デートをしましょう
第三話です。ようやく物語が少しずつ展開していきます。今回の話は大分甘いです。ニヤニヤしながら読みましょう。
三・デートをしましょう
「おはようございます、真。良い天気ですね」
「……どういうこと?」
朝、いつも通り起きたら、カーテンが開けられる音がして、あれ、母さんが起こしにきたのかな、もう起きてるけどな、と思って目をこすると、ぼやけた視界が捉えたのは、浅葱の着物に包まれた美琴だった。
「なんで、美琴がいるの?」
そう質問すると、彼女は少し首をかしげてこう言った。
「婚約者ですから」
そうか、世の中の別居中の婚約者同士は、朝になったら、一方がもう一方の家にやってくるのか。婚約って大変だな。僕は別に、婚約したつもりはないけれど。
「え、あ、そうなの? まあいいけどさ、とりあえず着替えるから出てってよ」
「いえいえ、お構いなく」
「……いや、気にするから」
僕がそう言うと、美琴は顔をぷくっと膨らませ、いかにも渋々といった様子で出て行った。どうして向こうが妥協したみたいになっているのだろう。
着替えを済ませ二階に下りてみると、なんということだ、美琴が食卓について朝食を食べているではないか。ついでに言うと、さっきは寝ぼけて聞き流したが、なんで家にいるの?
驚いて、美琴をまじまじと見ていたら、何を勘違いしたのか、
「大丈夫ですよ。ちゃんと美味しいですから」
と言ってきた。いや、なんで普通に食べてんの? というか、それ僕の分じゃないの?
普段僕が座っている席に美琴が座り、僕が普段食べているメニュー、紅茶とシュガートーストを食している。どうすればいいのか分からず、その場で呆然と立ち尽くしていると、母さんが近づいてきた。
「一体全体何がどうなってんの?」
僕がそう聞くと、母さんはこう答えた。
「あんたが騙したにしろ、そうでないにしろ、一度婚約を認めたんだから、最後まで責任とりなさい。それが筋ってもんでしょう? あんたの、その不道徳な態度は忘れてやるから、しっかりやりなさい。分かった?」
いや、全然分からん。何を言っているのか、さっぱりだ。まさか本人の了解よりも早く親の了解がとれた、とでも言うのか。
「ところで、僕のご飯は?」
「知らないわよ、そんなの。自分でなんとかしなさい」
……母さんの行動は筋が通っているのか、僕は疑問だ。
仕方がないので、今日の朝食は諦めることにした。コンビニで買っても良かったが、正直面倒くさいので、やめた。
とすると、これ以上家にいても仕方がないので、とりあえず顔を洗い、歯を磨き、カバンを持って出かけようとした。
「出かけようとした」ということは、すんなり出かけることはできず、出かける時になんらかの障害があった訳だ。それが、あの昨日の黒塗りの大きな車だった。玄関を出たら目の前にこの車があって、そうか、美琴はこれに乗って家に来たのか、やっぱり金持ちなんだな、と一人でどうでもいいことに納得していたが、そんなことより家の前にこんなにも堂々と停めるなんて、これは駐車違反ではないか、と気づく。
「どうかしましたか?」
後ろから声がしたので、振り返って見たら、やっぱり美琴だった。
「学校に行こうと思ったら、この車が目の前にあって、軽く面食らった」
「それはすみませんでした。少し待っていて下さいね」
そう言って、その車の運転席の窓をコンコンと叩くと、窓が開いて、少し話をした後にその車は淡島通りに出ると、そのままどこかへ消えていった。一体なんだったのだろう。
「真、それでは学校へ行きましょう!」
「ああ、うん……はっ?」
「何か?」
「え、待って、美琴も行くつもりなの? え、ウチ男子校なんだけど? そもそも入れんの? え、まさか転入?」
僕が早口でそうまくし立てると、美琴はさも当然のように言った。
「婚約者ですから」
それで全てを片付けるつもりなの?
「さあ、行きましょう!」
美琴は僕の手をグッと握って、そのまま走り出した。恥ずかしながら、女子と手をつなぐという経験がほとんどない僕は、これだけで赤面してしまう。だが、自分から握っておいて、途中になって恥ずかしさを思い出したのか、手を放して、頬を赤らめながら早足に切り替えて前へ進む美琴もいかがなものか。多分、こういうことに慣れていないのだろう。僕が言うのもおかしな話だが、手をつなぐくらいで恥ずかしがっていては、結婚なんてできないと思うぞ。
校門に着くと、警備員さんに止められた。当たり前だ。こんな部外者を学校に入れていいはずがない。僕は毎日の仕事にも手を抜かない警備員さんを尊敬――。
「お嬢ちゃん、この学校の関係者かい? ごめんね、部外者なら入れる訳にはいかないのよ」
「私はこの学校の関係者です。この学校の生徒の、婚約者ですから」
「へー、お嬢ちゃん、若いのにもう結婚すんのかい? すごいなー、よし、分かった、それなら入っていいよ、うん、おじちゃんが許可してやる」
おい警備員、仕事をしろ。
誰がどう考えても美琴は部外者だろ。なんだ、婚約者同士はそんなにも四六時中、ずっと一緒にいないといけないものなのか。
警備員さんに渡されたのだろう、名札つきのプレートを首から下げて、美琴がこっちにやってくる。
「これで一緒に行けますね。真が普段どんな授業を受けているのか、楽しみです!」
ああ、面倒くさい。美琴は気にならないのだろうか。男子校にも関わらず、自分たちと同じ高校生くらいの、しかも着物という目立つ服装の、さらに言うと際立つ容姿をもった女の子が校内を歩いていることに対して向けられる、周りの好奇の目が。僕は気になる。羨望の眼差しで見られるのは誇らしい気分になるが、たまに殺気を感じるので、すごく気になる。
その時、僕は、とうとう正論を美琴にぶつけてしまうのだった。
「あのさ、美琴」
「はい?」
「もう、ついて来ないでくれる?」
美琴の瞳が揺れる。
「いくら婚約者だからって、学校にまでついてくるのは変だろ?」
そもそも婚約者でもないけど、という言葉を続けようとした。だけどそれは何故だか、喉の奥でつっかえて、声に出されることはなかった。
「………私が一緒にいると、迷惑ですか?」
美琴がそう言った時、その言い方に僕は困惑して、「はい、そうです」とは言えなかった。さっきまでは溌剌としていたのに、今はパッチリとした目を潤ませ、声が微かに震えている。今にも泣き出しそうな様子ではないか。確かに僕は傷つけるようなことを言ったかもしれないが、そんなにショックを受けるようなことだったのだろうか。それとも、美琴が涙もろいだけだろうか。
僕は美琴の反応に気が咎めて、もう「帰ってくれ」なんて言えなかった。
「いや、あの、迷惑じゃないけど――」
「じゃあ、いいんじゃね? 授業参観みたいなもんだろ?」
僕の言葉を遮って、後ろから突然声がした。誰かと思えば、昨日図書室で会った、有田だった。
「見られて困るものなんてないだろう。それより、おい、お前ら、ぼーっとしてると遅刻するぞ」
そう言って、有田は僕の肩を叩き、美琴のことを押す。
「あの、でも、真が嫌がるなら私は……」
そう言って、口ごもる美琴。僕は、さっき美琴を泣かせそうになった罪悪感からなのか、それとも本当は美琴に来てほしかったのか、なんなのかは分からないが、咄嗟にこんなことを口にしていた。
「別に嫌じゃないさ。ただ変かな、って思っただけで。さあ、行こうか」
少し恥ずかしかったが、僕は美琴の手を引っ張る。前を走る有田がニヤついた顔でこっちを見てきて、いつもなら睨み返すところだが、今日のところは仕方ない、存分にニヤけることを許した。
教室に入ったときの皆の反応は面白かった。
まず、僕が教室に入ると、数人がこちらを向いた。その後すぐに手元のスマホを見始めるが、僕に続いて入ってきた美琴に気づいて、もう一度こちらを向く。そしてすぐにまた手元のスマホを見ようとするが、途中でその動作を止める。そして一瞬固まり、さっきの倍速で顔を上げる。そして僕の方を向いて、直接声には出さないが、「どういうこと?」みたいな顔を向けてくる。端から見ると、結構コミカルな動作だ。
「そういえば、美琴はどこに座るつもりなの?」
「勿論、真の隣に」
「俺の隣はもういるんだけど」
「では、真の膝の上で」
「……冗談だよね?」
「冗談です」
そう言って、ニコリと笑った。さっきまでの泣き出しそうな様子も、もうない。良かった、と胸を下す一方、美琴が泣こうと泣くまいと僕には関係がないはずなのに、どうして僕が胸を下すのだろうと、疑問に思う。
「で、どこに座るの?」
「そうですね、余っている椅子があれば、後ろの方で見ているのですが」
「ほらよ」
美琴の後ろにさりげなく椅子を持ってきたのは有田だった。
「これでいいかい?」
「はい、ありがとうございます」
有田の持ってきた椅子にちょこん、と座る美琴。僕は自分の席に荷物を置き、座ろうとする。しかし有田は何を思ったのか、僕のカバンを持ち上げ、一番後ろの席にドンっと置いた。
「なんだよ」
と、僕が言うと、
「おいおい、しっかりしてくれよ。男しかいないこの教室に、あんな可憐な嫁を一人にしていいのか? 旦那が近くにいないと、何が起きるか分からないぞ?」
と有田が笑いながら返事をした。
いや、なんもないだろ。逆に、どうして授業中に授業以外の何かが起きるんだよ。とういうか、え、なんで僕たちの婚約を知っている?
僕がそう言うと、有田は僕の肩に手を置いてしみじみと言った。
「人生、なにがあるのか分からないものなのさ……」
何があった。
有田の粋な計らい(?)によって、僕は一番後ろの席に移り、美琴は例のごとく僕の方へ寄ってきた。一番後ろの、しかも一人席――隣の席がもともとない――なので、もう実質隣同士みたいなものだ。
「美琴は何か、学校でやりたいこととか、あるの?」
黙っているのが気まずいかな、と思った僕は、特に深い考えもなく美琴にそう聞いてみた。すると美琴は少し寂し気に笑って、こう言った。
「私が真についてきたのは、そういう理由ではないんです。転入する気もないですよ。ただ、真のことをもっと深く知りたいと思っただけで」
それを聞いた僕はたちまち赤面してしまい、有田はヒュー、と口笛を吹き、そしてなぜだか他のクラスメイトもそれに便乗して僕を煽り始めた。本当は、「あれ、美琴は僕のことを知っていたんじゃないの?」という疑問が湧いたが、この空気では質問できないか、と思い、口にはしなかった。
隣の美琴の方を見ると、少し恥ずかしそうにしていた。きっと煽りに慣れていないのだろう。初めて見る女子をここまで煽る僕のクラスメイトは、はたして勇気があるのか、馬鹿なのか、馬鹿なんだな。
「なんか、先生遅いね」
僕は照れ隠しのつもりで美琴にそう言い、美琴も少し俯きがちに「そうですね」と言った。
結局先生が遅かったのは、先生自身が遅刻したからだった。先生は教室に入って美琴を見つけると、出ていくように言い、クラスメイトはブーイングをしたが、当の本人が潔く席を立ったので皆も口を閉じた。そうかと思ったら、美琴が去り際に僕に微笑んで、手を振ると、一斉に歓声があがり、しかも今しがた「出ていけ」と言っていた先生まで参加しているのだから、僕はぎこちなく笑い返すことしかできなかった。
美琴が扉を閉める。さあ、授業が始まるぞ、と思いきや、先生が開口一番に「おい、氷室、あの娘は一体なんだったんだ?」なんて言い出して、僕が答えられずにいると、有田が「真の婚約者です!」と勢いよく言ってしまい、事態はますます面倒くさくなっていくのであった。
クラスの皆からは「オー」と感嘆の声があがり、先生は目を見開いて、「そんな……馬鹿な……俺、まだ独身なのに……」とかなんとか訳の分からないことをぼやいている。いざ授業が始まってみれば、普段は生徒を当てないにも関わらず、やたらと僕に問題を答えさせる。そしてその問題に間違えると、周りから、「おっと、そんなんで奥さんを幸せにできるのか?」という野次が飛んでくるし、「別に嫁でもないんだけど」と言うと、「なんだよ、たらしかよ、クソが」というつぶやきが聞こえてくる。皆、笑いながら煽ってきているようで、ところどころ殺気を感じる。困った僕が、「先生、皆が僕をイジメてきます」と言うと、先生は、「いいか、婚約者がいるお前の場合はな、イジメを受けているのではなくてだな、遠回しに祝福されているのだよ」なんて言い出す始末だ。
うんざりしてきた僕はだんだんと投げ遣りになっていく。
「なんだよ、お前ら、羨ましいならはっきりそう言えよ!」
僕がそう言うと、
「羨ましいんだよ、クソお、俺なんて彼女もいたことがないのによお!」
と誰かが叫ぶので、
「僕だって昨日まではいなかったよ、だからなんだよ!」
と叫び返したら、
「それはないわー。一日で結婚とか、軽すぎでしょ」
と誰かが冷めたように言うので、
「彼女もいたことがないのに、恋愛を語れるの?」
と冷めた口調で言い返す。僕も彼女がいたことはないけれど。
そんなやり取りを、時には先生も交えて、ずっと繰り返していると、一時限目の授業は終わった。授業を全くやらなかったことに気づいた先生は青ざめていたけれど、僕らが知ったことではない。
二時限目はサッカーで、皆でボールを追いかけ回している間に、さっきまでの言い争いはすっかり忘れた。三時限目にもなれば、美琴のことは話題にのぼらなくなっていったが、僕がクラスの皆とよく話す、という状況は続いた。
そうこうしている内に気づいたら、僕は、ずっと少し浮いているように感じていたクラスに、馴染んでいた。適当で、情けなくて、だらしない学校だけど、僕はここを、心地よく感じてしまったのであった。
それから数日後のことである。学校が終わり家に帰ると、予想通り美琴がいた。美琴は僕と学校に行った日以降も、毎日欠かさず、僕の家にやってきていた。家に来て何をやっているかと言えば、家事の手伝いとか、お茶を飲んだりとか、別にわざわざ他人の家に来てまでやるようなことではないと思うのだが、美琴自身は楽しんでいるようだった。
ただ、今日はこれまでとは違い、エプロンを身に着けている。黄色の布地に、お腹のところに、バラの花ようなアップリケがついている。自分でつけたようだ。
僕の視線に気づいた美琴は、少し照れながら言った。
「どうですか? 似合っているでしょうか?」
……ま、まぶしい!
美琴の可愛らしさに、不覚にも照れてしまった僕はぼそっと、
「似、似合っているんじゃないかな……」
とつぶやくのが精一杯だった。そんな拙い反応でも、美琴は素直に喜んでくれて、見る者を癒す微笑みを浮かべてくれる。
「と、ところで何を作っているの?」
話題を変えるために、僕はそう聞いてみた。すると美琴は、
「もうすぐ完成ですから。座って待っていて下さい」
と言う。できてからのお楽しみという訳か。
数分後、美琴が持ってきたのは、チョコレートケーキだった。美琴が一人で作ったという。僕はてっきり母さんも一緒かと思っていたが、どうやら母さんは犬の病院へ向かったらしい、と美琴に聞いた。母さんは、社会人として、もっと警戒心をもつべきだと思う。
僕に切り分けられた分を食べてみる。
口に入れた瞬間に、チョコレートの苦みと甘みがほんのりと広がる。スポンジも均等に熱が通ったのであろう、全体がふわふわとしていて、上品な感じだ。ケーキの上にのっけられ生クリームも、空気がちゃんと混ぜられているからか、形が整えられている。さすがはお嬢様、料理も嗜んでいらっしゃるのか。
などということを想像していた僕は、「完璧」など存在しないことを知る。
口に入れた瞬間に広がるのは、苦みのみ。砂糖を本当に入れたのか、と疑いたくなるくらいだ。スポンジも熱を通しすぎたのであろう、パサパサしていて、食べにくい。しかも、表面が少し焦げているようだ。生クリームも、なんだかベチャっとしている。確かにその細い腕では泡立てるのは難しいだろうが、もう少し頑張ろう、といったところか。
前を見てみれば、美琴も眉間に皺を寄せ、「不味いですね」と言った。
「美琴」
「はい?」
怒られると思ったのだろうか、美琴が少し引き気味に返事をする。
「今度は一緒に作ろうな」
「……はい!」
少し遅れて美琴が頷いた。何故なのだろう、こんなにも下手くそに作られたケーキは食べたことなかったのに、僕は気づけば完食していた。
ケーキを食べ終え、食器を片付けたところで、僕は美琴に聞いた。
「ところで、なんで急にケーキなんて作ってたの?」
美琴は、何かを思い出したかのように、手を口に当てて言った。
「実はですね……。今日は真にお願いがあって、お家にお邪魔していたのです」
いつもお願いがなくても、お家にお邪魔しているよね?
「ところが、早く着きすぎてしまったので、真を待っている間に、お義母様にお願いして、おやつ作りをしていました。真は昔からチョコレートケーキが好きなのでしょう? もっとも、失敗してしまいましたが」
美琴がチロリと舌を出す。つまり、僕を喜ばせようとした訳か。
「ああ……それでお願いって?」
すると、美琴は自分の着物の袖口から二枚の紙切れを出した。袖口にそんなものを忍ばせながら、おやつ作りをしていたのか。
「これに、真と一緒に行きたいと思いまして」
美琴が僕に差し出してきたのは、遊園地のチケットのようだ。千葉県にあるのに「東京」という名前がついた、あの有名なテーマパークだ。
それが指し示すこと、すなわち「デート」だ。
これを差し出された時、僕は素直に「うん、いいよ、行こう」とは言えなかった。確かに、僕の正直な気持ちを言えば、美琴が僕を誘ってくれたことが、すごく嬉しかった。今まで女の子とデートなんてしたことがない僕は、なんだか、初めて誰かに必要にされているような実感がして、顔が綻ぶのを避けられなかった。
それに美琴と初めて会った時の警戒心も薄れ、ほとんど消えた、と言ってもいい。そもそも僕みたいな冴えない男子高生にとっては、美琴みたいな、可愛くて、素直で、純情な子と一緒にいられるだけでも幸せだ。それが「デート」までできるのであれば、これ以上の望みはないと言っていいだろう。
では何故、僕は美琴と「デート」をすることに躊躇いを覚えたのか。
それは、一言でいうと、僕が臆病者だったからだ。簡単にいうと、「美琴とこれ以上に深い関係になってしまっていいのだろうか」という心配を僕が抱いていたからだ。つまり、これを受け入れてしまえば、もう戻れない、ということが怖かったのだ。
現段階でも、美琴は僕の家を出入りしているし、それこそ、僕が朝一番に見た顔は美琴だった訳だが、それらは全て不可抗力で起こったことだ。言い換えれば、それらは美琴や他の人の行動によってもたらされた結果であって、そこに僕の意志は反映されていない、というわけだ。ところが、今回は違う。もし僕が今回の「デート」に美琴と一緒に行く、ということを決めたら、それは、僕が自分自身の意志で美琴を受け入れることを決めた、ということになる。そうなったら僕は恐らく正式に美琴との結婚を認めることになるのだろうし、いずれ結婚することになるのだろう。
僕にはまだ、その覚悟を決めるだけの、勇気も責任感もなかった。
前を向くと、美琴が真っすぐ僕を見つめている。初めて会った時と同じだ。僕のことを、その目に焼き付けるかの如く、凝視している。
美琴はもう覚悟を決めた、ということか。
僕は一度目をつぶり、大きく息を吸うと、美琴が差し出したそのチケットを手にとった。
「……いいのですか、本当に」
美琴がこちらの様子を窺うようにして、僕に尋ねる。多分、美琴にも分かっているのだろう、僕が「デート」を認めることの意味が。
僕はできるだけ自然な感じで笑い、こう言った。
「まあ、気分転換も大事だもんね。美琴が行きたいなら、いいよ、行こう」
それを聞いた美琴は、ほっと息を吐き、「良かったです」と、少し涙ぐみながら笑った。そこまで気負うほどのことか、と思ってしまうが、そうか、美琴にとっては自分が受け入れられるかどうかが懸かっていたのだな、と思うと少し納得する。そしてそれは、どれだけ美琴が僕のことを思ってくれているのか、ということの裏返しである。まあ、美琴が涙もろいことに変わりはないが。
二人で顔を見合わせて笑う。
だがこの時点では、僕はまだ、美琴に対する気持ちに決着をつけた、というわけではなかった。確かにたった今、美琴を受け入れる決意をしたし、それは美琴のことが好きだからではないのか、とも取れる。それに実際に僕は美琴に対して、これまで接してきたどの異性に対しても抱いたことがない感情を抱き始めていた。しかし、この時僕が美琴を受け入れることを決めた理由は、「美琴をできるだけ悲しませたくない」という、他人への気遣いから来るもので、結局、僕が自分自身の気持ちに向き合ったものではなかった。
そう、僕はまだ理解していなかったのだ。人を好きになり、人に恋い焦がれる、たったそれだけのことが一体どれだけの重みを持つのか、ということを。また、僕にとっては些細なことであっても、相手にとってはかけがえのないことである場合もあること、そして、それに気づけないことがどんなに悲しいことであるのかを。
そして、全てを知った後に、どれほど後悔することになるのかを。