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彼女と未来の「僕」  作者: 鳴巻 進
2/4

よろしくお願いします

第二話です。この話はほとんどコメディーのつもりで書きました。笑っていただけると嬉しいですね。

 二・よろしくお願いします



「……え」

 何を言われたのか分からず、一瞬頭が真っ白になった。

「え、なんて?」

「ですから、今日からあなたの婚約者になります。よろし」

 いやいや、おかしいだろ。

 今、なんと言った。「今日からあなたの婚約者になります」と言ったのか。それとも「今日からあなたのこんにゃく食べます」と言ったのを僕が聞き間違えたのだろうか。「婚約宣言」なのか、「こんにゃく宣言」なのか、どちらにしろ僕にとっては意味不明だし、理解不能だ。

 というか、今のは僕に言ったのだろうか。明らかに僕の方を向いて言っていたし、完全に目が合っていたが、もしかしたら僕の背後には長身のイケメンがいて、その人に向けて発した言葉かもしれない。そう思って、後ろを振り返るが、勿論誰もいるはずもなく、そもそも彼女は「初めまして」とも言っていた訳で、そうすると彼女は初対面の相手に対して、いきなり婚約を申し込んだとでもいうのだろうか。

 いや、正確に言えば、申し込んでもいないな。彼女は「婚約者になります」と宣言している訳なのだから。するともし仮に、本当に仮に、彼女が僕に対してこの宣言をしていたとすると、僕がどういう反応をしたとしても、彼女には関係がないというのだろうか。

 彼女の方を見ると、じっと僕の方を見つめている。目が合うと、ふわりと微笑んだ。

 いや、微笑むんじゃない。

 そこは、「あら、いけない、私ったら、言う人と場所とセリフを間違えてしまったわ!」だろ? 何かの間違いなんだろう?

 ……一回落ち着こう。僕はどう反応すべきなのだろうか。とりあえず、今の反応からして、彼女がさっきのセリフを僕に言ったのは間違いないようだが、億が一、「こんにゃく宣言」の可能性がまだ残っている。無難な手段を選ぶならば、何も言わずに、彼女のことを無視して帰るのが一番だろう。知らない人に突然話しかけられて、しかもその人が婚約だなんていうのだから、逃げるのが当然だ。

 だが、この時の僕はなにを思ったのか、とりあえず返事をしようと思ってしまった。

「へ、へえ、そっかー」

「わあ、婚約を認めて下さるのですね! 嬉しいです! では早速……」

 しまった、やってしまった。

 僕が考え出した、最も無難であるはずの返事、「そっかー」は見事に打ち砕かれたようだ。よくよく考えてみれば、「婚約者になります」という言葉に対して「そっかー」と返すことは、婚約を認めているようなものではないか。僕はなにをやっているんだ。

 どうしようか。今から、誤解であることを説明しようか。だが、目の前で無邪気に喜んでいる彼女を前にすると、訂正することが憚れる。

 とは言っても、訂正しない訳にはいかない。このままだと、見ず知らずの人と結婚し、将来、誰かに「出会いはなんだったのですか」と尋ねられたときに「道で会いました」なんて答える羽目になる。たとえ相手がどんなに美人であったとしても、そしてその人が、いかにもお金持ちであるという雰囲気であったとしても、抵抗を感じる。そしていくら、僕が男子校で、女子との出会いが少なくて、若干心寂しい思いをしていて、今この状況にささやかな高揚を覚えていたとしても、そんな事を認めることはできない。

 ここまでの状況をまとめると、どうやら、彼女が僕に婚約を申し込んだことは、彼女の言動をどう捻じ曲げて解釈しようとも事実らしい。そして、僕は彼女の申し込みを受けるつもりはない。しかし、僕の致命的なミスにより、彼女は、僕が彼女のことを受け入れたと勘違いをしてしまった。この時点で、僕がこの後にどんな行動をしようとも、僕が自分の意志を通す限り、彼女をがっかりさせてしまうのは避けられないだろう。つまり、僕がとるべき行動は、彼女をできるだけ傷つけないようにし、尚且つ、事態を解決するものでなくてはならない。

 なんだ、簡単じゃないか。

 僕は彼女から目をそらし、無言のまま、校門へと一歩を踏み出した。

 そう、僕が選んだ行動とは「無視して帰る」だ。僕が彼女を無視することで、彼女は多少傷つくかもしれない。しかし、それ以上に腹を立てるはずだ。そうすればきっと、こんな失礼な旦那のことなんか忘れてくれるだろう。それに、下手に誤解を説明しようとすると、言い争いに発展しかねない。もちろん、そうなったときに悪いのは僕なのだろうが、面倒だし、こっちの作戦の方が手っ取り早い。

 僕はこの妙案を実践しながら、我ながらなかなかの逃げっぷりである、と思ったが、すぐに気にしないことにした。

 そう、人間は、ときには逃避が必要になることもある。別にそれ自体は、大昔から政治家も、国も、先生も、どんな偉人だってやってきたことだ。一時の罪悪感に耐えることができれば、困ることがないし、色々な場面で役に立つ。

 校門を出て、木漏れ日が当たる道に出る。どうやら、無事に作戦成功のよう……。

「まあ、気持ちの良い道路ですね。いつもこの道を通るのですか?」

 なんでついてきてんだよ。

 どうして、この娘は、当たり前のように僕の隣をあるいているんだ? いや、そんな可愛い顔でこっちを見たってなにも出やしないぞ?

 思ったよりしつこかった。

 普通、ガン無視された人についていくものだろうか。しかし、困った事態だ。このまま無視を続けても、この娘は引き下がらないだろう。というよりもこの娘、まさか無視されていると自覚していないのか。

 そうだとしても、僕には無視を続けることしかできない。隣でなにやら話しかけてきているようだが、とりあえず無視しておこう。それに、そうだ、この娘が単なる気まぐれを起こしてついてきているだけ、という可能性も残っているではないか。

 そう思い、足を進めていた僕だが、帰り道の途中である重大なことに気づいた。

 このままでは、家についてしまう。

 忘れていた。よもや、自分の家が学校に近いことがこんな形で裏目に出ようとは。これはマズイ。婚約者気取りのこの娘を自分の家に連れていくことはマズイ。

 僕は緊急脳内作戦会議を始める。

「この娘の様子を見る限り、引き下がることはないようだし、このまま行けば家に着くことは確実だ。そうなることを最悪の事態とするならば、多少面倒であっても、ここで誤解であることを説明し、帰ってもらうことが、最善ではないか。」

 脳内の真面目な僕が言う。それに対し、

「まだ悪戯という可能性が残っているだろう? もし単なる悪戯だとして、彼女に誤解を説明しようと必死になれば、それこそ笑いものだ。ここは、家に着く前に彼女が諦めて帰ってくれることに賭けたほうが良いのではないか。」

 と、脳内の臆病な僕が言う。そうすると、

「いや、彼女のことを考えれば、この場で誤解を解いた方が良いと思うよ。だって家まで連れて行ったら、完全に受け入れられたって、信じちゃうよ。」

 と、思いやりのある僕が言う。この発言に対し、臆病な僕が反論し、それを受けて、真面目な僕が反撃をする。いよいよ収拾がつかなくなってきた時、まさに鶴に一声がかけられた。

「もう成り行きでよくね?」

 脳内の投げやりな僕がそう言い、脳内会議はこの結論で合意に至った。

 そう決意したとき、家の前に着いた。


 さて、彼女はどう出るのか。

 僕は家の鍵を開け、中へ入ろうとする。が。

「ここが真の家ですね。お邪魔します」

 勝手に入るんじゃない。

 いや、確かに予感はあった。だが、他人の家に、その家の住人よりも先に、勝手に上がることがあろうか。少なくとも、僕の常識によれば、それは非常識だ。

 玄関へ入ると、この娘の下駄以外の靴がない。どうやら今この家には、誰もいないようだ。両親とも不在のようで助かった。

 ん、待てよ。この娘、確か今「真の家」と言はなかったか。なぜ僕の名前を知っている?

 彼女と会ってから、ずっと困惑や呆れは感じさせられていたが、僕は今、初めて恐怖を感じた。さっきまで「彼女ができるだけ傷つかないように……」などと考えていたことが、嘘のようだ。そんな、相手を気遣う気持ちなど、微塵の如く吹き飛んでしまった。

 この女は一体何者なのだろうか。初対面の人に対して、いきなり婚約を申し込んだかと思えば、他人の家に勝手に入り、しかも何故か僕の名前まで知っている。

 彼女はいわゆる「こじらせすぎたストーカー」なのだろうか。僕のことをストーカーしていて、(される心当たりなどないが)ついに気持ちを抑えることができず、僕の前に出てきて、婚約の申し込みをしてしまった。そして僕が安易な返事をしたために、婚約成立だと勘違いをしてしまい、僕の家までやってきた。

 こんところだろうか。だとしたら、僕は迷うことなく彼女を家から締め出し、警察に通報すべきだろう。だがまだ確証がない段階で、そこまで大きく行動することはできない。どうしようか。

 ここまで考えたところで、僕は気づいてしまった。

 そうだ、彼女の正体も、突然婚約を申し込んできた理由も、僕の名前を知っている理由も、どんなに憶測を飛び交わせたって、彼女のことをなにも知らない僕に分かり得るはずがないではないか。それならば、彼女本人に直接尋ねるのが早いだろう。若干の恐怖は覚えるが。彼女の対応は情報を得た後だ。

 何を一番初めに聞くか、それともとりあえず家の外に追い出すのが先か、む、待てよ、この状況は端から見れば僕が若い女の子を家に連れ込んだみたいじゃないか、というか、彼女がストーカーであるかないか以前に、もう不法侵入されているのではないか、というように悩み始めると、僕はまたまた、あることに気づいた。

 あれ、あの娘、どこへ行った?

 とうとう帰ったかと思い、歓喜しかけるが、玄関には見慣れない下駄が残っていて、それは明らかにあの娘がまだこの家に残っていることを示している。その意味を少し考えて、ハッとした。

 まさかの「手の込んだ盗人」パターンだったか。

 僕は烈火の如く階段を駆け上がった。僕の家は三階建てで、一階には二部屋しかなく、どちらも玄関のそばにあるため、少し覗くだけで誰もいないことが分かる。いるとしたら、二階か三階だ。

 二階に着くと、いた。その後ろ姿までもが美しいことなど、今はどうでもいい。何をしているかと思えば、タンスの前でかがんでゴソゴソしているではないか。これはもう、確信犯だ。ゴソゴソしている奴はもうアウトだ。

 そう思って、背後から飛びかかろうとした、その時だった。

「これは真の子供の頃の写真ですか? かわいいですね!」

 なんて彼女が突然言うものだから、飛びかかろうとしていた僕は急ブレーキをかけるが、なんせ完全に泥棒だと決めてかかっていた訳で、急ブレーキ程度で止まる勢いではなく、僕は彼女にそのまま突っ込んでしまう。

 ヤバい、どうかそのまま振り返らないでくれ、と僕は願ったが、虚しきかな、彼女は絶妙のタイミングで振り返ってきた。


 目をつぶっていたから正確には何が起きたのか、分からない。ただ目をつぶる寸前には、彼女の整った顔が目の前にあって、咄嗟に目をつぶったが、唇は確実に柔らかい感触を捉えていた。そして今、目を開けると、目の前の彼女が微かに頬を赤らめていて、これもう、僕は取り返しのつかないことをやってしまったのだろう。彼女が戸惑ったように言う。

「えっと、あの、気持ちは勿論嬉しいのですが、いきなりはびっくりするというか、あと、その……」

「ごめんなさい!」

 とりあえず謝ろう。ああ、僕はなんてことをしてしまったのだろう。これで彼女はますます婚約を信じて疑わないのではないか。自分のミスで、どんどん自分を追い詰めているような感覚だ。

 というか、紛らわしいわ!

 他人の家に勝手に上がって、家の住人の前から何も言わずにいなくなって、そして何をしているかと思えば、タンスの前でゴソゴソしているのだから、僕が誤解するのも仕方がないだろう。

 もっと言うと、なんで僕の子供の頃の写真を見て楽しんでいるんだ。新婚か。

 ここまで突っ込んでから、僕は、そうだ、彼女に質問をするつもりだった、と思い出した。彼女を椅子に座らせ、取り調べを開始する。

「えー、いくつか質問してもいいかな」

「はい、どうぞ」

 そういえば、僕はまだ彼女の名前を知らない。向こうは僕の名前を知っていて、僕だけ知らないというのは何とも気分が悪い。という訳で、僕はまず名前を尋ねた。

「あの、あなたの名前は?」

 僕が恐る恐るきくと、彼女はふわっと微笑み、こう言った。

「私、雪村美琴と申します。美しい、楽器の琴と書いて、美琴です。」

「本当に僕と結婚するつもりなの?」

 もしかしたら笑い飛ばして否定してくれるんじゃないか、と思って投げかけた問だったが、美琴は急に真剣な顔になって頷くので、僕は途方に暮れてしまう。

「……なんで、僕?」

「見えてしまったからです。」

 答えになっていないのだが?

「なんで、いきなり結婚?」

「結婚は好きな人とするのです。なので、好きな人がいれば結婚するのです」

 違うと思う。

「僕のどこがいいの? 会ったこともないのに」

「いいえ、あります。あなたはとても優しくて、かっこよくて、私を幸せにしてくれるのです」

 もはや、馬鹿にされているようにしか思えないな。それに、「そうか、会ったことがあるのか、なら安心だな」ともならない。そもそも本当に会ったことがあるのかも分からない。もし、本当に会っていたとしたら、僕が(色々な意味で)こんなにも強烈な印象の娘を忘れるとは思えない。

「何で、僕の名前を知っているの?」

「私はあなたと会っていますから。名前を知っているのは当然です」

……お、おう?

「えーと、どこで会ったっけ?」

 そう僕が問いかけると、てっきりさっきまでみたいに、はっきりとした返事が返ってくるかとおもいきや、美琴は何かを思案するかのような顔になり、黙ってしまった。

 ここまで質問して、とりあえず最初に疑った「こじらせすぎたストーカー」や「手の込んだ盗人」の類ではないようだ、というのがわかった。もしそれらの類ならば、そもそも僕に鍵を開けさせた時点で、僕をなんらかの形で拘束しないと、身動きがとれないため、おとなしく僕の質問に答えるなどしないはずだからだ。

 とは言っても、安心はできない。彼女の答えは支離滅裂だし、彼女がなにを企んでいるかも分からない。警察は呼ばないにしろ、これ以上彼女と関わるのはやめておいたほうがいいだろう。

「うーん、そうか、ちょっと言いにくい感じかな、でもまあね、大体わかったし、今日のところはね、うん、こんな感じかな。じゃあ、そろそろね、時間も時間だし、帰ってもらおうかな、よし、そうしよう」

 そう言って僕は全身で「帰ってくれオーラ」をだし、その効果があったのかどうかは分からないが、彼女も席を立った。

 よし、と思ったその時だった。

 ガチャン。

 鍵が開く音がした。つまり、母さんが帰ってきた。

 その音の意味を理解した途端、僕は、母さんと美琴を会わせてはいけない、会わせてしまえば、面倒な事態は避けられない、ということを本能的に悟った。

 完全に迂闊だった。家に誰もいなかったことに安心して、完全に「身内が美琴と会う」という心配を忘れていた。

 実際に帰ってきてしまった以上、一度美琴をどこかに隠して、隙を見て、追い出すしかない。幸いなことに、母さんならきっと、この後犬の散歩に行くだろうし、チャンスはある。最悪なことは、美琴が勝手に自己紹介を始めたりすることだな、などということを頭の隅で考えながら、僕は美琴を、とりあえず三階の自分の部屋へ連れて行こうとする。が、

「どなたか、お帰りになられたようですね。私、挨拶してきます」

 それは困る。

「いやいや、待って。それは別に今じゃなくても……」

「いえ、せっかくの機会ですので。大丈夫ですよ、礼儀はわきまえていますから」

 そういう問題じゃない。

「でも、ほら、あれだ、あんまり急だと母さんがびっくりするだろう? だから今日はとりあえず――」

「あら、それなら、姑の前で逃げ出す嫁の方がびっくりですわ」

 ……おっしゃる通りです。

「あー、えーと、じゃあ、あの……」

「ただいまー」

 マズイ。僕がグズグズしている間に母さんが階段を上ってきてしまう。こうなったら、適当に友達だ、とでも紹介して、この場を乗り切るか。

「ねえ、玄関に下駄があるんだけど? 友達でも呼んだの?」

「えっ、ああ、うん、そうそう、友達がね、急にね」

 ラッキーだ。僕が何かを言う前に勝手に誤解してくれたようだ。これならわざわざ美琴を三階に隠さなくとも、堂々と追い出せ――。

「初めまして。私、今日から真さんの婚約者になります、美琴と申します。よろしくお願いいたします」

 最悪だ。


 そこからの母さんの対応は、なんというか、色々な意味で「大人」だった。

 一瞬ぽかん、とした後、すぐに「社交用の笑顔」を取り繕い、挨拶を返した。「可愛らしいお嬢さんですね」とか、「明るい挨拶ができて感心ですわ」とか、無難な会話を顔に笑顔を張り付けたままこなし、美琴を追い出す自然な流れを作り出している。僕が苦労していたことを、あっさりとやってのける母さんは偉大なのか、心が廃れているのか。

 そして美琴が階段を下りる瞬間、その笑顔を即座にはがし、能面のような顔になったかと思うと、僕のことを氷のように冷たい視線で射抜いた。射抜かれてしまった僕は、それはもう、メデューサに睨まれた兵士のようにその場で固まってしまい、動けなくなってしまった。

「それでは、ごきげんよう」

「はーい、失礼しまーす」

 二人の会話が階下で聞こえる。鍵が閉められる音がした。ゆっくりと母さんが階段を上ってくる音が僕の恐怖心を煽る。


 その後、僕はこっぴどく叱られた。割と長い間叱られていたが、大体はこんな感じだ。

「あんた、何考えてんの」

「何って、何がでしょう?」

「まず彼女なんていたの」

「いや、いないけど? それが何か?」

「じゃあ、さっきの、美琴って娘はなんなの?」

「えーと、道で会って、それで――」

「はあ? 道でナンパして、それで結婚なんてほざいてんの?」

「いや、僕は別に結婚しようなんて――」

「じゃあ、何、あんた、その気もないくせに相手の女騙したの? ほんと、何のつもり?」

「だから僕は騙したんじゃなくて、むしろ――」

「じゃあ、本気なの?」

「はは、まさか」

「それが騙したっていうの!」

 そう言って母さんの怒りのボルテージはマックスに達した。一体どうしてこの人は人の話を聞かないのだろう、何回僕の話を遮るつもりなのだろう、そしてどれだけ僕に「――」を使わせるのだろう、と考えていたら、

「ああ、もう、ラッキーちゃんの散歩の時間になっちゃったじゃないの、全くあんたもつくづく馬鹿なんだから、勘弁してよ、ほんと……」

 とかなんとか言いながら、一階に下りて行った。「ラッキーちゃん」というのは、家で飼っている犬の愛称だ。犬種はよくわからないが、茶色と白の混じった、中型犬だ。息子に、結婚という、人生における最大の分岐点についての説教をするよりも、毎日の犬の散歩を優先するとは。説教をするならするで、ちゃんと最後までやってほしいものだ。


 こうして、僕が美琴と初めて会った日は終わった。なんだか、あまりにも現実離れし過ぎていて、これは、あれか、刺激がなさすぎる日常生活に退屈した僕がこじらせすぎて、妄想をしているだけなのではないか、というようなことを考えてしまう。翌朝になれば、全てがいつも通りに、何事もなかったかのように、毎日の日常が繰り返されるのではないか、そんな期待と、そして何故かそれを少し残念に思う気持ちと、その二つを織り交ぜながら、僕は床に就いた。


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