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自殺志願少女と誘拐犯  作者: 瑞原唯子
本編

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8/13

第8話 紙切れ一枚のおまもり

 翌日からも、毎日ハルナと遊びに出かけた。

 地元民には名の知られたテーマパーク、コアラとゴリラで有名な動物園、世界最大規模のプラネタリウムがある科学館、野外開催のフードフェスティバル、そこそこ規模の大きな花火大会など——。

 どれもハルナは楽しんでくれたし、千尋も楽しんだ。

 これまでにもそういうところに行ったことは何度かある。しかし、いずれも千尋自身が望んでのことではなかったため、まったく楽しめなかったわけではないが、義務感のほうが大きかった。

 だが今は違う。ハルナと一緒だと素直に楽しめるのだ。それに、どうしたら彼女が楽しんでくれるだろうかと考えるだけで心がはずみ、彼女が楽しんでいるのを見るだけで心が満たされる。

 幸い、ハルナの知人にも千尋の知人にも会うことはなかったし、見知らぬ誰かに気付かれることもなかった。一応キャップをかぶっているが、取り立てて顔を隠すようなことはしていない。

 案外、こんなものだ。

 刑事でもないかぎり、いちいち行方不明者や指名手配犯の顔なんか覚えていない。たとえ覚えていても、それを意識してまわりの人間の顔を見たりはしない。遊んでいるさなかであればなおのこと。

 ハルナもすっかり安心しきっている。こんなことならもっと早く連れ出していればよかった。仕事中はともかく買い物くらい留守番させるんじゃなかった。そんなことさえ思うようになっていた。


「ただいま」

 そう言いながら、ハルナは軽やかに自宅へと入っていく。

 今日だけでなく、帰宅したときはいつもあたりまえのように「ただいま」と言う。千尋と一緒に帰ってきているのにだ。彼女にとって、すでにここが帰る場所になっているということだろう。

 そのたびにどこかくすぐったいような気持ちになり、同時に苦しくもなる。しかしながらそれを悟られるわけにはいかない。表情に出さないよう気をつけながら彼女のあとに続き、玄関の扉を閉める。

「疲れただろう」

「楽しかったです」

「オレは疲れた」

「ふふっ」

 ハルナはおかしそうに笑った。

 今日行ってきたテーマパークは、明治時代の建造物などを移築して公開しているところだが、敷地が広大なため延々と炎天下を歩かねばならなかった。そして建物に入ってもあまり冷房がなかったのだ。

 しかし、ハルナは汗だくになりながらも元気に歩きまわっていた。気持ちが高揚しているから疲れを感じていないだけで、帰ったらぐったりするのではないかと思ったが、そうでもなかったようだ。

 千尋は正直とても疲れた。けれど、もちろん楽しいことはいろいろとあったし、暑い暑いと言い合ったのも思い出になるだろうし、何より彼女が目を輝かせていたので行ってよかったと思っている。

「あしたは美術館でいいか? 今日以上の最高気温になるとか言ってたし、オレとしては涼しいところでまったり楽しめるものがいい。おまえが炎天下を歩きたいっていうなら善処するが」

「美術館でいいですよ」

 ハルナはくすくすと笑いながらスリッパに履き替えて、リビングに向かう。斜めがけにしているフラップ型ショルダーバッグの横では、小さなペンギンのぬいぐるみが揺れていた。


 夕食は帰りがけに外で食べてきたので、あとは自由時間だ。

 千尋がダイニングテーブルの自席でノートパソコンを広げると、ハルナは向かいで勉強を始めた。もう手持ちの宿題はすべて終わらせてしまったので、いまは買い与えた問題集を解いている。

 遊びに行っても勉強は怠らないと決めているようだ。無理しなくていいと言っても、無理はしていないとあっさり返されてしまう。ひ弱そうに見えるが意外と体力はあるのかもしれない。

「そろそろ休憩にしないか?」

「はい」

 一時間ほどして声をかけると、ハルナは手を止めて素直に頷いてくれた。

 すぐに二人分の紅茶を淹れて、今日買ってきたおみやげのカステラとともに出す。冷房のきいた部屋なので熱い紅茶がちょうどいい。彼女も一口飲んでほっとしたように息をついた。

「ずっと、こんな日が続けばいいのに……」

 思わずこぼれ落ちてしまったかのような声。

 彼女はすぐにハッとし、はじかれたように顔を上げて何か言おうとするが、千尋と目が合うと口をつぐんで気まずげにうつむいた。テーブルの上で軽く握っていた手に力がこもっていく。

 こんな日は長く続かない、遠からず終わる——。

 彼女はとっくにわかっていただろうし、千尋もわかっていた。しかしながら互いにそのことには気付かないふりをしてきた。それゆえ、彼女はひとりで不安を抱え込んでしまったのではないか。

 そんなことも察してやることができなかった自分を、千尋は情けなく思った。つい苦い顔になりかけたもののグッとこらえ、ゆっくりと深く呼吸して気持ちを整えると、静かに口を開く。

「あと七年だ」

「えっ?」

 彼女は怪訝に顔を上げた。その瞳を真正面から捉え、千尋は続ける。

「二十歳になれば自由になる。親の許しがなくても、自分次第でどこへでも行けるし何にでもなれる。親から逃げても法律に咎められることはない。新しく家族を作ることだってできる」

 この程度のことは知っていたかもしれない。

 そうだとしても千尋が自らの言葉で伝えておきたかった。死にたくなるほどつらい境遇に再び身を置いたとき、思い出してくれるように。そしてこれが耐え抜くための希望になることを願って。しかし。

「七年……」

 ハルナは放心したようにつぶやく。

 確かに、十三歳の子供にとっては気の遠くなるような年月だ。これまで生きてきた時間の半分以上にもなる。そんなにも長く耐えなければならないのかと、かえって絶望させてしまったのかもしれない。

 だからといって、七年なんてすぐだとかいいかげんなことは言えない。千尋でも七年は短くないと感じるのに。口を引きむすび、どうフォローしようか必死に思案をめぐらせていると。

「七年たったら、私と新しい家族を作ってくれますか?」

 ハルナが真顔でそんなことを言ってきた。

 思わず目を見開くが、頭の中がまっしろになって何も考えられない。取り繕う言葉さえ出てこない。ただみっともなく固まっているだけである。その様子を見て、ハルナはうっすらと自嘲を浮かべて目を伏せた。

「やっぱり迷惑ですよね」

「……いや」

 どうにか唾を飲み込んでそう返事をすると、微妙に眉をひそめつつ正面の彼女をじっと探るように見つめる。

「だけど、おまえちゃんとわかって言ってるのか? 新しい家族を作るって、要するに結婚して夫婦になるってことなんだが」

「えっ?」

 やはりわかっていなかった。

 兄妹になれたらとでも考えていたのかもしれないが、現実的に無理だ。自由に家族関係を構築できるわけではない。結婚以外では養子縁組をして親子になるくらいだろう。さすがにそれは抵抗がある。

 彼女は千尋を見たまま何度か目をぱちくりとしたのち、ようやく理解したらしい。急に顔を真っ赤にしておろおろとしたかと思うと、いたたまれないとばかりに小さく身を縮こまらせる。

「すみません……そうだとは思わなくて……」

「オレはおまえさえよければ構わないけどな」

「えっ?」

 当然の反応だ。

 千尋自身、まさかこんなことを言うなんて思ってもみなかった。だからといって失言ではない。思いつきではあったが、その意味するところはわかっているつもりである。

「どうせ誰とも結婚する気はなかったし」

「でも……だからって、そんな……」

 戸惑いがちに言葉を紡ぎながらも、千尋の真意を探ろうとするかのように、上目遣いでちらちらと視線を向けてくる。そこには期待と疑念がにじんでいた。

「ちょっと待ってろ」

 そう言うと、千尋はすぐに書斎から目的のものを取ってきて、ぺらりと開きながらダイニングテーブルの上に置く。

「何ですかこれ……えっ?」

「正式なものだぞ」

 それは婚姻届である。女性誌の付録で、漫画のキャラクターがあしらわれているが、実際に役所に出せるものだという。学生時代から好きな漫画なので、話題になっているのを知って何となく買ってみたのだ。

 とりあえず記入できるところだけ記入して押印し、ハルナに差し出す。

「私、まだ結婚できませんけど」

「だから預けておく」

 そう告げると、彼女は戸惑いながらも手を伸ばして受け取り、手元に引き寄せておずおずと目を落とした。そのまま身じろぎもせず見つめているうちに、その目がじわりと潤んでいく。

「こんなの……勝手に提出したらどうするつもりなんですか……」

「そうしてくれて構わないから渡してる。大人になっても気が変わらなかったら、それを使えばいい。気が変わったら遠慮なく捨ててくれ。オレとしては、きちんと相手を見つけることを勧めるけどな」

 千尋はあくまで本気で言っている。

 だが、彼女がそれを使うことはおそらくないだろうと思う。いまは他に誰もいないので千尋に縋っているだけである。ここから離れてしまえば、すくなくとも大人になるまでには目が覚めるはずだ。

 それでも今の彼女にとっての生きる希望になればいい。たった紙切れ一枚だが、単なる口約束よりは実感があるだろうし、おまもりくらいにはなるのではないか。そう考えてのことだった。

「ありがとうございます……大切にします」

 ハルナは丁寧に折りたたむと、しわにならないようやわらかく胸に抱え込む。

 そのとき、表情もわからないほど深くうつむいたその目元から、真珠のようなしずくがきらりと光って落ちるのが見えた。


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