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自殺志願少女と誘拐犯  作者: 瑞原唯子
番外編

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13/13

Can you celebrate?

 ハルナと再会したその日の夕方——。

 空が薄暗くなりそろそろ夜の帳が降りようかというころ、千尋はナビに彼女の住所を入れてレンタカーを走らせていた。彼女は助手席でおとなしく座っているものの、ひどく不満そうな顔をしている。

「本当にあのひとたちと会うつもりですか?」

「一応、挨拶くらいはしておかないとな」

 それは千尋なりの筋の通し方だった。彼女から聞いたところ話が通じる相手とは思えないが、直接会って報告だけはしておきたい。足元をすくわれないためにも必要なことだと思っている。

 彼女は納得いかないとばかりに口をとがらせたが、それ以上は何も言わなかった。


 そもそもは彼女の荷物を取りに行くのが目的である。

 千尋のマンションは大学からもバイト先からもそう遠くなく、むしろ実家より通いやすいと聞いて、さっそくこちらに越してきてもらうことにしたのだ。彼女は急なことに驚きつつも了承してくれた。

 荷物はひとり暮らしをするためにまとめていたところだという。段ボール箱が四つくらいで家具類はないらしい。これなら業者に頼むまでもないが、自家用車は手放していたのでミニバンをレンタルした。

 夜にしたのは彼女の父親が帰宅する時間に合わせてのことだ。ついでに挨拶をしようと考えて。彼女は書き置きを残してくれば十分だというが、それでは後々面倒になるのが目に見えている。

 自宅に行くまえに管轄の役所に行き、彼女の戸籍謄本を取り、転出の手続きを済ませ、新しい婚姻届をもらっておいた。

 おまもりとして渡していたものはかなりくたびれているし、何より職業が記入したものとは変わってしまったので、新たに書き直すことにしたのだ。以前のものはハルナが大事に持っておくという。

 あとは証人だけである。すでに頼めそうなひとに電話で連絡を取っており、あした会う手筈になっている。断られてもまだ他に心当たりがあるし、彼女のほうでも頼めそうなひとがいると言っていた。

 準備は万端だ。

 もう何があっても引き返すつもりはない。どれだけ反対されても、怒鳴られても、殴られても、妨害されても——千尋は決意を新たにして、ハンドルを握る手にそっとひそかに力をこめた。


「ここか……」

 ナビが示した目的地は、閑静な住宅街にあるシンプルモダンな一軒家だった。表札には「榛名」と出ている。一家四人が住むには十分すぎるくらいの広さがありそうだ。外玄関にも一階にも二階にも明かりがついている。

「すこし先にコインパーキングがあります」

「わかった」

 玄関脇に駐めようかとも考えたが、すぐに終わるとは限らないので路上駐車は避けたほうがいいだろう。教えてもらった数百メートル先のコインパーキングに駐めて、一緒に徒歩で戻った。

 玄関前に着くと、ハルナは緊張ぎみに鍵を開けてそろりと中に入り、千尋も促されるまま足を踏み入れて丁寧に扉を閉めた。それでもガチャリと結構な音がしてしまったが、誰かが出てくる気配はない。

「すこし待っててくださいね」

 彼女は声をひそめてそう言い置き、靴を脱いで一階のリビングと思われる部屋に入っていった。

 まもなく女性のヒステリックな怒号が聞こえてきた。ハルナの声ではないのでおそらく母親だろう。彼女が話していたとおりの人物像だなと考えていると、バンと叩きつけるように扉が開いた。

 出てきたのは、黒縁眼鏡をかけているがっちりとした体格の中年男性だった。こちらは父親に違いない。眉をひそめつつ探るようなまなざしで千尋を見たかと思うと、ハッと息をのむ。

「おまえは……」

「誘拐犯の遠野千尋です」

 千尋は表情を変えることなく冷静にそう応じて、頭を下げる。

 父親はすさまじい形相でこぶしを振り上げかけたものの、奥歯を食いしばってどうにかこらえた。そして気持ちを落ち着けるようにゆっくりと呼吸をして、挑発的に口の端をつり上げる。

「いいだろう、何の話か知らんが上がりたまえ」

 そう告げると、ついてこいとばかりに視線を流しながら身を翻して、リビングへ戻っていく。いつのまにか不安そうに廊下に佇んでいたハルナを、すれ違いざまに冷たく一瞥して。


 二人掛けのソファに千尋とハルナが並んで座り、ローテーブルを挟んだ向かいに彼女の両親が座っている。一応、全員にお茶が出されているが、誰ひとりとして手をつけようとしない。

 母親は汚らわしいものでも見るかのように眉をひそめて、嫌悪感を露わにしていた。常識的にいって娘に向ける顔ではない。一方、父親はゆったりと腕を組んで不躾に千尋を眺めまわした。

「謝罪に来たわけではなさそうだな」

 そう言うと、うっすらと嗜虐的な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。

「いまごろになって会社を辞めさせられた恨み言をぶつけに来たのかね。それともいまだに凝りもせず希の味方を気取っておいでか。この子に人生をめちゃくちゃにされたにもかかわらず」

 ハルナはみるみるうちに顔色をなくしていく。

 しかしながら千尋の気持ちはすこしも揺らがない。何も心配する必要はないんだ、大丈夫だ——精一杯の気持ちをこめて小さな背中にそっと手を置き、そしてまっすぐに父親を見据えて言う。

「私と希さんは結婚します。そのことをお伝えするために来ました」

「…………?!」

 向かいの二人はともに大きく目を見開いて動きを止めた。暫しの沈黙のあと、父親が我にかえったように激しい憤怒を露わにして、ローテーブルをバンと叩きつける。

「誘拐犯と結婚など許すと思っているのか!!」

 その瞬間、ハルナがビクリとして体をこわばらせたのが、背中に置いたままの手から伝わってきた。その手に優しくじわりと力をこめながら、千尋はあらためて父親のほうに向き直る。

「成人の婚姻に親の許可は必要ありません」

「制度ではなく常識の問題だ!!」

「娘を殴ったあなたが常識を語りますか」

 返答に窮したのか、父親はグッと歯を食いしばり忌々しげに顔をゆがめる。外面がいいらしいが千尋に取り繕うつもりはないようだ。すでにハルナの絶対的な味方であることを知っているからだろう。

「あんたいいかげんにしぃよ!」

 ふいに、それまで黙っていた母親がヒステリックに責め立てた。千尋ではなくハルナのほうを向いて。視線を落としたまま再びビクリと体を揺らすハルナに、なおも容赦なく畳みかける。

「あんたみたいなろくでもない子を二十年も育ててやったのに結婚やと?! いままでどれだけあんたに金かかったかわかっとるんか! 恩返しもせんと逃げるやなんて絶対に許さへんで!! あんたにはこれから私らの面倒を見てもらうんやからな!!」

 ひどく身勝手な論理である。

 これまでさんざん暴力と暴言で虐待してきた子供に向かって、育てた恩返しをしろなどとよく恥ずかしげもなく言えたものだ。ハルナが書き置きだけで出て行こうとした気持ちもよくわかった。

「……一年につき百万」

 ゆっくりと呼吸をして静かに言葉を落とすと、正面の両親も、隣のハルナも、一様に怪訝な顔をしてこちらに振り向いた。千尋は臆することなく前を向いて話を続ける。

「希さんを育てていただいたことに対して、一年につき百万、二十年分として二千万円お支払いします。これで金輪際、希さんと関わらないでいただきたい」

「金の問題と違うわ!!」

 母親は顔を真っ赤にして憤慨した。

 だが、最初に金の話を持ち出したのは母親のほうである。その矛盾には気付いていないのかもしれない。千尋としてはそれで納得してくれるならと提案しただけで、どちらにしろハルナと関わらせるつもりはない。

「失礼しました。確かに金の問題ではありませんね。金を支払わなくても、希さんは成人として自身の意思で結婚も住所も職業も決められる。きのうまでのようにあなた方のエゴイズムを押しつけることはできない」

「貴様っ!!」

 ガシャガシャン——。

 父親はローテーブル上の湯飲みを蹴散らして千尋の胸ぐらをひっつかみ、こぶしを振り上げた。しかしそこで動きが止まる。理性と激情の狭間で揺れているのが表情から見てとれた。

「殴りますか?」

 そう問いかけると、彼は怒りに顔をゆがめながら乱暴に胸ぐらを突き放し、自身もどさりとソファに腰を落とした。顎を引いたまま憤怒の燃えたぎる目で千尋を睨めつけ、ギリと奥歯をかみしめる。

「行こう」

 それでも千尋は意に介さず、狼狽えていた隣のハルナを促して一緒に立ち上がる。飛び散った緑茶がだいぶズボンにかかっていたが、黒なのでさほど目立たない。ハルナのほうにはかかっていないようでほっとした。

「やっぱり、あのときからそういう関係やったんやな」

 振り向くと、母親がソファに座ったまま顔をしかめていた。

「あんた、体で籠絡してその男を思いどおりにしたんやろう。あんたみたいな不細工でも若いってだけで価値あるもんな。そうでもないとあんたなんかに誰も味方せぇへんわ。この淫売が。ああ、ほんま嫌やわ、いやらしい、汚らわしい。すぐに捨てられて泣きついてきたって知らんからな!」

 ハルナを睨みながら唾棄するように言い捨てる。

 関係を疑われることは覚悟していたものの想像以上だった。まさにハルナを傷つけるための暴言だ。不細工と言っているがまったくそんなことはないし、まして体で籠絡など事実無根もいいところである。

 だからといってすこしも傷つかないわけはないだろう。それでもハルナはすっと背筋を伸ばして母親に向き直り、きっぱりと告げる。

「そうなっても、あなたたちには絶対に泣きつきません」

 その声はこころなしか震えているようだった。

 千尋は優しく包み込むように彼女の手を握り、リビングをあとにする。ヒステリックに悪態をつく声や、テーブルをひっくり返すような音が聞こえたが、もう振り返ることはなかった。


「さて、と……帰るまえに荷物を運び出さないとな」

 千尋は玄関ホールで緩やかに足を止めると、そう切り出した。

 ハルナも忘れていたわけではなかったらしく、冷静に頷いて、気を取り直したように千尋を二階に案内する。そこに彼女の部屋があるという。

「急いで荷造りを済ませますね」

 そう言いながら、階段を上がってすぐの扉を開けた。

 中はすでにがらんとしていた。学習机にはノートパソコンと参考書数冊が置かれているが、本棚は空で、あとは部屋の隅に段ボール箱が四つ積んであるくらいである。上の箱二つはまだ閉じられていない。

「そんなに時間はかからなさそうだな」

「あと十分もあればできると思います」

「じゃあ、オレは車をまわしてくる」

「わかりました」

 ハルナをこの家に残していくのはいささか不安ではあるが、あの両親もさすがにこの状況で実力行使には出ないだろう。千尋はコインパーキングに走ってレンタカーを取ってくると、玄関前につけた。

「荷造りは済んだか?」

 勝手に二階に上がり、半分ほど開いていた扉から部屋を覗いて声をかけると、ハルナは待ち構えていたようにこちらを向いていた。はい、とほっとしたように表情を緩ませて答える。

 荷物は彼女の横にまとめられていた。横長の大きな段ボール箱が二つ、それより小さい段ボール箱が二つ、ハンガーに掛かったコートとスーツが数着、バッグが大小あわせて三つだ。あとは玄関に靴が二足あるという。

 このくらいなら余裕でレンタカーに載せられる。まずは荷物をすべて玄関に下ろしてから車に積み込むことにした。彼女に衣類とバッグを持たせ、千尋は大きな段ボール箱を抱えて部屋を出る。

「希」

 ふいに奥の扉がカチャリと開いて若い男性が姿を現した。千尋よりもやや背が高く、細いなりに鍛えられたような体格をしている。ハルナが困惑ぎみに顔を曇らせても動じる様子はない。

「結婚するの?」

「うん」

「……お幸せに」

「ありがとう」

 二人は淡々と短い言葉を交わした。それが途切れると、ハルナは背を向けて立ち去ろうとするが、そのとき彼がわずかに目を伏せたかと思うと——。

「いままでごめん」

 ぼそりとそれだけ言い置いて部屋に戻った。

 ハルナは驚いたように振り向き、パタンと閉まった扉をしばらく見つめていたが、やがて千尋の脇をすり抜けて先に階段を降りていく。

「いまの弟さん?」

「はい」

「もういいのか?」

「いいんです」

 あとを追うように階段を降りながら尋ねる千尋に、ハルナは振り返らずに答える。その声はどこか寂しげで、儚げで、けれども拒絶めいた色は感じられなかった。


 荷物をレンタカーに積み込むのに時間はかからなかった。

 ハルナは最後に忘れ物がないかを確認してくると、キーホルダーから鍵を外してそっと玄関マットの隣に置いた。そして、すっかり静かになったリビングのほうを無表情で一瞥する。

「行きましょう」

「ああ」

 すぐに身を翻し、千尋に声をかけながら迷いのない足取りで玄関をあとにする。助手席に乗っても、車が走り出しても、これまで暮らしてきた家にもう目を向けようとはしなかった。


「弟とは仲が悪かったのか?」

 住宅街を抜けると、千尋はハンドルを握ったまま何気なくそう尋ねてみた。弟についてはあまり聞いていなかったので気になったのだ。先刻の様子からするとそう仲がいいわけではないだろう。

 ハルナはすこし難しい顔をしながら答える。

「仲が悪いというか……両親があの子のことをすごく可愛がっているんです。あの子を褒めるために私を貶すこともしょっちゅうで。あの子のやったことを私のせいにされて殴られたこともよくありました。だから私としてはあまり関わりたくなかったし、弟としても気まずかったんだと思います」

「ああ、それで謝ってたのか」

「そうですね……自分のせいで私が殴られているのに、ただ見ているだけで何もしなかったことを悔いているのかもしれません。私も小さいころはそんな弟のことを妬んだり恨んだりしましたが、いまでは仕方がなかったと思っています。あの子もある意味で両親の被害者だったといえるでしょうね」

 遠い目をして語ると、小さく息をついて千尋に横目を流した。

「それより二千万、本当に払うつもりだったんですか?」

「ああ、それで両親との縁が切れるなら安いものだろう」

「安い……でしょうか……」

 図りかねたように眉をひそめて悩むハルナを見て、千尋はひっそりと笑う。

 金銭感覚は人それぞれだ。まして社会人と学生なら隔たりがあるのも無理はない。千尋にしても決して二千万円が端金というわけではないが、それで心穏やかに暮らせるのなら安いものだと思う。

「結局、受け取らなかったけどな」

「いまごろきっと後悔してると思いますよ」

「やっぱり払えって言ってきたら払うよ」

 そう軽く応じたが、ハルナはますます顔を曇らせてうつむいていく。千尋に二千万という大金を使わせたくはないが、このままだと両親が何をしでかすかわからない、とでも考えているのだろう。

「心配するな、何があってもオレが対処するから」

「面倒なことになってしまってすみません……」

「家族になるんだから遠慮するなよ」

 そう告げると、彼女はうつむいたまま気恥ずかしげに頷いた。

 そのまま車内に沈黙が落ち、赤信号で止まったときに何気なく隣に目を向けると、彼女はシートにもたれて静かに眠っていた。今日一日、いろいろなことがありすぎて疲れたのだろう。千尋はハンドルに手をかけたまま柔らかく目を細めた。


 翌日——。

 かつて勤務していた会社からほど近い喫茶店に、ハルナを連れて来ていた。

 元上司と元後輩に婚姻届の証人になってもらうためだ。二人とはいまも仕事を通してつきあいがある。電話で頼むと、まずは会って話を聞かせてほしいと言われたが、千尋としても当然そうするつもりだった。

「おう、会うのは久しぶりだな」

「おはようございます」

 隙なくスーツを着こなしている元上司と、人好きのする笑顔を見せている元後輩に、千尋とハルナはそろって立ち上がり一礼する。元上司は軽く片手を上げて応じると、元後輩とともに向かいに腰を下ろした。

「へぇ、この子が遠野さんの婚約者ですか」

 元後輩が無邪気な好奇のまなざしをハルナに向けて言う。彼女は顔をこわばらせたが、千尋はなだめるようにその小さな背中に手を置き、あらためて姿勢を正して向かいの二人に紹介する。

「榛名希さん、大学生で二十歳です」

「二十歳?!」

 そこまで驚かなくてもと思うが、千尋より十六歳も下なのだから仕方がないかもしれない。さすが遠野さんです、うらやましい、などと元後輩は興奮ぎみに目をキラキラと輝かせている。

「年齢はともかく……」

 元上司は騒々しい部下をじとりと横目で睨んでそう言うと、真顔で千尋に向き直り、いかにも意味ありげにハルナを一瞥してから言葉を継ぐ。

「彼女、おまえの過去を知ってるのか?」

 過去というのは、親に捨てられて児童養護施設で育ったことではなく、女子中学生を誘拐した容疑で逮捕されたことだろう。意地悪で言ったわけでないことは表情を見ればわかる。だからこそ決まりが悪くて千尋はうっすらと苦笑した。

「私が七年前に誘拐した少女の名前は、榛名希です」

「えっ……?!」

 元上司も、元後輩も、大きく目を見開いたきり固まった。まるで息をすることさえ忘れたかのように。それは千尋が言ったことを正しく理解している証左だろう。

 先に我にかえったのは元上司のほうだった。

「あ……あ、じゃあ、当時からそういう仲だったということか?」

「いえ、当時は何もなかったです」

 当時どころかいまだに何もないのだが、証拠が提示できないので千尋には否定することしかできない。しかしながら間髪を入れず隣からハルナが援護してくれた。

「誘拐といっても行くあてのなかった私を置いてくれただけです。そのあいだ、十三歳の子供としてひとりの人間として誠実に扱ってくれました。そんな彼だからこそ私は心から信じることができたんです」

「まあ、それならいいんだが……」

 そう言いつつも、元上司はあまり納得していないようで、ハルナを見つめたまま難しい顔をしている。

「君のご両親はこのことを承知しているのか?」

「……親はいないものと思っています」

 正直な答えだが、これだけでは事情を知らないひとに認めてもらえない。千尋はハルナの許可を得てから、彼女と両親の関係、七年前の誘拐の経緯、結婚報告時の反応などを簡潔に説明した。

「なるほどな……おまえが誘拐なんて、よほどの理由があるんだろうとは思っていたが」

 これまでは誰に真相を訊かれても言葉を濁してきた。それを話すにはハルナの事情に触れざるを得ないが、公開捜査で氏名が公表されていたこともあり、控えるべきだと判断したのだ。

 元上司は顔を上げ、真剣なまなざしでハルナを見据える。

「希さん、本当にいま遠野と結婚してしまってもいいのか? 君はまだ若いんだ。これからいくらでもいい出会いがあるだろう。もし恩義を感じての結婚なら考え直したほうがいい」

「そうそう、せっかくこんな可愛いんだから、何もこんなおっさん選ばなくても」

 二人の言うことは至極もっともだ。もっともだけれど。これでハルナが思い直してしまったら、やっぱりやめますなんて言い出したら——その心配をよそに、彼女はうっすらと笑みを浮かべて首を横に振った。

「このあと、どうなったとしても後悔はしません」

 やわらかくも芯のある声できっぱりとそう告げる。

 彼女の覚悟はそう簡単に揺らぐものではなかった。信じきれていなかったことを申し訳なく思いながらも、千尋はほっと安堵の息をつく。ハルナもつられてかすこし気恥ずかしげに微笑んだ。

「わかった、証人になるよ」

 ハルナの答えを聞き、表情を見て、元上司がふっと表情をやわらげて言う。

「おまえもいいな?」

「もちろんです!」

 元後輩も力強く同意してくれた。

 すでに千尋たちの署名捺印がしてある婚姻届を差し出すと、二人はそれぞれ証人欄に署名捺印していく。元後輩は初めて婚姻届の実物を見たとはしゃいでいた。ちなみに結婚の予定どころか彼女もいないらしい。

「じゃあ、仕事もあるしオレらは行くよ。お幸せに」

「ありがとうございました」

 千尋とハルナは立ち上がり、深々と礼をしてスーツ姿の二人を見送った。心からの感謝をこめて——。


 その後ランチを食べてから、地元の市役所に行って婚姻届と転入届を提出してきた。別に断られると思っていたわけではないが、あまりにもあっけなく受理されて拍子抜けしてしまう。それはハルナも同じだったようだ。

「何か、あまり実感がないですね」

「これから徐々に実感するだろう」

「そうですよね」

 ハルナはふわっと笑った。

 千尋もつられるように笑みを浮かべて彼女の手を握る。何も言わずいきなりだったのですこし驚いていたようだが、すぐにそっと握り返してきた。そのまま人通りのない道を歩く。

「希……って呼んでいいか?」

「え、はい……千尋さん?」

 互いに遠慮がちに窺い、目が合うと照れたように笑う。

 もう榛名ではないのにハルナと呼ぶのはどうかと思うし、おにいさんというのもおかしい。これからは名前で呼び合うのがいいだろう。すぐには難しくても、慣れるための時間はたくさんあるのだから。


 夜は繁華街まで出向き、鰻料理店でひつまぶしを食べてきた。

 ただ、毎日外食というのも面倒なので、これからはまた家で料理をしていかなければと思う。食材を買い出しに行くのならやはり車が必要だろう。いっそ利便性のいいところに引っ越すのもいいかもしれない。

 ベッドで上半身を起こしたまま、そんなことをつらつらと考えていたら、パジャマに着替えた彼女がもぞりと隣に入ってきた。何の躊躇もなく。いまだに子供だった七年前の感覚でいるのかもしれないが——。

「一応、今日は初夜なわけだが」

「え……あ、ハイ」

 彼女の声がぎこちなくなり、表情も硬くなった。

 言ったことの意味がわからないほど子供ではないようだ。ただ、急な結婚だったため心の準備ができていないのだろう。もし何の経験もないのであればなおさら無理もない。千尋はふっと笑みを浮かべる。

「別に無理強いするつもりはないから」

「無理じゃありません!」

 彼女はそう食いぎみに言い返したあと、じわじわと顔を赤くした。

 これは、彼女も望んでいると受け取っていいのだろうか。いまここで名実ともに夫婦となることを。本当に無理をしていないのであれば、あるいは無理をしてでも望むのであれば、遠慮する理由はない。

 千尋は唾を飲み、そろりと手を伸ばして紅潮した頬に触れてみる。それでも逃げる素振りはない。潤みがちな瞳に誘われるように顔を近づけていく。鼓動が早くなり、息がふれあい、そして——。

 ほんのわずかに残っていた躊躇いは、その瞬間に霧散した。


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