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私のために決闘なんて、十年早いですわ

掲載日:2026/10/09

「決闘を受けることになったんだ」


 婚約者のエリアスは明日の天気でも告げるように言った。

 私は稽古用の剣を取り落としかけた。


「どなたが?」

「僕が」

「どなたと?」

「ガストン・リエール」


 握り直した剣を今度はきちんと台へ戻した。

 壁に立てかけてあった別の剣を取る。


「レティシア。それは何に使うつもり?」

「お話をしに行きますの」

「その剣、刃はついていないよね」

「ついていなくても、お話はできますわ」


 エリアスは少し考えてから、私の前へ回り込んだ。

 背は私より高い。肩幅もある。けれど剣を持たせれば、五回のうち五回とも私が勝つ。

 エリアスは剣の基礎を学院で身につけたが、卒業してからは月に数度振る程度だと聞いている。

 対してガストンは騎士団副長の息子で、決闘や競技会への出場を趣味にしている男だった。


「日時は三日後の朝。刃のない剣と胴鎧を使って、有効打を先に三本取った方が勝ち。敗者は今日の発言を取り消して詫びる」

「今日の発言とは?」

「あの悪女に脅されて婚約した飼い犬だと、僕のことを言った」


 もう一度、剣を握り直した。


「その程度でしたら、放っておいてよろしいのに」

「放っておく人は、そんな顔で剣を握らないと思う」

「私はよろしいのです」

「僕も、よくなかったんだ」


 穏やかな声だった。

 そのせいで、かえって口を挟み損ねた。


「君を悪く言うから腹が立った。僕が嫌々婚約したと思われたのも腹が立った。それで、少し言い返した」

「何と?」

「君への求婚を断られたことをまだ人のせいにしているのかと」


 私はエリアスを見た。

 エリアスも私を見た。


「それは、少しですの?」

「相手もそうは受け取らなかったらしい」


 稽古場の隅で叔父が声を上げて笑った。

 そこにいることを忘れていた。

 元近衛騎士の叔父は、今でも週に一度、私の相手をしてくれる。家族の中で、私の負けを喜ぶ唯一の人だ。


「よく言った、エリアス。ガストンの父親から私に立ち会ってくれと頼みが来たぞ」

「お引き受けに?」

「もちろん。あちらの立会人も、私が立ち会うことに異存はないそうだ」

「では、取りやめにしてくださればよろしいでしょう」

「本人たちがその気ならな」


 叔父はエリアスを見た。

 私は剣を持ったまま彼の返事を待った。


「やるつもりです」


 迷いのない声に腹が立った。

 来月の婚礼に着る衣装は、もう仮縫いを済ませている。彼が右手を差し出したとき、袖口からのぞく手首が綺麗だと思ったことまで覚えている。

 あの男に傷つけさせるための手ではない。


「私のために決闘なんて、十年早いですわ」

「うん。だから、教えてほしい」

「何を」

「三日で一本でも余分に取る方法を」


 エリアスは私の剣を取り上げなかった。

 自分の分を台から選んだ。


「ガストンを転がすのは、その後にお願いしてもいい?」


 叔父がまた笑った。

 私は誰も笑えないほど、エリアスを打ち負かして差し上げることにした。


 ◇


 一刻の後、笑えなくなったのは私の方だった。


 エリアスは下手ではない。

 足運びも剣の構えも、きちんと習った形をしている。力も私より強い。

 ただ、守るときに下がりすぎた。


「そこまで退いたら、お屋敷に帰ってしまいますわよ」

「帰っていいなら、帰りたいね」

「もう一本」


 剣を合わせる。

 私が踏み込むと、彼は大きく退いた。私も追ってもう一歩踏み込み、彼の胴鎧に剣を当てる。

 金属の響きが稽古場に残った。


「ほら、届きますでしょう」

「君の剣は本当によく届くな」


 彼は息を整え、構え直した。

 文句は言う。それなのに、私がもう一本と言う前に剣を上げる。

 簡単に音を上げるとどこかで思っていたのだ。

 よく考えれば、私に求婚したときもこの人は三度来た。


 一度目は、剣が苦手な方とは話が合わないと断った。

 二度目にはどうせ父に言われたのだろうと聞いた。

 三度目には、毎回父の勧めではないと説明するのは少しつらいと笑われた。

 その笑い方が気に入って、次はいつ来るのかと尋ねたのだった。


「何がそんなに怖いのです?」


 次の打ち合いの後、私は尋ねた。


「剣が飛んでくること」

「剣の稽古ですもの」

「分かっている。でも、体はあまり納得してくれない」


 エリアスは汗を拭った。

 いつもの柔らかな前髪が額に張りついていた。


「当たると思うと、届かないところまで逃げたくなるんだ。君は怖くない?」

「当てられる前に当てますから」

「君に聞いた僕が悪かった」


 隅で叔父が頷いている。

 私は叔父を睨んでから、エリアスの正面に立った。


「では、打ちません。受けるだけになさいませ」

「打たないものを、受けるの?」

「途中で止めます。剣がどこまで来るか、見ていて」


 ゆっくり振った剣の前で、彼の肩が動いた。

 私は剣を止めた。彼の胴まではまだ十分に距離がある。


「ここで下がっていらしたのよ」

「ああ」

「早すぎます。まだ何もされておりません」


 もう一度。

 今度は彼もその場に留まった。

 剣と剣を触れ合わせ、押し返す方向を示す。大きく払おうとしたので、彼の肘を押さえた。


「そこまで開かなくてよろしいの。少しで」

「このくらい?」

「そう。そこから私の剣が戻る前に胴へ」


 私の剣が逸れ、彼の剣先が胴鎧に触れた。

 音は小さかったが、届いていた。


「これだけを覚えましょう。ガストンの打ち込みは私より重いですけれど、動きも大きいので」

「君が言うと、簡単そうに聞こえる」

「簡単になるまでやるのですわ」


 エリアスは天井を見た。

 それから剣を上げた。


 百回目が近づく頃には、彼の息は上がり、私の声も掠れていた。

 少し速くすると退く。退かないように意識すると、今度は早く受けようとして空振りする。

 たった一つのことを教えるのが、こんなに難しいとは知らなかった。


「また早い。剣を見て」

「見ている」

「でしたら、どうして」

「君が痛そうなところへ打つからだよ」

「本番でも打たれますわ」

「そうだけれど」


 彼は口を閉じた。

 その顔に、私は少しだけ怯んだ。

 エリアスにも疲れて機嫌の悪くなることがある。

 当たり前なのに、初めて見た気がした。


「水にしよう」


 叔父が間へ入った。

 私がまだ続けようと言いかけると、叔父は首を振った。


「お前まで熱くなってどうする。一本取るより、明日も剣を持てる方が大事だ」


 エリアスが腰掛ける。

 手袋を外す指がわずかにもたついた。

 私は自分の剣を置き、その手を取った。


「見せて」

「このくらいは平気だよ」

「私は平気ではありません」


 掌に赤くなったところがあった。

 まだ皮は破れていない。明日も同じように握れば破れる。

 私は手袋の内側を確かめ、硬くなった縫い目を指でなぞった。


「替えを用意させます。ここに薄い当て布を。手袋が動くなら、帯も少し詰めて」

「ありがとう」


 さっきまで苛立っていた顔が、もう和らいでいる。

 私はその指を離しそこねた。

 普段、彼に手を取られるのは馬車へ乗るときくらいだった。


「……やはり、私が代わりに」

「君が勝つところは、いつでも見たいよ」


 エリアスが空いた方の手で私の指に触れた。


「でも、今回は僕が腹を立てたんだ。君が僕を好きになったのも、僕が君を好きなのも、あいつが負け惜しみで決めていいことではない」


 好きになった、とさらりと言う。

 私はまだ、彼に一度も言っていないのに。


「ずいぶん自信がおありなのね」

「なかったら、ここへ習いには来ない」


 叔父が水を飲みながら、あからさまに庭の方を向いた。

 私は手を離した。


「明日は朝からですわよ」

「遅れないようにする」

「遅れたら、稽古を倍にいたします」

「来なくても怒るだろうね」


 もちろんだ。

 そんなことも知らない方を、夫にはしない。


 ◇


 翌朝、エリアスは私より先に来ていた。

 手袋を脱がせると、昨日赤くなっていたところに薄い布が当てられている。


「握れます?」

「握れる」

「では、今日は足も使います」


 ゆっくり打つと、その場で受けられた。速めると、まだ足が後ろへ逃げる。

 私は剣を止め、彼の右足の横を靴先で指した。


「下がる代わりに、こちらへ。大きく動かなくてよろしいから」


 彼の手首に手を重ねて、横へ半歩。正面から押し返さなくても、剣先を逸らせる。

 手を離して繰り返すと、今度は自分で踏みとどまった。


「そう。今の一歩です」


 エリアスは足元を確かめ、もう一度と剣を上げた。


 午後の稽古でひと休みしたのは、庭の影が長くなり始めた頃だ。

 勝つたびに手袋の手首を引いて、ぱちんと鳴らしていたら、叔父にうるさいと叱られた。

 昔からの癖なので、仕方がない。


「君は勝つと本当に楽しそうだね」

「負けて楽しそうにできますの?」

「ガストンはできなかったな」


 エリアスは水の杯を膝に置いた。


「学院のとき、何度か同じ組になった。普段は速いし、上手い。でも、自分より下だと思っている相手に一本取られると、その直後が雑になる」

「ええ。大振りになりますわね」

「それを待ちたい」


 私も壁に背を預けた。

 ガストンとの試合を思い出す。人前で負けた後ほど、肩に力が入っていた。

 その力の入った肩を見ると、どこへ振るか分かってしまう。

 私がそれを指摘したこともある。

 彼は聞かなかった。


「一本取るまでは?」

「君が言っていた、少し遅れて受ける返しを使う。あの人は、僕が下がると思って追ってくるはずだから」

「また下がってしまったら?」

「取り返す。三本全部を一度にもらうわけではないだろう」


 穏やかな言い方に反して、ずいぶん欲張りな計算だった。

 一本多く取れればいい、くらいの気持ちで来たのではない。


「本当に勝つおつもりなのね」

「君が教えてくれているからね」


 エリアスは水を飲み、杯の縁に指をかけた。


「ガストンは君が人前で剣を振るうのが嫌だったのかな」

「いいえ。自分に負けないのが嫌だったのです」


 求婚を断る前、あの男は私に言った。

 結婚すれば、夫を立てることも覚えてもらう、と。

 剣に関しては自分が教えるから、とまで。


「それで、その場でもう一本お相手しました。とてもお静かになりましてよ」

「なるほど。それを知っていれば、今日の稽古は君のお父上に頼んだかもしれない」

「今からでも構いませんわ」

「いや。君が勝ったときの顔は、好きだから」


 水を飲もうとしていた手が止まった。


「性格が悪いとよく言われます」

「うん。僕が相手でも、手加減してくれない」

「それなのに?」

「自分が負けたときは、少し悔しいけれどね」


 エリアスは剣を持って立った。


「僕にもあの顔をさせてほしい。ガストンの前で」


 胸の奥が妙に熱くなった。

 私は手袋の手首を引いて、音を鳴らした。


「よろしいですわ。もう十本」

「さっきも、最後の十本と言わなかった?」

「お気のせいです」


 三日目も同じ剣の音を聞いて過ごした。

 新しい技は増やさなかった。受けて、返す。早すぎれば失敗し、怖くなって退けば届かない。

 何度も私に打たれながらも、ときどき彼の剣が私の胴へ触れた。

 あらかじめ動きを決め、速さも落とした稽古でのことだ。

 それでも、一日目にはできなかった。


 夕方には叔父が剣を取り上げた。

 エリアスが惜しそうに見たので、私は叔父の側へ立った。


「明日、お寝坊なさらないで」

「君もね」

「眠れないとでも?」

「僕が眠れそうにないから、君もそうだったらいいと思って」


 ずいぶん勝手なことを言う。

 その晩、私は本当に眠れなかった。


 ◇


 決闘の朝は、腹が立つほどよく晴れていた。


 会場はリエール家の小庭だった。

 芝を刈り込んだ区画の周りに、ガストンが誘った友人たちが立っている。彼がエリアスを笑ったとき、その場にいた方々もいるらしい。

 余計な客を呼ばないように頼んだ叔父の顔が、もう険しい。


 私を見るなり、ガストンが笑った。


「やはり、心配で来たのか」

「ええ。見逃したら、惜しいことになると思いまして」

「お気の毒に」


 どちらが、と言いかけて、エリアスに袖を引かれた。

 彼の剣帯が少し曲がっている。

 私は黙って直した。手袋の留めも確かめる。


「手は?」

「大丈夫」

「大丈夫という答えは、昨日まで許しませんでしたでしょう」

「痛い。でも、握れる」

「結構です」


 目が合う。

 彼の顔はいつもより白かった。


「一つだけ、お願いしてもいい?」

「何でしょう」

「始まったら、そこにいて。心配して前に出てこないでほしい」


 彼は区画から離れた木陰を指した。

 剣を受けるより難しい頼みだった。


「……承知いたしました」

「ありがとう」


 私はその場所へ下がり、足元を見た。

 小さな白い花が一つ咲いていた。これを踏まないように立っていれば、動かずに済む。


 叔父が二人の剣と胴鎧を確かめた。

 相手方の立会人も頷く。

 打つのは胴だけ。一本ごとに離れて、構え直す。外から技の指図はしない。

 ガストンは退屈そうに聞いていた。


 開始の声。

 最初の一往復で、私は指を握り込んだ。


 ガストンの踏み込みは速かった。

 エリアスが下がる。稽古で何度も見た大きすぎる一歩だった。

 間を空けずに追ってきた剣が彼の胴鎧を鳴らした。


「一本。リエール」


 ガストンが笑う。

 周りの客からも低い笑い声がした。


「先生の教え方が悪かったかな」


 私は足元の花を見た。

 まだ、踏んでいない。


 エリアスは何も言わなかった。

 開始位置へ戻るとき、一度だけ私を見る。

 私は頷いた。

 三本全部を一度にもらうわけではない。言ったのは彼の方だ。


 再開してすぐ、ガストンが同じように攻めた。

 エリアスは今度も退きかけた。

 だが、二歩目を踏まなかった。

 追ってきた剣を受け、体の外へわずかに逸らす。ガストンの剣が戻る前に、エリアスの一撃がその胴へ触れた。


 軽い音だった。

 けれど叔父も相手方の立会人も、すぐに手を上げた。


「一本。クローヴェル」


 私は思わず息を吐いた。

 指先が痺れている。

 ガストンの口元から笑いが消えた。


「同じことをさせると思うか」


 次はガストンも慎重だった。

 大きく振りかぶったように見せて、途中で剣を止める。

 エリアスは受けようと動いた。その剣の下をガストンの一撃が抜けた。


「二本目。リエール」


 また、早すぎた。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 エリアスは打たれた側の肘を少し動かした。

 鎧越しでも痛かったはずだ。

 帰らせたいと思った。

 もう十分だとあの場へ出て、私がガストンの剣を叩き落とせばいい。


 足元で白い花が揺れた。

 私は靴先を元の位置へ戻した。


「どうした。後は彼女に頼むか」


 ガストンが私の方へ顎を向けた。


「そうすれば、君は一度も勝てなかったことになるよ」


 エリアスの返事に、ガストンの眉が動いた。


「僕はまだ、立っているんだから」


 剣が上がった。

 エリアスの腕はもう疲れている。構え直すときのわずかな遅れで分かった。

 ガストンも気づいているのだろう。今度はすぐに打たず、左右へ剣先を振って、彼を動かそうとした。


 エリアスはその動きにつられなかった。

 小さな動きには動かず、ガストンの肩を見ている。

 私は息を止めた。

 ガストンが正面から踏み込んできた。


 エリアスの足が半歩だけずれた。

 下がるのではなく、外へ。

 剣同士がぶつかり、鈍い音を立てる。

 エリアスの剣が相手の脇腹の鎧へ当たった。


「二本。クローヴェル」


 二対二。

 隣で誰かが声を上げたが、もう聞いている余裕はなかった。

 あと一本。


 ガストンは口を引き結び、剣を握り直した。

 エリアスも握り直した。

 エリアスだけがほんの一瞬、顔を歪めた。掌の皮がもたなかったのかもしれない。


 最後の開始の声がした。

 今度は、どちらもすぐには出なかった。


「彼女も君が従順だから気に入ったんだろうな」


 ガストンが言った。

 エリアスは動かない。


「結婚すれば分かる。ああいう女は、夫の言うことなど一つも聞かない」

「うん。昨日も、最後に十本と言ったのに、二十本になった」


 客の一人が噴き出した。

 私まで噴き出しそうになり、唇を噛んだ。


「それでも、僕が一本取ると僕より嬉しそうな顔をしたよ」


 エリアスの声が少し変わった。

 相手を見たまま、薄く笑う。


「君はあの顔を自分に向けてほしかったんだろう」


 ガストンの肩が上がった。

 私はその瞬間を見た。

 踏み込むより先に、怒りが体の動きに出る。


「黙れ」


 剣が振られた。

 それまでより深い踏み込みだった。エリアスが下がると思っている。下がらせ、そのまま押し切るつもりだ。


 エリアスはその場に踏みとどまった。

 剣を受けた腕が沈む。押されて、靴が芝を擦る。

 その場で力比べをすれば負ける。

 彼は私に打たれたときと同じように、剣をほんの少し外へ流した。


 ガストンの剣先が彼の脇を通る。

 エリアスの剣が戻った。

 相手の胴鎧の真ん中で、音がした。


 叔父の手が上がった。

 もう一人の立会人も続いた。


「三本。勝者、クローヴェル」


 エリアスはすぐには動かなかった。

 自分の剣とガストンの胴鎧を交互に見た。

 それから、ようやく腕を下ろした。


 その横顔を見て、私は息を吸った。

 胸いっぱいに入れたはずなのに、まだ足りない気がした。


 ガストンが何かを言いかけたが、叔父が先に口を開いた。


「剣を収めなさい。勝敗はついた」


 相手方の立会人も黙ってガストンを見ていた。

 彼は周囲を一度見回し、歯を食いしばった。


「……脅されて婚約したと言ったことは取り消す。侮辱をした」


 エリアスは頷いた。


「レティシアにも」


 ガストンが私を見た。

 私は腕を組んで待った。

 譲ってやるつもりは少しもなかった。


「君についての発言も取り消す。悪かった」

「伺いましたわ」


 許したかどうかは聞かれなかったので、答えなかった。

 エリアスは剣を立会人へ渡すと、こちらを見た。

 空いた左手で右の手袋の手首を引き、ぱちんと鳴らす。


 あまりにも得意そうなお顔だった。

 私が笑うと、彼も笑った。


 ◇


「その手を見せなさい」


 真っ先にそう言うと、エリアスは笑ったまま手を差し出した。

 誰にも会わせず、屋敷の脇の腰掛けへ連れていく。

 鎧を外すのを手伝い、手袋の留めをほどいた。

 当て布に少し血が滲んでいた。


「痛いでしょう」

「うん。勝ったら、急に痛くなった」

「勝つ前から痛かったはずですわ」

「それは考えないようにしていた」


 叔父が水と清潔な布を運ばせてくれた。

 私が礼を言うと、エリアスの肩を軽く叩き、余計なことを言わずに離れていった。

 今日初めて、叔父のことをありがたいと思った。


 濡らした布で手を拭う。

 エリアスの指がわずかに曲がった。


「沁みる?」

「少し」


 私は手を止めた。

 彼は続けていいよと頷く。

 さっきまで人前であれほど強気なことを言っていたのに、私に手を預けた今は少し眠そうにさえ見えた。


「あのようなことをおっしゃる方だとは思いませんでした」

「どのようなこと?」

「私が嬉しそうに笑ったのが羨ましいのでしょう、だなんて」

「あれは効いたね」


 悪びれもせずに言うので、私は思わず顔を上げた。


「分かっていて?」

「うん。あの人、一本取るたびに君の方を見ていたから」


 私はガストンの顔などほとんど見ていなかった。

 エリアスの足と剣を追い、無理をしていないかばかり気にしていた。

 この人はそんなところまで見ていたのか。


「私の顔を見たがるなんて、愚かな方」

「そこは、あまり強く言えないな。僕も見たかったから」


 私は彼の手へ視線を落とした。

 布を巻くのに必要以上の時間がかかった。


「あなたには見せて差し上げたでしょう」

「うん。習いに来てよかった」


 その声があまり満足そうだったので、また文句を言いたくなった。

 けれど、手当てを終えるまでは黙っていた。


「次は受ける前にご相談なさいませ」

「止めるだろうね」

「止めます」

「だと思った」


 エリアスが包んだばかりの右手を少し持ち上げた。


「今度は、この手を取って出ていってくれると助かる。君と帰れるなら、あの男の話を聞く必要もなかった」


 私は彼の左手を取った。


「今日は、こちらになさい」

「そうする」


 立ち上がった彼の膝が少しだけ揺れた。

 私は笑わずに腕を貸した。


 帰りの馬車へ乗り込むと、エリアスは長く息を吐いた。

 向かいの席に座るつもりだったが、私は隣へ腰を下ろした。

 彼がこちらを見た。


「何か?」

「嬉しいだけだよ」

「眠ってしまわれる前に、申し上げておきたいことがございます」


 背筋を伸ばす。

 庭ではとうとう言えなかった。


「よく、お勝ちになりました」


 エリアスは目を細めた。


「君のおかげだ」

「三日間でよく覚えてくださいました。最後までご自分で考えて」

「褒められるのに慣れていないから、少し落ち着かない」

「黙って聞きなさいませ」


 彼は口を閉じた。

 それを見たら、急に先を言いにくくなった。


「……格好よかったです」


 車輪が石を踏み、小さく揺れた。

 その音に紛れなかったことだけは、彼の顔を見て分かった。


「もう一度、言ってもらっていい?」

「一度で十分です」

「覚えておきたいんだ」

「では、よくお覚えなさい」


 握っていた左手を引いて、少しだけ顔を近づけた。

 少しだけ、彼を慌てさせて差し上げたかった。


 けれど先に唇を重ねたのは、彼の方だった。


 ほんの短い口づけの後、私は目を瞬かせた。

 エリアスは先ほど手袋を鳴らしたときと同じ顔をしていた。


「……私の方から、するつもりでしたのに」

「うん。待てなかった」

「ガストンに勝ったくらいで、私まで出し抜けると思わないことね」


 彼が笑った。

 その頬を指でつつくと、今度は素直に目を閉じたので、予定していた分の口づけを返した。


「私に勝とうなんて、十年早いですわ」

「では、次の十年も教えてくれる?」

「十年で足りるとお思いなの?」


 エリアスは私の手を握り直した。


「足りないなら、その先も」


 私は窓の外へ顔を向けた。

 笑ってしまうのをこれ以上見られたくなかった。

 けれど隣にいるのがこの人なら、隠してもあまり意味はないのだろう。


「厳しくいたしますわよ」


 返事の代わりに、繋いだ手をもう一度やわらかく握られた。

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