21
トリパエーゼに帰ってくる頃には心身ともに疲れきっていた。それは、七日という移動時間のせいだけではないだろう。だが、やっと家だと思うと、疲れきった心身が少しだけ力を取り戻すように感じる。
家はいい。癒しの空間だ。なんてことを思いながら騎士団基地へと向かう足取りは徐々に軽くなっていく。筈だったのに。
「…………は」
もう少しで騎士団基地につくはずなのに、そのほんの数十メートル手前でロドルフォたちの足は止まった。目の前に広がるのは信じられないような地獄。
「返せェェェェッ! ラヴィーナを、俺の、妹をォ!! 返せ! 返せッつってんだろォがァッ!!」
半狂乱になって手に持った血塗れの包丁を何度も何度も降り下ろす少年がいた。少年はこの町では珍しい、黒い肌をしていて、見ないうちに随分と大きくなっていた。
周りの大人たちは、そんな少年を止めることができない。ただ遠巻きから、恐怖に身を固めながら、人の形をしていた『それ』がだだの肉塊になっていくのを見守る。
紫色の肌。額から突き出た二本の大きな黒い角。包丁が振り下ろされる度にピクリと動く、背中に生えたコウモリのような翼。全てが真っ赤に染まった眼。『それ』はどこからどう見ても人間ではなかった。
「……どういうことだよ、もう、魔物は出てこないって……」
誰かが震える声で呟いた。それは後ろから聞こえたから、きっとロドルフォの後ろにいた騎士が漏らしたものだろう。ロドルフォはあまりの光景に絶句していた。
『それ』が完全に動かなくなると、ジェラルドは真っ赤に染まった包丁から手を離した。カラン。と軽い音がやけに響く。そのままジェラルドは泣き崩れた。真っ赤な水溜まりに、自分が真っ赤になってしまうのも気に止めず崩れ落ちる。
「……何が、起きたか知っていますか」
やっとのことで動くことができたロドルフォは近くにいた老人にそう尋ねた。
「さあ……ワシには、よく……」
ジェラルドの方に眼を奪われたまま老人は答えてくれた。「しかしな」
「ワシには、ラヴィーナちゃんが化け物になったように見えたんじゃ……のう、ワシはボケたのかのう……?」
その老人はどう見てもボケているようには見えなかった。とてもしっかりしている。冗談を言っているようにも見えなかった。こんな冗談をいうなんて、悪趣味にもほどがあるが。
老人が言っていることが本当だと分かってしまったロドルフォは分かりたくなかった事実を知ることになってしまう。
「あ……ああ……俺は、俺たちは……」
膝が折れる。思わず頭をかきむしる。周囲など視界に入らず、まるで世界が自分一人になってしまったような錯覚を覚えながら、真っ暗な世界でひたすらに叫ぶ。
繋がっているもなにも、今でのこれはイケニエ事件という一つの事件だった。わかっていたはずなのに、どうして気づかなかったのだろうか。いつの日だったか、ロドルフォはアドルフォにイケニエ事件についての調査結果を報告していた。イケニエ事件に使われた魔術と思わしきもの一覧のなかに、『人間を魔物に変える魔術』というものがあったはずなのに、どうして気づかなかったのだろうか。もしそれだったら。人間を魔物に変える魔術が完成されていたのなら。イケニエ事件は、あの被害者は。
「俺は、人間を……ッ!」
違う、きっとこれは悪い夢なんだ。自分たちは人間を殺していたんじゃない。魔物を殺していたのだ。そう、自分に言い聞かせる。ロドルフォの後ろにいる騎士たちの顔がみるみる青ざめていくのも知らず、何度も何度も自分に言い聞かせる。
「こんな所に居やがったのか糞野郎!」
今にも崩壊してしまいそうなロドルフォに追い討ちをかけるように罵声を浴びせた人物は、罵声を浴びせると同時にロドルフォを手加減なしにぶん殴った。ぶん殴っただけでは足りなかったのか、顔面を思い切り蹴り飛ばす。ロドルフォが倒れると、マウントポジションをとって胸ぐらをつかんだ。
「ブラ、ンテ」
「テメェ、なんで今まで帰ってこなかったんだよ! この二年、いや、それよりずっと前、テメェはどこで何しやがっていたんだよ!」
息子のように思っていたブランテに、どうして自分はこんなに怒鳴られているのだろう。
思考がパンク寸前だったロドルフォは、他人事のようにそう思っていた。どうしてブランテはこんなに怒っているのだろう。どうしてブランテはこんなに泣いているのだろう。疑問ばかりが浮かんで、思考は働かない。
「テメェが帰ってこないから母さんは、アデリーナは!!」
そんな一気に腑抜けた思考でも、この一言で十分だった。
アデリーナに何かがあった。しかも、とてつもなく悪いことが。それだけわかると、ロドルフォは自分の上に乗っていたブランテをあっさり除けて、騎士団基地のアデリーナがいるはずの部屋に向かって走り出した。頭のなかには、イケニエ事件のことも、自分たちがしてきたことも何もない。
「アデリーナッ!」
「……遅かったね、ロドルフォ」
ロドルフォを部屋で出迎えたのはアデリーナではなくネロだった。ベッドの側の椅子に腰かけて、ゆるりと首をロドルフォに向ける。その顔からは生気が抜けきっていた。
「アデリーナ、は」
「……ロドルフォのことをずっと待ってたよ。その顔、もうブランテにはしっかり怒られたみたいだね。……なら、俺は怒らない」
そう言うネロには怒る気力すら無さそうだった。心なしか目元が腫れぼったい。
「俺ね、伝言を頼まれたんだ。『エミリアと待ってるから、ゆっくりしてて』って。『後を追ってきても追い返すから』って。『ちゃんと、生きて』って……っ」
「は……」
今度こそ、ロドルフォの精神は崩壊した。いや、ある意味で崩壊することはできなかった。いっそのこと狂ってしまえれば楽だったのかもしれないが、アデリーナからの伝言がロドルフォを縛った。
まだしばらく、ちゃんと生きなければならない。
「生きる……ちゃんと、生きる、から」
この日、ロドルフォ・レトゥールという名の『スケールモデルの鬼士』と恐れられた騎士は死んだ。
夜空に浮かぶオリオン座のように、復讐に動かされればまだ良かったのかもしれないが、それすらできず、ただ亡霊のように生き続けるのだった――




