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黴(かび)ねずみたちのねぐら

作者: 広田櫂

私が小学校にあがった時、お母さんがくれたのは小さなミッキーマウスの縫いぐるみ。

目も耳も、赤いパンツのボタンでさえも安いフェルトで毛羽立って、継ぎ目だらけの不細工な縫いぐるみ。

 夏のよく晴れた日曜日には、一緒に日向に出て太陽の下で昼寝をした。夕方、家に連れて帰る頃には暖かいお布団の香りがした。学校に行かない日はいつも一緒に遊んだ。遊んだ、といってもただそこいら中を連れて回っただけ。私は他の子達とは一緒に遊ばない子供だった。

 10歳になった時、お父さんは家を出ていった。いつも夜遅くにしか帰ってこなかったし、私にとっては居ても居なくても変わりのない存在だった。

お母さんが泣いているのを見て、私はミッキーマウスを押し入れの奥にしまった。少し前に入選した、学校の風景を描いた絵画の下敷にして。

 小学校の6年生になった時、好きな子が出来た。いつも一人で図書室にいる割と無口な子だった。割と、というのは他の子と比べて、という意味で、私とその子とでおしゃべりするときは彼の方が良く口を動かしていた。

彼は私にことあるごとに本を勧めてきた。それは大抵、読めない漢字が沢山の難しい本ばかりだったけれど、私は彼に嫌われたくなかったからそれを辞書と一緒に持ち歩いて読んだ。小学校を卒業した後、別々の中学校に行くことを互いに知ってからは、その子を図書室で見かけることはなくなった。

 中学生になって、私とお母さんはあまり口をきかなくなった。私はお母さんのことが好きだったし、お母さんもそうだったと思うけれど、なぜか会話をすることが少なくなった。

 しばらくして、お母さんが家に男の人を連れてきた。人好きのしそうな笑顔を浮かべて私に5色のボールペンセットをくれたその男の人は、次に会った時には私のお父さんになっていた。



「ねぇ、話、聞いてる?」

はっ、として前を見ると、百合子が不満げに眉を寄せて私を見ていた。陽気なサックスが控えめに響く静かな喫茶店の一席に、私と彼女は座っていた。窓際のその席には、鬱陶しいくらいに真っ白な陽光が差し込んでいて、私は思わず強く目をつむった。

「ごめん、聞いてなかった」

 正直に言うには少し気が引けたけど、まだまだ放心状態から立ち直れていない私にうまい言い訳を思いつけるはずもなかった。

「だろうと思った。全く、高校の時から変わんないね、あんたは」

 百合子はアイスティーのグラスに立ったストローを噛みながら、私を恨めしそうに見つめる。

 時折私はこうして時間の旅に出て人と会話していることを忘れては、一人遠くを―それは遠くの空だったり遠い昔の記憶だったりする―眺めてしまっていることがある。

そんな所が『変わってない』のだろう。きっと。

「だからね、私、直行さんとの結婚、本気で悩んでるの。経験者は語る、って言うでしょ?千恵の意見が聞きたかったの。どう?」

 どう、と言われても、私は直行さんの事なんてちっとも知らない。そして百合子は私より何でも器用にこなす子だから、私の意見なんて当てになるはずないのに。

「とりあえずしてみれば? 結婚」

 我ながらなんて投げやりなアドバイスだろう、と思ったけれど、正直に言ってこんなことしか思い付かない。案の定、百合子は苦い表情をしたかと思うと、にぱっと笑ってアイスティーをかき混ぜた。

「それ、いいかも」

 そんな馬鹿な、と思ったけれど口には出さないように我慢した。百合子は椅子の背に掛けていた小さな鞄の中から、一枚の用紙と小さなケースを取り出した。

「ここに、印鑑、っと」

 驚いたことに、それは婚姻届だった。


家に帰ると、もうじき5歳になる娘の千鳥がオモチャの兵隊で遊んでいた。そんなものを買い与えた覚えはないので、誰に貰ったの、と聞くと、少しだけ黙ってパパ、と答えた。

リビングに行くと、秋夫さんがテレビで駅伝を見ていた。タバコの半分が燃えて、白い灰になっていた。

「どうして、千鳥に兵隊のオモチャを買ってあげたの?」

 と私が聞くと

「千鳥が欲しい、って」

 とそっけない答えが返ってきた。

 オモチャの兵隊。私があの継ぎ目だらけの不細工なミッキーマウスで遊んでいるのと、どちらが滑稽に見えるかしら、と考えておかしくなった。

 窓から強い斜陽が入って、テレビに反射していたから私は静かにカーテンを引いた。タバコの煙が見えなくなって、途端に部屋が暗くなった。

「どうしたの?」

 と秋夫さんが聞いたから、

「テレビが見にくいと思って」

 と答えると、

「そっか、ありがとう」

 とお礼を言われた。

 千鳥の隣に座って、オモチャの兵隊を手に取ってみた。ごつごつしたブロックで組あげられた、お世辞にも強そう、なんて言えない格好だった。

「ママも遊ぶの?」

 千鳥が舌足らずの口調で私に尋ねる。

どうしようか、なんて一瞬だけ考えてから、

「ママはちーちゃんが遊ぶのを見てるよ」

 と言った。リビングの方から、ジュッというライターを擦る音が聞こえた。さっきのタバコはもう吸わないんだろうか。もったいない、と私は思った。

先頭のチームがゴールテープを切ると、秋夫さんはリビングのソファに横になった。背丈の半分しかないブランケット―去年の秋ごろに千鳥のために買ったものだ―を抱くようにして、秋夫さんはすぐに眠ってしまった。そこで私は途方に暮れる。千鳥がブロックのおもちゃを床に押し当てる硬質な音と、つけっぱなしにされたテレビの音とがうつろに響くリビングの真ん中で。



高校生になってから、私は少しだけ友達とか、恋愛とかというものに積極的になった。女の子はグループを大事にしたし、クラスの男の子が誰のことを好きなのか、一生懸命に知りたがった。もちろん勉強よりも遊ぶことを優先したし、誰もそれを咎めなかった。その時、百合子は私とは別のグループにいて、互いに特別仲のいい友人、という感じではなかった。私と百合子を結び付けるきっかけになったのは、女の子らしからぬ性格の賜物というか、変に集団意識の強すぎる友人たちの束縛にお互い嫌気が差したからだった。

 お母さんは二人目のお父さんとの子供を妊娠していて、私は純粋に妹か弟、どっちかな、なんて考えていた。

 新しいお父さんが前のお父さんよりも裕福だったので、産まれ育った古ぼけた一軒家から、近くに建った大きなマンションに引っ越すことになった。17歳になったばかりの頃だったと思う。押し入れを整理していたときにあの縫いぐるみを見付けて、意味もなく私は笑った。久しぶりに見た不細工なミッキーマウスは薄汚れていて、少しだけ黴臭かった。

 それから受験を乗り越えて暇を持て余していた私は、何を思ったのか、昔の家を見に行った。めったに乗らないバスに乗って、久しぶりに履いた無地のスニーカーを見つめながら。

1年と少し前まで、私と私のお母さんと、二人のお父さんが暮らした家は跡形もなくなって、さら地になっていた。秋の太陽が照らす、かつて庭だった場所は、砂利で覆われていて、幼い頃の記憶はその下にひっそりと埋められていた。私はまたミッキーマウスを思い出した。学校を描いた絵画の下敷になったミッキーマウスと、冷たい砂利に埋め尽された思い出は、どちらが寂しくて、どちらが黴臭いか考えてまた笑った。



6時になったので秋夫さんを揺すって起こす。

「夕飯はどうする?」

 と尋ねると、

「外で食べよう」

 と秋夫さんが言ったから、後ろで折り紙をしていた千鳥が小さく歓声を上げた。日曜日の夕飯を外で済ませることは少なくない。車の運転があまり好きでない秋夫さんにとってそれはささやかな家族サービスなのかもしれないと、最近は少しずつ考えるようになった。

 

グリーンピースだけが残されたお皿と、それからいくつかの取り皿に空のサラダボウル。何組かの家族の団欒に、やわらかなオレンジの照明。夜のレストランは好きだ。広々とした空間に漂う私たち以外の家族の親密な会話は、その様子をうかがっているだけで面白い。秋夫さんは煙草を吸いながら興味なさそうにメニューをじっと見つめ、千鳥はお子様ランチに付いてきたミニカーを転がしている。そして私は今まさに、遠くへ行こうとしている。私が失った何かが、私をずっと遠くの方から呼んでいる。それは私の意志とは関係のない、けれども強い引力を持った力だ。



何度洗濯をしても、縫いぐるみに染みついた黴のにおいは消えなかった。継ぎ目の一つがほつれて中の綿が少しだけ出てきてしまったけれど、なぜかその方がより私の縫いぐるみらしく見えた。

秋夫さんと出会ったのは大学の3回生のときだった。一つ年上のサークルの先輩で、何より口下手だったところに惹かれた。秋夫さんの就職が決まってすぐに私の妊娠が分かって、息をつく暇もなく質素な結婚式を挙げた。千鳥が生まれて1年が経つまでは、私の家で、私の両親と秋夫さんと千鳥の5人で暮らした。秋夫さんと私の両親は、私たち3人がアパートを借りて出ていくその日まで、どこまでもよそよそしく、どこまでも他人だった。

冬物の衣装ケースの中にそれはあった。防臭剤と防虫剤をありったけ詰めて、二度と着ることのない厚手のオーバーでぐるぐる巻きにしてケースの隅に入れておいた。引越しの時、このまま実家に置いておこうかと思っていたが、涙ぐむお母さんの顔を見て、アパートに持っていくことに決めた。私も秋夫さんも私物は少なかったので、狭いアパートの中でも収納に困ることはなかった。私はその衣装ケースをベッドの下に置いた。置いておきたいの、と頼んだ気もする。ともかく私は新しい家具の間取りや、電化製品の購入には全くの無頓着で、その衣装ケースの存在だけを気にしていた。秋夫さんは特別それを気にかけることもなくさっさと引越しを終えてしまって、私にとっての引っ越しはやけにあっけないものになった。

 


千鳥が本を読んで聞かせて欲しい、と言うのでしばらくそうしてあげた。何回も読み聞かせしてあげた本は、今では目をつむっていてもすらすらと口に出来る様になった。本の途中でいつの間にか眠っていた千鳥は、目元が秋夫さんにそっくりで、鼻から頬にかけては私に似ている。千鳥も私と同じように、あまりよその子とは遊ばないようで、幼稚園の先生にもそういった報告を受けている。

寝室に入って電気をつけると、秋夫さんはもう眠っていた。いつかの昼間に見たテレビで、セックスレスが離婚の原因に、なんてことを言っていたのを思い出して、馬鹿馬鹿しい、と思った。

 軽く髪をすいてから、秋夫さんを起こさないように隣に入った。ゆっくりと寝息を立てる夫は、優しくて約束をきちんと守る人だけど、どこかに情熱を置き忘れてきたみたいな人。私だってよく人から、表情が乏しいお人形みたいな人ね、と言われるから、多分お似合いの夫婦なのだろう。

 しばらく天井を見つめて、目を閉じてみる。私はいつかの夏の日を思い出して、それからいつかの秋の日を、そしてまたあのミッキーマウスを思い出した。

 陽射しを浴びて、芳しい布団の臭いのミッキーマウス。

 絵画の下敷になって黴臭いミッキーマウス。

そして、私達夫婦のベッドの下に、夫に知られない様にしまってあるミッキーマウス。

 どれもこれも、滑稽な程継ぎ目だらけの不細工なミッキーマウス。

 思い出して少しだけ笑って、私は今日も眠りに就く。


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