り出すような形になって」

「悪いのは私のほうです!」

 彼女がはじかれたように顔を上げた。

 そのときチャイムが鳴り響いた。メロディからして部屋の前からの呼び出しである。通常はまずエントランスからの呼び出しがあるのに、それがなかった。おそらく管理人に事情を話して通してもらったのだろう。

「それ、しまっておけ」

「はい……」

 ハルナも誰が来たのかは想像がついているようだ。顔をこわばらせたまま消え入りそうな声で返事をして、ICレコーダーを鞄にしまう。その手つきはひどくぎこちなくて動揺が見てとれた。

 催促するように二度目のチャイムが鳴る。

「ここで待っていろ」

 そう言い置き、千尋は静かに席を立って玄関に向かう。ドアスコープを覗くと、中年男性と若い女性が並んで立っていた。二人ともきっちりとスーツを身につけて、隙のない顔をしている。

 ガチャ——二つのサムターンをまわし、無言で扉を押し開く。

 すぐに二人は警察バッジを見せながら所属とともに名乗った。いわゆる所轄の刑事のようだ。男性刑事が玄関に置いてあるハルナの靴をちらりと見たが、表情を変えずに話を続ける。

「いま、女子中学生の行方不明事件を捜査していましてね。申し訳ありませんが、ちょっと部屋の中を見せていただいても構いませんか。訪問した家のみなさんにお願いしていることなんで」

「どうぞ」

 千尋が促すと、女性刑事が失礼しますと靴を脱いで上がる。書斎、寝室、トイレ、浴室を順に調べていき、そして突き当たりのリビングの扉を開けた。その瞬間、ハッとしたのが後ろ姿から見てとれた。

「警察です。お名前を教えてくれる?」

「…………」

 ハルナの声は聞こえない。女性刑事の困惑した様子からしても、おそらくあえて口をつぐんでいるのではないかと思う。もしかしたら、来るなとばかりに睨んでいるのかもしれない。

「その子は榛名希さんです」

 千尋は玄関にとどまったまま声を上げた。

 隣で動きを警戒していた男性刑事が目を見開いたが、すぐに表情を引きしめ、リビングの入口付近にいる女性刑事に目配せをした。彼女は頷き、あたりを見回しながら慎重に中へと足を進めていく。

 ほどなくして優しげに話しかける声が聞こえてきた。もう大丈夫だから安心して、あなたを助けに来たのよ、怖かったわね、ご両親も待っているわ——けれどもハルナの返事は聞こえてこない。

「署のほうで話を聞かせてもらいます」

 男性刑事は鋭いまなざしを千尋に向けてそう告げた。物言いは丁寧だが有無を言わせぬ迫力があり、絶対に逃がさないという強い意志を感じる。千尋は素直に「はい」と返事をしたが——。

「やめて!」

 背後から悲鳴が聞こえた。

 振り向くと、後ろから女性刑事に抱き留められたハルナが、そこから抜け出そうともがきつつ必死に手を伸ばしていた。

「おにいさんは悪くない! 死のうとした私を助けてくれただけ! 私がここに置いてくださいって頼んだの! 私からおにいさんを取り上げないで!! 世界でたったひとりの味方なのっ!!!」

 あらんかぎりの声を絞り出して全身で訴えている。

 しかし、言葉どおりには受け取ってもらえないだろう。脅されるなどして犯人のことを庇っている、あるいはストックホルム症候群だと思われるのが関の山だ。それに訴えが認められたとしても無罪になるわけではない。

「どうしようもないんだ、ハルナ」

「っ……」

 彼女は眉を寄せ、堪えきれなかったように涙をあふれさせた。それを拭いもせず奥歯をきつく食いしばるものの、嗚咽は堪えきれない。うっ、ぐ、と押し込めたような声が漏れている。

 それを目にして千尋はうっすらと曖昧な笑みを浮かべるが、男性刑事に促されると素直に頷き、後ろ髪を引かれる思いで背を向けて部屋をあとにする。当然のように腕を掴まれたままで。

 閉まった扉の向こうからは、追いすがるような激しい慟哭が聞こえてきた。


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