第五話 人影
「なんだよ……これ……」
嘆くかのような、絶望したかのような、強張った機長の声が聞こえた。
だがそれが機長の声なのか、自分の声なのか、それすら解らなかった。
仮に自分が口を開いたとしても、きっとそれと同じ言葉しか出て来ないと思ったからだ。
いや、この光景を見れば、人間なら誰もがそうなるのかもしれない。
人が宙に浮いている。
明らかに異常だ。
この光景を見て驚かないのなら、それこそも異常と言える。
気力を手繰り寄せ、なんとか口を開く。
「機……長、タワーに、近すぎます……」
「…………」
タワーに接近しつつあった機体がピタリと空中停止する。
機長からの返答は無かったが、聞こえてはいたようだ。
もはや肉眼でも確認できる距離に見えるその影は、何度見ても、確かに脚も胴も腕も頭もある「人」であり、なおかつ虚空に浮かんでいる。
ワイヤーアクション、立体映像、風船、錯覚、幻覚……。
様々な憶測が頭の中を駆け巡るが。
ワイヤーを取り付ける場所など無い。
立体映像は熱源にはなり得無い。
風にそよがない風船など無い。
電子機器に写る以上、見間違いなどでは無い。
それらの憶測は次々と消えてゆく。
そして。
「「……!!」」
ふたり揃って息を飲んだ。
その人影がこちらを見据えたからだ。
ある程度高めの身長、赤い線の目立つ暗い服、うすだいだいの肌に黒い髪、性別は男性のようだ。
それだけ聞けば、見た目は一般的な日本人と大差ないが。
『…………』
体と共に陽に向く首を僅かに右へ回し、こちらを横目に見る瞳。
人間のそれとは明らかに異なっていた。
光を全て吸い込んでいるかのように真っ黒だったのだ。
日本人の瞳のように黒褐色や茶褐色などではない。
今まで見たことが無いほど、この距離からでもそれが解るほど、その瞳は極めて「黒」であった。
こいつはただの人間では無い。
そんな考えが浮かんだ瞬間。
「「!?」」
突如、全身を激痛が襲った。
何が起こったのか理解する前に、自分の身体は明らかな異常を表し始めた。
手が無意識の内に固く握られ、その中に手汗が滲む。
腕や脚の筋肉が硬直し動かなくなる。
肺が締め付けられたかのように、呼吸が上手く出来なくなる。
心臓すらその鼓動が乱れ始める。
今まで感じたことがないほどの痛みが脳内を蹂躙する。
あまりの痛みに視界が霞み、耳鳴りが聞こえ始める。
そんな激痛に襲われ数秒後か、数十秒後か。
時の流れすら解らなくなった頃。
「ぅおおおおあぁあぁ!!」
凄まじい怒号が聞こえ、一瞬痛みが和らぐ。
思考が僅かに回復した。
怒号の主は機長だった。
機長も自分と同じ状況だったのだろうか。
機長は激痛を吹き飛ばすかのような雄叫びを出した直後、操縦桿を体ごと右へ叩きつける。
機体が大きく右に傾き、左上へ体が浮くような感覚を覚える。
浮く体を上の風防にあてた左手とシートベルトで押さえつける。
機体は横倒しにまで傾き、凄まじい速度でタワーから離れていき、そして地面へと近づいていく。
急速に近づく地面を右に一瞥すると、空いた右手で非常用ボタンを殴る。
このままでは墜落するかもしれない。
しかしこれで本部や周辺部隊に救難信号が送られるはずだ。
堕ちたとしても、現在地と状況報告くらいにはなる。
「機長!!」
「分かってる!」
もちろん、最期まで足掻くが。
当然機長も同じ考えだったようだ。
機体を立て直すため、操縦幹を先程とは逆の左方向へ倒す。
右へ倒れていた機体が元に戻り、地平線がほぼ水平に見えるようになった。
「むん!」
機長が気合の一言と共にローターの回転数を最大にする。
今度は身体が座席に押さえつけられる。
いわゆるGというやつだ。
通常の重力以上の力で下方向に引っ張られ、さらに下方向から地表が迫る。
目をつむり、ひたすらその恐怖に耐える。
下方向へのGが消えた。
急降下が終わりホバリング状態になったようだ。
閉じていた瞼を開けると、いたって正常な計器類が視界に写った。
高度計は100メートル以下を示している。
恐る恐る下を覗き込むと、ほんの10メートル程下に建物の屋上が見えた。
首の皮一枚繋がったようだ。
「……っはああぁ……」
20、30年足らずのこの人生の中でも最大級の溜め息をつく。
安定を取り戻した偵察ヘリは高度を回復すると、加速しながらタワーから離れていく。
「寿命が縮んだな……。被害は?」
「は、はい。計器類は異常無しです」
「気分は?」
「最悪です」
「同じく。まったく何だってんだあれは……」
自分の腕を軽く動かしてみる。
先程の痛みはどこへやら。
あれほどの激痛があったにも関わらず、怪我をしているような感覚など微塵もない。
「さぁ……? あの黒服の仕業なんですかね?」
後方に離れていくタワーを振り返る。
恐らくあの頂上にまだ浮かんでいるのだろう。
「だろうな」
機長も振り返る。
登りはじめた朝日を背景に、天高くそびえる東京スカイタワー。
だが今日のタワーはより大きく、そしてより美しく目に映った。
『こちら本部。偵察二番機応答せよ。指定エリアで待機と言ったはずだ。繰り返す、……』
不意に無線が繋がった。
本部からのようだ。
機長が応答する。
「こちら偵察二番機。異常事態発生。現在離脱中、至急応援を求める」
『……状況報告』
「つい今しがた、東京スカイタワー最上部に不審者を発見。確認のため接近した際、機長及び電子担当の身体に著しい異常が発生、一時操縦不能に陥った」
『最上部だな? 了解。何故発生直後に報告しなかった?』
驚いて自分も無線を取る。
「こちら電子担当。状況発生時に救難信号を発信したはずですが」
『……は? 間違いないのか?』
目の前の非常用ボタンを見る。
ボタンは確かに押し込まれている。
発信済みだという証拠だ。
まさか、通信妨害までされたという事だろうか?
「間違いありません」
『……了解した。部隊を送る。すぐに帰投しろ。機体とバイタルの状態は?』
「機体状態、二人のバイタル、共に異常ありません。……それと、その不審者についてですが……」
『何だ』
「明らかに異常です」
『具体的に説明しろ』
「帰投したら、撮影した映像をお見せます」
空中浮遊、感覚異常、通信妨害。
どう考えたって生身の人間に出来る芸当ではない。
「そのほうが、信じて頂けるかと」
「……だな」
『……?』
ただの人間ではない。
奴はとんでもない存在かも知れない。
自分の出した結論は、そんな抽象的なものにとどまった。
だが無意識が、本能が、DNAが、告げていた。
――奴は……
――人ならざるもの。
――人に仇なすもの。
――人の力では遠く及ばぬもの。
そんな、血に刻まれた遠い先祖の記憶になど、簡単には気付ける筈もなく。
封じられていた歴史は今、甦ろうとしていた。