前書きに代えて 【PPG(Fraulein Angriff und Panzer:FAP共用)世界簡易年表:1904~1939】
皆様、こんにちわ~♪
それとも、はじめましてでしょうか?
今まで愛読してくださった皆様には今更かもしれませんが、
【Fraulein Angriff und Panzer(突撃お嬢、激闘ス!!)】
をご覧下さりありがとうございますm(__)m
今回はいつもと少し毛色の違う物をアップさせてもらいます。
それは前々からコソコソ作ってた"年表"です。
実は今は、エピソード"FAP02:第6弾"まで書いた所なんです。
その中でラストに主人公が【"王都"ヘルシンキ】に向かうシーンがあるのですが……
書いた後に舞台であるフィンランドが、
【フィンランド王国】
であると明確に書いてこなかった事に気付いたんです(^^;
PPG正伝の方は、わりと作中で【PPG世界の歴史】をフォローできるんですが、【FAP:突撃お嬢】の方は作風から中々その機会がないし、故に【史実とは似て非なる歴史的背景】が、読者の皆様に伝わり辛いかと考え、良い機会なので【突撃お嬢】に関係ありそうな1904~1939年までの簡易年表をアップすることにしました。
基本的に作品に関係ある事柄や事象を最低限載せてるだけな物ですが、今までそしてこれから愛読してくださる皆様の参考になれば幸いです(__)
1904〜05年
【日露戦争】
旅順陥落せず
奉天、ロシアの逆撃により日本軍壊滅(乃木大将、戦死)。
大日本帝国陸軍、大陸より全面撤退開始
日本海海戦、日本側の勝利(史実通り)
全面撤退した陸軍、樺太全島を制圧。
結果、史実との大きな相違点
・日本、大陸の全ての権益を喪失
・代わりに樺太島全域が日本に併合
・世界の評価は【6:4で"ロシアの判定勝ち"】
・日英同盟締結せず
・日韓併合の可能性、完全消失
・史実の"満州"領域、ロシアの"沿海州"に併合
☆☆☆
1914年〜18年
【第一次世界大戦】
1916年
プロイセン帝国、フランツ・ヨーゼフ一世の死去を契機に参戦決議を進めるアメリカに、秘密交渉を開始。
内容は、
【アメリカ参戦と同時に、プロイセン帝国はアメリカ単独に対する"条件付き降伏"】
の打診。詳細は、
プロイセン提示の降伏案
・プロイセン皇帝の象徴皇帝化(統帥権を持たぬ立憲君主化)
・国家運営実権をアメリカに倣った大統領制と民主議会に移行(民主化)
・特定家系の法的優遇や特権の廃止(法的な意味での貴族制度の廃止)
・本国外の権益/領地の無条件放棄(その裁決権はアメリカに一任)
・海軍保有兵力の厳しい制限/自粛(プロイセンの海軍拡張政策が第一次大戦の一因)
アメリカに対する要求
・プロイセンの本国領土と国内の権益
・戦時賠償の最大限の軽減
・戦後復興の非軍事経済支援
アメリカはほぼ満額回答。
プロイセンの降伏を早々に快諾。
1916年12月24日、この日プロイセンは公式に降伏文章に調印。
タフト政権を挟んだ第三期(第二次ルーズベルト政権第一期)政権を迎えた【セオドア・ルーズベルト】は、「帝国主義に対する民主主義の勝利」と「プロイセンの無血降伏」を【親愛なるアメリカ国民に対する、世界最大のクリスマス・プレゼント】として大々的に発表。
16〜20年の第二次ルーズベルト政権第二期を磐石な物にする。
実は16年は選挙の年であり、既に方針が固まっていた7月4日(独立記念日)にプロイセンの降伏はルーズベルト大統領とヴィルヘルム二世の共同声明で発表されており、ルーズベルト大統領が選挙で圧勝した理由もこれである。(おそらくアメリカが大した議論もなく満額回答したのもこれが理由だろう)
プロイセンの単独降伏や条件に異議反発した英仏露だったが、英仏はアメリカに"戦時貸付"を盾にとられ沈黙、最後まで難色を示した露はロシア革命により1917年に離脱を余儀無くされた。
史実との相違点
・プロイセン王国とドイツ帝国が同じ【プロイセン帝国】という一国でまとまっている。
・1912年のアメリカ大統領選で、タフトでなくルーズベルトが候補に返り咲いた(タフトはこの時、交通事故で意識不明の重体だった)。
この時の選挙に勝利し、【第二次ルーズベルト政権】が誕生した。
・フランツ・ヨーゼフ一世の史実より半年ほど早い崩御
・1918年までポーランドを領有していたのはプロイセンではなく、オーストリア=ハンガリー二重帝国
史実と異なる歴史の流れ
・プロイセンの立憲君主化(象徴皇帝制)+大統領&民主議会化
・戦後(1919年以後)プロイセン、国名を【プロイセン帝国】より【プロイセン皇国】に改める
・プロイセン、アメリカの属国化
・ラインラント&エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)はプロイセン領土
・ポーランドの大西洋の回廊割譲は認められず史実のポーランド回廊は生まれず"ダンツィヒ回廊"として残り、東西プロイセンに分割されなかった。
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1917年2月
ロシア革命、開始
1917年12月6日
【フィンランド、ロシアより独立宣言】
国内でロシア革命軍の支援を受けた赤衛軍が、革命ロシアへの帰属させようとしたがアメリカの後ろ楯を取り付けた【プロイセン暫定政府国防軍】がフィンランド国粋派の白衛軍の支援に入り、赤色勢力を圧倒。
また、フィンランド王として親プロイセン派として有名な【フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル】が即位する。
このカッセル王は史実ではドイツ帝国の敗戦によりフィンランド王国の樹立に失敗している。
この歴史分岐はPPG世界(特に【突撃お嬢】)においては大きな意味を持つ。
☆☆☆
1918年11月11日
第一次世界大戦、終戦
1919年6月28日
プロイセンの地方都市"ポツダム"で開かれていた戦後処理と戦後体制が話し合われていた会議(ポツダム会議)が終わる。
【国際連盟】
が誕生し、長い【ポツダム体制】が始まる。
1919年7月4日
ドイツの地方都市"ヴァイマル(ワイマール)"で、後に【アメリカ以上に民主的】と吟われた【新"皇国"憲法】、いわゆる【ヴァイマル(ワイマール)憲法】の発布と同時に、プロイセンの国名が【プロイセン皇国】に切り替わる。
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20年代
1922年
ソビエト社会主義共和国連邦、樹立
1923年
【普芬安保】締結
フィンランド王国、ソ連の軍事的脅威に備える為にプロイセン皇国との間に【普芬安全保障条約】を締結
冬戦争(第一次冬戦争)へのプロイセン積極派兵フラグ
1928年
【世界恐慌】
プロイセン、アメリカの積極的経済介入の中で欧州で最初に経済回復。
その後、プロイセンは万博とオリンピックを糧にした未曾有の経済成長を遂げ、北欧州の経済牽引役として重みと増してくる。
20年代後半にアメリカで大規模なモータリゼーションが起こる。
また"沿海州"勢力が活発に活動を始めたのが、20年代中期と言われ、実際に故郷を追われた2000万人近いウクライナ・コサックの未開発に近かった沿海州南部(史実の満州地区)への入植が始まったのが25年だと言われている。
また、世界恐慌と同じ1928年には、イタリア王国でムッソリーニを首相とする【ファシスト政権】が生まれている。
【反共産主義十字教系右派政権】というのが欧州の一般認識。
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30年代
1932年
ロサンゼルス・オリンピック。
1933年
ベルリン・オリンピックに備えた大規模公共事業がプロイセンで連発。
目玉の【アウトバーン】が着工。アメリカより大量の重機輸入。(トート機関の躍進)
プロイセンでモータリゼーションが始まる。
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1936年7月
ベルリンオリンピック開幕
1936年9月
スペイン内乱、勃発
1936年
【日本、大激震】
"二・二六事件"
"東條内閣成立"
"国際連盟より脱退"
日本(大日本帝国)の大転換期。
史実とはバックボーンも国際情勢も何もかも違うが、詳細は長くなり過ぎる為に割愛。
1936年11月
【CETO設立】
スペイン内乱の勃発により、単独国家では共産主義に対抗しきれないと考えた十字教ローマ法王(教皇という呼び方も混在している)が、十字教が国教扱いの欧州国家群に【反共産主義欧州超国家十字教徒同盟】を呼びかける。
結果、
【CETO(クルセイデッド・ユーロ・トラスト・オーガニゼーション:欧州十字教条約機構)】
が設立される。
最初の加盟国はプロイセン/フィンランド/ノルウェー/スウェーデン/オーストリア/ベルギー/オランダ/デンマーク/フランス/スペイン/ポルトガル、そしてイタリアの12ヶ国だった。
ただし、加盟国内にも温度差や真剣度の違いがあった。
何気に【あくまで反共産主義の条約であり、軍事同盟/条約ではない】……【十字軍を再結成して"聖戦"を発動する為の物ではない】という建前があり、事実
【対共産主義戦争において中立以上の義務をかさない】
という一文が憲章にある。
36年はまさに激動の1年であろう。
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1937年
日本、第一次大戦の参戦/戦勝で得た旧プロイセン領青島に陸上兵力を集結。
東條総理大臣、日本の大陸への再進出を宣言する。
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1938年9月
CETO【ミュンヘン会議】において、チェコスロバキアのズデーテン地方に住む310万人のゲルマン系住人を長年に渡り不当に弾圧したとして、【ズデーテン地方のプロイセンへの割譲】を決定する。
1938年11月
ポーランドの在普ユダヤ系国民に対するビザ取消(棄民政策)に端を発する、プロイセンのポーランド大使館への襲撃と暴動、いわゆる
【水晶の朝】事件
が起きる。
☆☆☆
1939年
CETO【ウィーン会議】によりチェコとスロバキアが分離、いわゆる【平和な離婚】。
チェコは中立を維持。
スロバキアはCETOに加盟し、プロイセンの保護国に。
共産主義の躍進を警戒したプロイセン/オーストリア/ベルギー三国の間で【チュートン三国同盟(Teutonisch Dreimachtepakt:TD)】が締結される。
CETOが【中立以上の義務がない】のに対し、TDは完全に【双務的軍事同盟】だった。
CETO【ベルリン会議】で、有事の際はCETOはプロイセンとフランスの国境を境に【北部戦闘管区】と【南部戦闘管区】大きく南北二つの戦域に分け、反共防衛行動を遂行する事を決定する。
これは【軍事行動をCETO全体で行うのは非合理/非効率で、現実的ではない】とされた為の処置。
これにより、CETOは陸戦主体の北部と、地中海や半島などの海洋ステージが重要となる南部と二つのドクトリンで戦うことになる。
後の戦争の推移を見ると、確かに合理的ではあった。
☆☆☆
1939年8月15日
【太平洋戦争(第二次世界大戦前半戦)】、勃発(〜41年12月8日)
8月15日午前4時30分に敢行された米軍の"横須賀空襲"から始まる。
発端は、日本の大陸への再進出が、当時国民党を支援していたアメリカの逆鱗に触れたから……とする説が強い。
事実上、日米の単独戦争。
☆☆☆
1939年11月30日
【冬戦争(第一次冬戦争)】、勃発(〜40年3月13日)
45万の地上軍はソビエト赤軍は集結させたが、逆にCETOは北部戦闘管区諸国を中心に、僅か2週間で25万の兵力をフィンランドに集結させる。
特にフィンランドと単独安保条約を締結していたプロイセンは、11万の兵力を中核として送り込んだ。
無論、これには他にも理由があり、一つはまだ実戦を潜り抜けてない新兵器のテストや、急速に拡大した軍に実戦経験を積ませるという側面があった。
優秀な軍人を元帥から佐官や尉官に至るまで"沿海州"に追放(史実では粛清)していた為に大いに苦戦し、最終的に累計100万を超える戦力と試作戦車などあらゆる新兵器まで投入したが、フィンランドの領土を一切奪えずに敗退している。
結局ソ連は、39年12月6日の決議で国連から追放された上に、20万人もの戦死者を出し得るものなく翌年3月に撤退という結果になった。
また、この時の敗残の将官達の多くがサボタージュの罪で粛清されたり、沿海州に"流刑"されたりしている。
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他のトピックとしては、各国義勇兵団が帰国した後も永らく続いていたスペイン内乱が、史実通りフランコ将軍の勝利で幕を閉じている。
39年は36年以上に激動と言えよう。
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総括すると、30年代は世界恐慌からいち早く立ち直った国が大きな経済的繁栄とイニシアチブを握り、それが国家間の対立要素となって多くの火種となり発火した時代なのかもしれない。
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続く40年代も冬戦争の終結(40年3月13日)、アメリカの完全勝利だった太平洋戦争の終戦(41年12月8日)、【サタン・クロース】……ソ連のポーランド侵攻(41年12月24日)から始まる【第二次世界大戦後半戦(欧州十字教戦争)】など激動は続くが、それはまたいつか語られるのかもしれない。
皆様、ご愛読ありがとうございましたm(__)m
今回アップした年表は、現時点で判明している事を纏めた物で、予告なく加筆修正される場合もありますが、ご了承ください(__)