私のために決闘なんて、十年早いですわ
「決闘を受けることになったんだ」
婚約者のエリアスは明日の天気でも告げるように言った。
私は稽古用の剣を取り落としかけた。
「どなたが?」
「僕が」
「どなたと?」
「ガストン・リエール」
握り直した剣を今度はきちんと台へ戻した。
壁に立てかけてあった別の剣を取る。
「レティシア。それは何に使うつもり?」
「お話をしに行きますの」
「その剣、刃はついていないよね」
「ついていなくても、お話はできますわ」
エリアスは少し考えてから、私の前へ回り込んだ。
背は私より高い。肩幅もある。けれど剣を持たせれば、五回のうち五回とも私が勝つ。
エリアスは剣の基礎を学院で身につけたが、卒業してからは月に数度振る程度だと聞いている。
対してガストンは騎士団副長の息子で、決闘や競技会への出場を趣味にしている男だった。
「日時は三日後の朝。刃のない剣と胴鎧を使って、有効打を先に三本取った方が勝ち。敗者は今日の発言を取り消して詫びる」
「今日の発言とは?」
「あの悪女に脅されて婚約した飼い犬だと、僕のことを言った」
もう一度、剣を握り直した。
「その程度でしたら、放っておいてよろしいのに」
「放っておく人は、そんな顔で剣を握らないと思う」
「私はよろしいのです」
「僕も、よくなかったんだ」
穏やかな声だった。
そのせいで、かえって口を挟み損ねた。
「君を悪く言うから腹が立った。僕が嫌々婚約したと思われたのも腹が立った。それで、少し言い返した」
「何と?」
「君への求婚を断られたことをまだ人のせいにしているのかと」
私はエリアスを見た。
エリアスも私を見た。
「それは、少しですの?」
「相手もそうは受け取らなかったらしい」
稽古場の隅で叔父が声を上げて笑った。
そこにいることを忘れていた。
元近衛騎士の叔父は、今でも週に一度、私の相手をしてくれる。家族の中で、私の負けを喜ぶ唯一の人だ。
「よく言った、エリアス。ガストンの父親から私に立ち会ってくれと頼みが来たぞ」
「お引き受けに?」
「もちろん。あちらの立会人も、私が立ち会うことに異存はないそうだ」
「では、取りやめにしてくださればよろしいでしょう」
「本人たちがその気ならな」
叔父はエリアスを見た。
私は剣を持ったまま彼の返事を待った。
「やるつもりです」
迷いのない声に腹が立った。
来月の婚礼に着る衣装は、もう仮縫いを済ませている。彼が右手を差し出したとき、袖口からのぞく手首が綺麗だと思ったことまで覚えている。
あの男に傷つけさせるための手ではない。
「私のために決闘なんて、十年早いですわ」
「うん。だから、教えてほしい」
「何を」
「三日で一本でも余分に取る方法を」
エリアスは私の剣を取り上げなかった。
自分の分を台から選んだ。
「ガストンを転がすのは、その後にお願いしてもいい?」
叔父がまた笑った。
私は誰も笑えないほど、エリアスを打ち負かして差し上げることにした。
◇
一刻の後、笑えなくなったのは私の方だった。
エリアスは下手ではない。
足運びも剣の構えも、きちんと習った形をしている。力も私より強い。
ただ、守るときに下がりすぎた。
「そこまで退いたら、お屋敷に帰ってしまいますわよ」
「帰っていいなら、帰りたいね」
「もう一本」
剣を合わせる。
私が踏み込むと、彼は大きく退いた。私も追ってもう一歩踏み込み、彼の胴鎧に剣を当てる。
金属の響きが稽古場に残った。
「ほら、届きますでしょう」
「君の剣は本当によく届くな」
彼は息を整え、構え直した。
文句は言う。それなのに、私がもう一本と言う前に剣を上げる。
簡単に音を上げるとどこかで思っていたのだ。
よく考えれば、私に求婚したときもこの人は三度来た。
一度目は、剣が苦手な方とは話が合わないと断った。
二度目にはどうせ父に言われたのだろうと聞いた。
三度目には、毎回父の勧めではないと説明するのは少しつらいと笑われた。
その笑い方が気に入って、次はいつ来るのかと尋ねたのだった。
「何がそんなに怖いのです?」
次の打ち合いの後、私は尋ねた。
「剣が飛んでくること」
「剣の稽古ですもの」
「分かっている。でも、体はあまり納得してくれない」
エリアスは汗を拭った。
いつもの柔らかな前髪が額に張りついていた。
「当たると思うと、届かないところまで逃げたくなるんだ。君は怖くない?」
「当てられる前に当てますから」
「君に聞いた僕が悪かった」
隅で叔父が頷いている。
私は叔父を睨んでから、エリアスの正面に立った。
「では、打ちません。受けるだけになさいませ」
「打たないものを、受けるの?」
「途中で止めます。剣がどこまで来るか、見ていて」
ゆっくり振った剣の前で、彼の肩が動いた。
私は剣を止めた。彼の胴まではまだ十分に距離がある。
「ここで下がっていらしたのよ」
「ああ」
「早すぎます。まだ何もされておりません」
もう一度。
今度は彼もその場に留まった。
剣と剣を触れ合わせ、押し返す方向を示す。大きく払おうとしたので、彼の肘を押さえた。
「そこまで開かなくてよろしいの。少しで」
「このくらい?」
「そう。そこから私の剣が戻る前に胴へ」
私の剣が逸れ、彼の剣先が胴鎧に触れた。
音は小さかったが、届いていた。
「これだけを覚えましょう。ガストンの打ち込みは私より重いですけれど、動きも大きいので」
「君が言うと、簡単そうに聞こえる」
「簡単になるまでやるのですわ」
エリアスは天井を見た。
それから剣を上げた。
百回目が近づく頃には、彼の息は上がり、私の声も掠れていた。
少し速くすると退く。退かないように意識すると、今度は早く受けようとして空振りする。
たった一つのことを教えるのが、こんなに難しいとは知らなかった。
「また早い。剣を見て」
「見ている」
「でしたら、どうして」
「君が痛そうなところへ打つからだよ」
「本番でも打たれますわ」
「そうだけれど」
彼は口を閉じた。
その顔に、私は少しだけ怯んだ。
エリアスにも疲れて機嫌の悪くなることがある。
当たり前なのに、初めて見た気がした。
「水にしよう」
叔父が間へ入った。
私がまだ続けようと言いかけると、叔父は首を振った。
「お前まで熱くなってどうする。一本取るより、明日も剣を持てる方が大事だ」
エリアスが腰掛ける。
手袋を外す指がわずかにもたついた。
私は自分の剣を置き、その手を取った。
「見せて」
「このくらいは平気だよ」
「私は平気ではありません」
掌に赤くなったところがあった。
まだ皮は破れていない。明日も同じように握れば破れる。
私は手袋の内側を確かめ、硬くなった縫い目を指でなぞった。
「替えを用意させます。ここに薄い当て布を。手袋が動くなら、帯も少し詰めて」
「ありがとう」
さっきまで苛立っていた顔が、もう和らいでいる。
私はその指を離しそこねた。
普段、彼に手を取られるのは馬車へ乗るときくらいだった。
「……やはり、私が代わりに」
「君が勝つところは、いつでも見たいよ」
エリアスが空いた方の手で私の指に触れた。
「でも、今回は僕が腹を立てたんだ。君が僕を好きになったのも、僕が君を好きなのも、あいつが負け惜しみで決めていいことではない」
好きになった、とさらりと言う。
私はまだ、彼に一度も言っていないのに。
「ずいぶん自信がおありなのね」
「なかったら、ここへ習いには来ない」
叔父が水を飲みながら、あからさまに庭の方を向いた。
私は手を離した。
「明日は朝からですわよ」
「遅れないようにする」
「遅れたら、稽古を倍にいたします」
「来なくても怒るだろうね」
もちろんだ。
そんなことも知らない方を、夫にはしない。
◇
翌朝、エリアスは私より先に来ていた。
手袋を脱がせると、昨日赤くなっていたところに薄い布が当てられている。
「握れます?」
「握れる」
「では、今日は足も使います」
ゆっくり打つと、その場で受けられた。速めると、まだ足が後ろへ逃げる。
私は剣を止め、彼の右足の横を靴先で指した。
「下がる代わりに、こちらへ。大きく動かなくてよろしいから」
彼の手首に手を重ねて、横へ半歩。正面から押し返さなくても、剣先を逸らせる。
手を離して繰り返すと、今度は自分で踏みとどまった。
「そう。今の一歩です」
エリアスは足元を確かめ、もう一度と剣を上げた。
午後の稽古でひと休みしたのは、庭の影が長くなり始めた頃だ。
勝つたびに手袋の手首を引いて、ぱちんと鳴らしていたら、叔父にうるさいと叱られた。
昔からの癖なので、仕方がない。
「君は勝つと本当に楽しそうだね」
「負けて楽しそうにできますの?」
「ガストンはできなかったな」
エリアスは水の杯を膝に置いた。
「学院のとき、何度か同じ組になった。普段は速いし、上手い。でも、自分より下だと思っている相手に一本取られると、その直後が雑になる」
「ええ。大振りになりますわね」
「それを待ちたい」
私も壁に背を預けた。
ガストンとの試合を思い出す。人前で負けた後ほど、肩に力が入っていた。
その力の入った肩を見ると、どこへ振るか分かってしまう。
私がそれを指摘したこともある。
彼は聞かなかった。
「一本取るまでは?」
「君が言っていた、少し遅れて受ける返しを使う。あの人は、僕が下がると思って追ってくるはずだから」
「また下がってしまったら?」
「取り返す。三本全部を一度にもらうわけではないだろう」
穏やかな言い方に反して、ずいぶん欲張りな計算だった。
一本多く取れればいい、くらいの気持ちで来たのではない。
「本当に勝つおつもりなのね」
「君が教えてくれているからね」
エリアスは水を飲み、杯の縁に指をかけた。
「ガストンは君が人前で剣を振るうのが嫌だったのかな」
「いいえ。自分に負けないのが嫌だったのです」
求婚を断る前、あの男は私に言った。
結婚すれば、夫を立てることも覚えてもらう、と。
剣に関しては自分が教えるから、とまで。
「それで、その場でもう一本お相手しました。とてもお静かになりましてよ」
「なるほど。それを知っていれば、今日の稽古は君のお父上に頼んだかもしれない」
「今からでも構いませんわ」
「いや。君が勝ったときの顔は、好きだから」
水を飲もうとしていた手が止まった。
「性格が悪いとよく言われます」
「うん。僕が相手でも、手加減してくれない」
「それなのに?」
「自分が負けたときは、少し悔しいけれどね」
エリアスは剣を持って立った。
「僕にもあの顔をさせてほしい。ガストンの前で」
胸の奥が妙に熱くなった。
私は手袋の手首を引いて、音を鳴らした。
「よろしいですわ。もう十本」
「さっきも、最後の十本と言わなかった?」
「お気のせいです」
三日目も同じ剣の音を聞いて過ごした。
新しい技は増やさなかった。受けて、返す。早すぎれば失敗し、怖くなって退けば届かない。
何度も私に打たれながらも、ときどき彼の剣が私の胴へ触れた。
あらかじめ動きを決め、速さも落とした稽古でのことだ。
それでも、一日目にはできなかった。
夕方には叔父が剣を取り上げた。
エリアスが惜しそうに見たので、私は叔父の側へ立った。
「明日、お寝坊なさらないで」
「君もね」
「眠れないとでも?」
「僕が眠れそうにないから、君もそうだったらいいと思って」
ずいぶん勝手なことを言う。
その晩、私は本当に眠れなかった。
◇
決闘の朝は、腹が立つほどよく晴れていた。
会場はリエール家の小庭だった。
芝を刈り込んだ区画の周りに、ガストンが誘った友人たちが立っている。彼がエリアスを笑ったとき、その場にいた方々もいるらしい。
余計な客を呼ばないように頼んだ叔父の顔が、もう険しい。
私を見るなり、ガストンが笑った。
「やはり、心配で来たのか」
「ええ。見逃したら、惜しいことになると思いまして」
「お気の毒に」
どちらが、と言いかけて、エリアスに袖を引かれた。
彼の剣帯が少し曲がっている。
私は黙って直した。手袋の留めも確かめる。
「手は?」
「大丈夫」
「大丈夫という答えは、昨日まで許しませんでしたでしょう」
「痛い。でも、握れる」
「結構です」
目が合う。
彼の顔はいつもより白かった。
「一つだけ、お願いしてもいい?」
「何でしょう」
「始まったら、そこにいて。心配して前に出てこないでほしい」
彼は区画から離れた木陰を指した。
剣を受けるより難しい頼みだった。
「……承知いたしました」
「ありがとう」
私はその場所へ下がり、足元を見た。
小さな白い花が一つ咲いていた。これを踏まないように立っていれば、動かずに済む。
叔父が二人の剣と胴鎧を確かめた。
相手方の立会人も頷く。
打つのは胴だけ。一本ごとに離れて、構え直す。外から技の指図はしない。
ガストンは退屈そうに聞いていた。
開始の声。
最初の一往復で、私は指を握り込んだ。
ガストンの踏み込みは速かった。
エリアスが下がる。稽古で何度も見た大きすぎる一歩だった。
間を空けずに追ってきた剣が彼の胴鎧を鳴らした。
「一本。リエール」
ガストンが笑う。
周りの客からも低い笑い声がした。
「先生の教え方が悪かったかな」
私は足元の花を見た。
まだ、踏んでいない。
エリアスは何も言わなかった。
開始位置へ戻るとき、一度だけ私を見る。
私は頷いた。
三本全部を一度にもらうわけではない。言ったのは彼の方だ。
再開してすぐ、ガストンが同じように攻めた。
エリアスは今度も退きかけた。
だが、二歩目を踏まなかった。
追ってきた剣を受け、体の外へわずかに逸らす。ガストンの剣が戻る前に、エリアスの一撃がその胴へ触れた。
軽い音だった。
けれど叔父も相手方の立会人も、すぐに手を上げた。
「一本。クローヴェル」
私は思わず息を吐いた。
指先が痺れている。
ガストンの口元から笑いが消えた。
「同じことをさせると思うか」
次はガストンも慎重だった。
大きく振りかぶったように見せて、途中で剣を止める。
エリアスは受けようと動いた。その剣の下をガストンの一撃が抜けた。
「二本目。リエール」
また、早すぎた。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
エリアスは打たれた側の肘を少し動かした。
鎧越しでも痛かったはずだ。
帰らせたいと思った。
もう十分だとあの場へ出て、私がガストンの剣を叩き落とせばいい。
足元で白い花が揺れた。
私は靴先を元の位置へ戻した。
「どうした。後は彼女に頼むか」
ガストンが私の方へ顎を向けた。
「そうすれば、君は一度も勝てなかったことになるよ」
エリアスの返事に、ガストンの眉が動いた。
「僕はまだ、立っているんだから」
剣が上がった。
エリアスの腕はもう疲れている。構え直すときのわずかな遅れで分かった。
ガストンも気づいているのだろう。今度はすぐに打たず、左右へ剣先を振って、彼を動かそうとした。
エリアスはその動きにつられなかった。
小さな動きには動かず、ガストンの肩を見ている。
私は息を止めた。
ガストンが正面から踏み込んできた。
エリアスの足が半歩だけずれた。
下がるのではなく、外へ。
剣同士がぶつかり、鈍い音を立てる。
エリアスの剣が相手の脇腹の鎧へ当たった。
「二本。クローヴェル」
二対二。
隣で誰かが声を上げたが、もう聞いている余裕はなかった。
あと一本。
ガストンは口を引き結び、剣を握り直した。
エリアスも握り直した。
エリアスだけがほんの一瞬、顔を歪めた。掌の皮がもたなかったのかもしれない。
最後の開始の声がした。
今度は、どちらもすぐには出なかった。
「彼女も君が従順だから気に入ったんだろうな」
ガストンが言った。
エリアスは動かない。
「結婚すれば分かる。ああいう女は、夫の言うことなど一つも聞かない」
「うん。昨日も、最後に十本と言ったのに、二十本になった」
客の一人が噴き出した。
私まで噴き出しそうになり、唇を噛んだ。
「それでも、僕が一本取ると僕より嬉しそうな顔をしたよ」
エリアスの声が少し変わった。
相手を見たまま、薄く笑う。
「君はあの顔を自分に向けてほしかったんだろう」
ガストンの肩が上がった。
私はその瞬間を見た。
踏み込むより先に、怒りが体の動きに出る。
「黙れ」
剣が振られた。
それまでより深い踏み込みだった。エリアスが下がると思っている。下がらせ、そのまま押し切るつもりだ。
エリアスはその場に踏みとどまった。
剣を受けた腕が沈む。押されて、靴が芝を擦る。
その場で力比べをすれば負ける。
彼は私に打たれたときと同じように、剣をほんの少し外へ流した。
ガストンの剣先が彼の脇を通る。
エリアスの剣が戻った。
相手の胴鎧の真ん中で、音がした。
叔父の手が上がった。
もう一人の立会人も続いた。
「三本。勝者、クローヴェル」
エリアスはすぐには動かなかった。
自分の剣とガストンの胴鎧を交互に見た。
それから、ようやく腕を下ろした。
その横顔を見て、私は息を吸った。
胸いっぱいに入れたはずなのに、まだ足りない気がした。
ガストンが何かを言いかけたが、叔父が先に口を開いた。
「剣を収めなさい。勝敗はついた」
相手方の立会人も黙ってガストンを見ていた。
彼は周囲を一度見回し、歯を食いしばった。
「……脅されて婚約したと言ったことは取り消す。侮辱をした」
エリアスは頷いた。
「レティシアにも」
ガストンが私を見た。
私は腕を組んで待った。
譲ってやるつもりは少しもなかった。
「君についての発言も取り消す。悪かった」
「伺いましたわ」
許したかどうかは聞かれなかったので、答えなかった。
エリアスは剣を立会人へ渡すと、こちらを見た。
空いた左手で右の手袋の手首を引き、ぱちんと鳴らす。
あまりにも得意そうなお顔だった。
私が笑うと、彼も笑った。
◇
「その手を見せなさい」
真っ先にそう言うと、エリアスは笑ったまま手を差し出した。
誰にも会わせず、屋敷の脇の腰掛けへ連れていく。
鎧を外すのを手伝い、手袋の留めをほどいた。
当て布に少し血が滲んでいた。
「痛いでしょう」
「うん。勝ったら、急に痛くなった」
「勝つ前から痛かったはずですわ」
「それは考えないようにしていた」
叔父が水と清潔な布を運ばせてくれた。
私が礼を言うと、エリアスの肩を軽く叩き、余計なことを言わずに離れていった。
今日初めて、叔父のことをありがたいと思った。
濡らした布で手を拭う。
エリアスの指がわずかに曲がった。
「沁みる?」
「少し」
私は手を止めた。
彼は続けていいよと頷く。
さっきまで人前であれほど強気なことを言っていたのに、私に手を預けた今は少し眠そうにさえ見えた。
「あのようなことをおっしゃる方だとは思いませんでした」
「どのようなこと?」
「私が嬉しそうに笑ったのが羨ましいのでしょう、だなんて」
「あれは効いたね」
悪びれもせずに言うので、私は思わず顔を上げた。
「分かっていて?」
「うん。あの人、一本取るたびに君の方を見ていたから」
私はガストンの顔などほとんど見ていなかった。
エリアスの足と剣を追い、無理をしていないかばかり気にしていた。
この人はそんなところまで見ていたのか。
「私の顔を見たがるなんて、愚かな方」
「そこは、あまり強く言えないな。僕も見たかったから」
私は彼の手へ視線を落とした。
布を巻くのに必要以上の時間がかかった。
「あなたには見せて差し上げたでしょう」
「うん。習いに来てよかった」
その声があまり満足そうだったので、また文句を言いたくなった。
けれど、手当てを終えるまでは黙っていた。
「次は受ける前にご相談なさいませ」
「止めるだろうね」
「止めます」
「だと思った」
エリアスが包んだばかりの右手を少し持ち上げた。
「今度は、この手を取って出ていってくれると助かる。君と帰れるなら、あの男の話を聞く必要もなかった」
私は彼の左手を取った。
「今日は、こちらになさい」
「そうする」
立ち上がった彼の膝が少しだけ揺れた。
私は笑わずに腕を貸した。
帰りの馬車へ乗り込むと、エリアスは長く息を吐いた。
向かいの席に座るつもりだったが、私は隣へ腰を下ろした。
彼がこちらを見た。
「何か?」
「嬉しいだけだよ」
「眠ってしまわれる前に、申し上げておきたいことがございます」
背筋を伸ばす。
庭ではとうとう言えなかった。
「よく、お勝ちになりました」
エリアスは目を細めた。
「君のおかげだ」
「三日間でよく覚えてくださいました。最後までご自分で考えて」
「褒められるのに慣れていないから、少し落ち着かない」
「黙って聞きなさいませ」
彼は口を閉じた。
それを見たら、急に先を言いにくくなった。
「……格好よかったです」
車輪が石を踏み、小さく揺れた。
その音に紛れなかったことだけは、彼の顔を見て分かった。
「もう一度、言ってもらっていい?」
「一度で十分です」
「覚えておきたいんだ」
「では、よくお覚えなさい」
握っていた左手を引いて、少しだけ顔を近づけた。
少しだけ、彼を慌てさせて差し上げたかった。
けれど先に唇を重ねたのは、彼の方だった。
ほんの短い口づけの後、私は目を瞬かせた。
エリアスは先ほど手袋を鳴らしたときと同じ顔をしていた。
「……私の方から、するつもりでしたのに」
「うん。待てなかった」
「ガストンに勝ったくらいで、私まで出し抜けると思わないことね」
彼が笑った。
その頬を指でつつくと、今度は素直に目を閉じたので、予定していた分の口づけを返した。
「私に勝とうなんて、十年早いですわ」
「では、次の十年も教えてくれる?」
「十年で足りるとお思いなの?」
エリアスは私の手を握り直した。
「足りないなら、その先も」
私は窓の外へ顔を向けた。
笑ってしまうのをこれ以上見られたくなかった。
けれど隣にいるのがこの人なら、隠してもあまり意味はないのだろう。
「厳しくいたしますわよ」
返事の代わりに、繋いだ手をもう一度やわらかく握られた。




