第十五話 境界
東京上空
何の変哲もない、寒風の吹き荒ぶ夜空。
唐突にその景色が歪み、空間に真っ直ぐな亀裂が走る。
亀裂は中央部分で左右に押し拡げられ、空間に穴が開く。
そうして出来上がったのは、幅10センチメートル程の小さな“スキマ”。
その向こうに見えたモノは、無数の眼のようなものが散りばめられた謎の空間と。
「…………」
そこから外を眺める、金髪紫眼の女性だった。
* * *
幻想郷。
それは幻想の存在が集う、最後の理想郷だ。
現実世界で忘れ去られ消え失せた妖怪が、ここでは当たり前のように存在している。
私、八雲紫も、昔から幻想郷に住む妖怪のひとりだ。
というより、幻想郷を創ったのはこの私なのだから、昔も何も古参中の古参。
まだ幻想郷が名すら無い山間の集落に過ぎなかった頃から知っている。
私は「境界を操る」能力を持っている。
その名の通り、あらゆる物事の境界を操ることができる力だ。
物事の境界とは、例えば天と地を別ける地平線や、光と闇を区別する境界など、挙げ始めたらきりがないほど様々なものがある。
これらの境界を弄って消したりなどしようものなら、予想もつかない事態が引き起こされるだろう。
まさに破壊の能力と言える。
だが一方で、創造の能力でもある。
新たに境界を作り出すこともできるからだ。
まさに幻想郷は、私のこの能力があったからこそできたモノだ。
幻想郷は、幻想郷の外と中を区別するふたつの境界によって、現実世界から隔離されて存在している。
そのひとつ目は、“幻と実体の境界”だ。
結界の外を実体の世界、中を幻の世界とすることにより、外の世界で幻となった妖怪を幻想郷へと呼び込んでいる。
500年前、人間の勢力拡大により劣勢気味であった妖怪を保護する為に、私が作った。
もうひとつは“博麗大結界”と名付けた結界だ。
常識と非常識を隔てる結界であり、外の世界の常識を持つ者は幻想郷に入れず、幻想郷の常識を持つ者は外の世界に出られない仕組みだ。
こちらは明治時代初期、急速な科学の発達により存在その物を否定され、消滅の危機に陥っていた妖怪を保護する為に作った。
このふたつの境界もとい結界により、幻想郷には古今東西から多種多様の妖怪が集まり、小さいながらも妖怪の天下が出来上がっている。
人間が自然界の覇者となった外の世界とは、まるで正反対である。
“妖怪”と一言にいってもその内訳は実に多様であるが、幻想郷に住んでいるのは何も妖怪ばかりではない。
同じく外の世界で幻の存在となった神や霊、妖獣や妖精、鬼、天狗、吸血鬼などの他、一定数の人間も住んでいる。
人間の多くは、私が幻想郷を創った時にそれに巻き込まれた者たちの末裔だ。
妖怪たちは人間から畏れられなければ存在意義を失い弱体化、あるいは消滅してしまうため、幻想郷の人間がいなくならないように計らう必要があった。
その為、私は幻想郷の人間たちの生活圏である“人間の里”を結界で囲い、低俗な妖怪の襲撃を防いでいる。
基本的に妖怪と人間は敵対関係、もしくは捕食者とエサの関係にある。
もちろん、力の関係上言うまでもなく、人間がエサ側である。
だが、それはあくまでも形式上の話であり、人間の里では妖怪と人間とが居酒屋で酌み交わすなんてことも日常茶飯事だ。
また、幻想郷では妖怪達が生きた人間を喰わないよう定めてあるため、人間の里の外であっても妖怪に喰われる心配は無い。
それでもやはり人間は、自分達の力の及ばない妖怪というものを畏れているため、妖怪の存在意義が失われることもない。
つまり、幻想郷は人間と妖怪が衝突せずに共存できる、素晴らしい理想郷なのだ。
空間の境界を弄り、虚空に穴を開ける。
空間と空間とを繋ぐ扉のようなものだ。
西洋風に例えるならば「ワープホール」、青い狸型ロボットが登場する人間の創作物で例えるならば、「どこでもドア」といったところか。
私のこれは、幻想郷で“スキマ”と呼称されている。
この異空間を介する必要こそあるが、基本的には何処へでも自由に移動することができる。
出来上がった“スキマ”によって繋がった空間は、幻想郷からして外の世界。
人類に支配された現実世界の都市のひとつ、「東京」だ。
コンクリートに覆われた大地、トンネルが張り巡らされた地下世界、天を突く高層建築物の数々。
そして、昼夜を問わずそこを行き交う人間の群れと光の河。
幻想郷が妖怪にとっての“理想郷”ならば、ここは人間にとっての“理想郷”だといえるだろう。
昨日までは、の話だが。
今の東京は、とても“理想郷”とは言えない状況にある。
都市の中心地を覆う、巨大なドーム形の黒い霧。
そこから生み出され、人間を撃ち抜き斬り裂く暗鬼の群れ。
落ちた橋、崩れた家、燃え上がる車。
逃げ惑う人々、走り回る兵達、飛び交う銃弾、光弾、怒号、悲鳴……。
絢爛豪華な東の京たる姿など、もはや見る影もない。
あるのは、非現実的な地獄絵図だけだ。
しかもこの惨事は世界中の何万もの都市で引き起こされているようで、今や地球人類全体が窮地に立たされている状態だ。
ふと視線を上げる。
その黒いドームの頂上に、悠然と浮かぶひとりの男を見つけた。
状況から察するに、この騒動の元凶だろう。
ある程度の長身、独特なデザインの暗い服、美しい黒髪と闇色の瞳。
忘れもしない。
私は、その容姿に見覚えがあった。
だがその妖怪は、200年も前に永遠の別れを誓いあったはずの男だった。
暗鬼の群れを統べる、闇霧の妖怪。
月无き夜の、暗き怪。
名は、无月 綾蔵。
200年前、幻想郷に2つ目の結界「博麗大結界」を張る計画ができた頃。
私は、暗鬼という重要な妖怪達を保護するため、彼らを統べる妖怪である綾蔵を幻想郷に招こうとした。
だが、彼は断固として招きに応じようとしなかった。
彼は私の行為を、自分を含む他の妖怪を支配下に収めるための策略だ、と疑ってきたのである。
それどころか、幻想郷など決して長続きしない、監獄のような狭い世界で貴様らと心中するなどまっぴらだ、私は現世で妖怪の理想郷を創り上げる、などと捲し立ててきた。
私は、我が子のように大切にしてきた幻想郷を全面から否定された気持ちになった。
そして私は逆上し、怒りに任せてこう言い返したのだ。
非現実的だ、お前は現世で一人寂しくのたれ死ぬことになる、と。
彼もまた、言い返してきた。
幻想郷こそが非現実的だ、お前たちは全員そこで死に絶えることになる、と。
互いの描く理想郷を互いに非現実的だと否定し、彼とはそれきり会うことは無かった。
どちらか正しかった方のみが生き残るか、それともどちらともが死ぬか。
その二択しか頭に無かったのだから、互いに会うことなどあり得ないと思っていた。
明治維新の後、幻想郷は150年に渡って平和なまま存在し続けているのだから、私は彼の考えこそが非現実的だったのだと信じて疑わなかった。
だが、それは大きな思い違いだった。
彼は、无月綾蔵は、生きていた。
彼は人間の天下において150年もの間消滅せず、しかもどういうわけか力を蓄え続けていたのだ。
そして今まさにその力を解放し、現世を我が物にしようとしている。
誤算だった。
彼が現世で生き残っている可能性など、微塵も考えていなかった。
おそらく彼も、私や幻想郷がまだ残っている可能性など考えていないだろうから、お互い様だが。
スキマを閉じる。
「……厄介ね」
目のようなものが散りばめられた異空間の中で、独り呟く。
何も彼が生きているという事実が厄介なのではない。
連動して引き起こされる数多の事象が厄介なのだ。
まず、彼の攻撃によって人類全体が疲弊し、人間の力が低下する。
それにより現世の妖怪の力が強まり、生き残っている弱小化した妖怪や消滅したはずの妖怪が復活する。
妖怪の復活により、その妖力にあてられた一部の人間が自らの能力を自覚して解放し、陰陽師のような存在となる。
そして、妖怪や陰陽師の存在が明るみに出ると、多くの人間がそれらの存在を認めるようになる。
すると、現世では非常識とされているはずの幻の存在が信じられ常識となり、幻想郷内との差が無くなる。
よって、幻想郷と現世とを隔てる結界の維持が困難となってしまうのだ。
幻想郷の存続に関わる大問題である。
後半のほとんどは憶測に過ぎないが、どちらにせよ幻想郷にとってメリットは無い。
私が現世に出向いてでも、彼を止めるべきだろうか。
それともやはり、現世への干渉は避けるべきだろうか。
「紫様」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
そこには、美しい金色の九尾を携えた少女がいた。
「何かしら、藍」
声の主は、八雲藍。
最強と謳われる妖獣、九尾の狐だ。
彼女は私の式神、平たく言えば部下のような存在だ。
「直径二里を超える黒い霧が、人間の里を覆い尽くしています」
「何処かで聞いたような話ね。それで?」
「……? 霧の内部からおびただしい数の暗鬼が現れ、里の人間を襲っています。速やかな対応を」
「幽々子と萃香を呼んで来て頂戴。そうしたら生き残っている人間を保護。暗鬼は私たちが殺る。良いかしら」
「畏まりました。では」
藍は簡潔に返事を済ますと、再び異空間の暗闇へと消えた。
「…………厄介、ね」
吐き捨てるように呟く。
平静を装い粛々と指示を下したが、本心は腸が煮えくり返るほどの怒りに燃えている。
この際、黒い霧が結界を越えられた理由とか、綾蔵に幻想郷の存在が知られたのかについては、心底どうでもいい。
重要なのは、幻想郷が実際に損害を被ったということだ。
「本っ当に、厄介」
无月綾蔵。
彼は私の、私たちの、幻想郷の、明確な敵となった。
もはや待つことも躊躇することも無い。
消す。
「あらあら、ご立腹の貴女を見るのは久しぶりだわ」
声のした方を見やる。
声をかけてきたのは、扇子を片手に佇む着物の女性。
冥界を取り仕切る死の亡霊、西行寺幽々子と。
「おかっかない顔してるねえ。ま、無理もないか」
頭に大きな二本の角を生やした小柄な少女。
密度を操る怪力の鬼、伊吹萃香だ。
先ほど藍に呼ばせた、私の旧知の友人2名である。
「……急に呼びだして悪いわね。黒い霧と暗鬼どもを排除したいの。力を貸してくれないかしら」
「ふふ、構わないわ」
「おー、まかせな!」
二人はともに最強クラスの妖怪、そこに幻想郷一と謳われる私も加わるのだから、心強い限りだ。
「もうひとつ。それが済んだら……」
「酒盛りだな!」
「現世に攻めこみ、元凶を排除するわ」
「ぶーぶー」
酒宴好きな萃香が口を挟んだが、見事に予想を外してしまったようだ。
「悪いけど、しばらくの間お願い。手を煩わせることになるけど……」
「気にしないで。さ、行きましょう」
「おー!」
二人は屈託の無い笑顔で了承すると、異空間を抜け幻想郷へと向かう。
「……ありがとう」
持つべきモノはなんとやら。
私は良き友人に恵まれたようだ。
だが无月綾蔵、貴様はどうだ?
独りで何処まで抗える?
独りで何を成せる?
成した後、そこに何を望む?
試してみようか。
私がこの理想郷を護りきるか。
それとも貴様が新たな理想郷を成すか。
どちらの望む世界が“非現実的な理想郷”なのかを。
名前:八雲 紫
初登場:第一話 決別
種族:大妖怪
性別:女
年齢:1200歳以上
身長:高
髪の長さ:腰
髪の色:金
瞳の色:紫
能力:境界を操る程度の能力
現実世界から隔離された幻想の世界、幻想郷を創り上げた大妖怪。
幻想郷が籠蓋による攻撃を受けたため、西行寺幽々子(後述)、伊吹萃香(後述)らと共に対策に動く。
この物語のキーキャラクター。
知能、強さ両面において彼女と並ぶ者はほぼいない。
ゆえに無益な争いはしないが、逆鱗に触れると容赦ない反撃を見舞う。
普段は温厚だが、頻繁に見られる胡散臭い話し方はよく敬遠される。
名前:八雲 藍
初登場:第十五話 境界
種族:妖獣
性別:女
年齢:不明
身長:高
髪の長さ:肩
髪の色:金
瞳の色:黄
能力:式神を操る程度の能力
最強の妖獣と謳われる、九尾の狐。
八雲紫の式神。
名前は紫が付けたもので、本名は不明。
紫の命令を受け、幻想郷の人間を籠蓋の攻撃から助け出そうと奔走する。
温厚で真面目な性格。
化け狐といえば古来から悪名高い妖怪であるが、彼女は既に長寿であるため人間を襲ったりすることは無い。
背部に広がる9本の尾は非常に美しく、もふもふ。
狐耳も生えているはずだが、普段は帽子のようなもので隠している。
名前:西行寺 幽々子
初登場:第十五話 境界
種族:亡霊
性別:女
年齢:1000歳以上
身長:高
髪の長さ:肩
髪の色:桃
瞳の色:赤
能力:死を操る程度の能力
幻想郷内に存在する、冥界(あの世)の主。
死者の魂を管理している。
あらゆる生命を瞬時に死なせる能力を持つ。
旧友の八雲紫から要請を受け、幻想郷を攻撃した籠蓋の破壊へ向かう。
マイペースで、何処か抜けたところがある性格。
反面、端からは何を考えているのかが分かりにくい。
名前:伊吹 萃香
種族:鬼
性別:女
年齢:不明
身長:低
髪の長さ:腰
髪の色:橙
瞳の色:橙
能力:密度を操る程度の能力
幻想郷でも個体数の少ない種族、鬼の1人。
鬼というだけあって、単独で巨山を崩せるほどの怪力を誇る。
彼女も旧友の八雲紫から要請を受け、幻想郷を攻撃した籠蓋の破壊へ向かう。
幼い見た目をしているが、その余裕溢れる言動からは年期と高い実力を窺い知れる。
四六時中酒を飲んでおり、常に酔っぱらっている。
ゆえに、素面の彼女を見たことがある者は非常に少ない。
【幻想郷】
八雲紫が創った、妖怪の存続を図るための世界。
結界によって現実世界(現世)と隔離、同時に科学文明と区別され、幻想や神秘の世界として存在を維持している。
物理的には現実世界と重なって存在している。
綾蔵の起こした明無夜軍によって、幻想郷も被害を受ける。
紫や藍やその友人達が状況打開のため動き出すが……。




