月に尋ねる事など何も無い。
「月が、追いかけてくるんです」
「月?」
先生は、怪訝な表情を作ると、もう一度、尋ねた。
「月って、空の月?」
「ええ、そうです。追いかけてくるんです」
「そーね、確かに追いかけてくるね」
「薄ら笑いが、気持ち悪くて」
「ん、月が薄ら笑いを浮かべてるの?」
「はい。笑いながら、追いかけてきます」
「へー、月に顔は付いてる?」
「顔、ですか?」
「そうそう、笑ってる顔は?見覚え無かった?」
「見覚えはあります。毎晩見てる、月の顔ですから」
「そーね、でも、知ってる人の顔と似てたりしない」
「しません。あれは、紛れもなく、月の顔です」
「あぁ、そう」
先生は手元の紙に、幾らか書き込んだ。
「ま、じゃー、今日はこの程度で」
「はい、また宜しくお願いします」
私は、一つお辞儀をして、部屋を出た。
電車に揺られてガタンゴトンと、右へ、左へ、吊革へ。
人の視線が、自分に少しでも向いてしまう事が怖いので、なるべく、目に留まらぬよう小さくなる。
視線ってのは、刃だ。
ズバズバと突き刺さる。
私は、身体中から血を垂れ流し、無様に右へ左へ。
視られている。
さっきから、そこの少年は私をチラチラと見て笑っているし、あの学生達は私の悪口で盛り上がっている。隣の女子高生は携帯に私の醜態を書き込んでいる。
血が、止まらない。
ふとした拍子に思い出す。
友人のあの、かお。
友人のあの、こえ。
友人のあの、あし。
うで、あせ、ゆび、はな、かみ、つめ、かわ、くち、みみ、その一つ一つ、かけがえのない、私の、友人。
彼女は死んだ。
私は死ななかった。
何故私は、
此処にいるのだろう。
兄に会いに行った。
格子の向こう、兄はいつも通りに、笑っていた。
私は笑えなかった。
兄の眼はまるで、笑っていなかったから。
兄があの狭い格子の中で暮らしているのは、
何故だろう。
辛い、辛い。
この世界、私は生きている。
友人は死んだ。
兄は捕まった。
月は空で嗤う。
私は生きている。
私が生きている。
そう、信じて、前を向く。




