第1話 「言霊のズレた応援」
初めて、小説なるものを書いてみました。
つたない文章ですが、生温かい目で見守って頂けると幸いです。
夏の風が、少し冷たい。
北海道の港町にある高校の教室では、放課後のざわめきがゆっくりと消えていき、窓の外からはカモメの声が聞こえていた。
美咲は自分の机に座り、深く息を吐いた。
吹奏楽部の大会まで、あと二週間。
後輩ができて「美咲先輩」と呼ばれるようになったのは嬉しい。
でも、その嬉しさの裏側で、胸の奥がずっとざわざわしている。
――失敗できない。
――先輩として、ちゃんとしなきゃ。
そう思えば思うほど、手が震える。
美咲は震える指先で、小さなメモ用紙を取り出した。
そして、ペンを握りしめるようにして、たった一言を書いた。
「頑張れ」
自分に向けた、ささやかなおまじない。
でも、その文字を見つめていると、胸の奥から別の声がこぼれそうになる。
――本当は、逃げたい。
美咲はその声を振り払うように、メモを机に置いた。
その瞬間。
教室の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
ふわり、と。
目には見えない、小さな光の粒が漂っていた。
それは風に乗るように、ゆっくりとメモの上に降りていく。
精霊・リンク。
いつ生まれたのかも、どこから来たのかも分からない。
ただ、世界のどこかで誰かの想いが生まれるたび、ふわりと漂い、何かに宿る。
リンクはメモの上に触れた瞬間、そこに込められた気持ちを感じ取った。
(がんばれ……?
でも……こころ……にげたい、って……いってる……)
リンクの声は、幼い子どものつぶやきのようにたどたどしい。
(えっと……がんばって……にげたい……?
そうか……!
みさき、にげるの……おうえん、してる……!)
リンクは満足げに、メモの中でぽよんと跳ねた。
美咲のために、全力で“逃げる準備”を手伝おうと決めたのだ。
だが、その決意が、後に美咲をさらに追い詰めることになるとは、
リンクはまだ知らない。
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翌日の放課後。
吹奏楽部の練習が始まる少し前、美咲はフルートケースを抱えて部室へ向かっていた。
昨日よりも気持ちを切り替えようと、心の中で何度も言い聞かせる。
――大丈夫。
――頑張れる。
そう思った瞬間、フルートケースの留め具が「パチン」と外れた。
「えっ……!」
ケースの蓋が勝手に開き、フルートが滑り落ちそうになる。
美咲は慌てて両手で受け止め、胸を押さえた。
「なんで……ちゃんと閉めたはずなのに……」
美咲の背後で、誰にも聞こえない小さな声が跳ねていた。
(みさき、にげるじゅんび……できた……!
おと、でなくなる……れんしゅう、できない……!
えへへ……よかった……!)
リンクはメモの中で満足げに揺れている。
美咲は気を取り直し、部室へ向かった。
しかし、練習室の前に着くと、鍵が見当たらない。
「え……鍵、どこ……?」
顧問の先生がいつも置いている棚を探しても、鍵はない。
部員たちも首をかしげる。
「今日、誰か持っていった?」
「いや、見てないよ」
美咲は焦りを隠せなかった。
その頃、棚の裏側では、目に見えない小さな手が鍵をぎゅっと抱えていた。
(みさき、れんしゅう、できない……!
にげるじかん、ふえる……!
りんく、えらい……!)
リンクは自分を褒めていた。
その日の練習は、別の部屋を借りて行われた。
しかし、美咲の周りでは不思議な現象が続いた。
譜面台に置いた楽譜が、突然ふわりとめくれる。
電気が一瞬だけ消える。
フルートの頭部管が、なぜか逆向きに置かれている。
「なんで……なんでこんなに上手くいかないの……」
美咲は唇を噛んだ。
後輩の視線が気になり、胸がぎゅっと締めつけられる。
リンクはその様子を見て、さらに張り切った。
(みさき、かなしい……
もっと……にげるの、てつだう……!
りんく、がんばる……!)
その“頑張り”が、さらに美咲を追い詰めていく。
そして、数日後の放課後。
美咲は部室で一人、フルートを磨いていた。
大会が近づくほど、胸の重さは増していく。
後輩の前では笑顔を作るけれど、心はどんどん疲れていた。
「……どうして、こんなに上手くいかないんだろう」
美咲がつぶやいた瞬間、窓がカタリと揺れた。
風が吹き込み、机の上の譜面がふわりと舞い上がる。
「あっ……!」
美咲は慌てて追いかけ、廊下へ飛び出した。
そして、譜面を拾って部室に戻ると――
そこには、先輩が一人で片付けをしていた。
「……先輩?」
美咲の声に、先輩が振り返る。
優しい笑顔だった。
リンクはメモの中で、満足げに跳ねていた。
(みさき、にげる……?
あれ……せんぱい、いる……
んー……まあ、いい……!
みさき、えがおに……なる……!)
この偶然の出会いが、美咲の心を救うことになるとは、
リンクはまだ知らない。
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部室の空気は、夕方の光で少しだけ金色に染まっていた。
窓から差し込む光が、先輩の横顔を柔らかく照らしている。
「美咲、どうしたの? こんな時間まで残ってたのか?」
先輩はフルートのクロスを畳みながら、優しく声をかけた。
「あ……いえ、その……譜面が飛んじゃって……」
美咲は胸の前で譜面を抱えたまま、視線を落とした。
言い訳のような言葉が口から出たけれど、本当は違う。
本当は、誰かに聞いてほしかった。
先輩は美咲の様子を見て、そっと手を止めた。
「美咲、ちょっと座ろうか」
促されるまま、美咲は椅子に腰を下ろした。
先輩は隣に座り、少しだけ身体を向ける。
「最近、元気なかったよね。どうしたの?」
その一言で、美咲の胸の奥がじんわりと熱くなった。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。
「……先輩として、ちゃんとしなきゃって思うんです」
美咲は震える声で言った。
「後輩ができて……“美咲先輩”って呼ばれるのが嬉しくて。
でも、嬉しいのに……怖いんです。
失敗したらどうしようって。
みんなの前で、恥ずかしいところ見せたらどうしようって……」
言葉が止まらなくなった。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえる。
先輩は静かに頷きながら、美咲の言葉を受け止めていた。
「美咲、その気持ち……すごく分かるよ」
「え……?」
「僕もね、去年まったく同じだった。
後輩ができて嬉しいのに、責任が重くて、
“ちゃんとしなきゃ”って自分を追い詰めてた」
先輩は少し笑った。
「でもね、美咲。
先輩とか後輩とか、そんなの関係ないんだよ」
美咲は顔を上げた。
「僕たちは、同じ音楽をやってる“仲間”なんだよ。
誰かが失敗したら、みんなで支えればいい。
美咲が一人で全部背負う必要なんて、どこにもないよ」
その言葉は、夕陽よりも温かかった。
「……でも、私……頑張らなきゃって……」
「頑張らなくてもいいよ」
先輩は優しく微笑んだ。
「逃げなくてもいい。
無理しなくてもいい。
美咲の音は、美咲のままでいいんだよ」
美咲の胸の奥に、ふわりと風が吹いたような感覚が広がった。
張りつめていた心が、ゆっくりとほどけていく。
「……先輩……ありがとうございます……」
涙が一粒、静かに頬を伝った。
その様子を、机の上のメモの中からリンクが見ていた。
(みさき……にげない……?
でも……えがお……
えがおなら……いい……
りんく……しごと、おわり……!)
リンクは満足げにぽよんと跳ね、
夕陽の光に溶けるように、ふわりと漂い始めた。
次の“宿り先”を探しながら。
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翌朝。
港町の空は、昨日より少しだけ明るく見えた。
美咲は学校へ向かう道を歩きながら、胸の奥が軽くなっているのを感じていた。
先輩の言葉が、まだ心の中で温かく灯っている。
――頑張らなくてもいい。
――逃げなくてもいい。
――美咲の音は、美咲のままでいい。
その言葉を思い出すたび、肩の力がふっと抜けた。
放課後の部室。
美咲はフルートを取り出し、深呼吸をした。
「よし……今日は、自然に吹いてみよう」
後輩たちが「先輩、こんにちは!」と元気に挨拶してくる。
美咲は、昨日までよりずっと柔らかい笑顔で返した。
「うん、今日も一緒に頑張ろうね」
その声は、無理をしていない。
自然で、あたたかい。
練習が始まると、美咲のフルートはいつもより伸びやかに響いた。
音が震えない。
息が詰まらない。
後輩が驚いたように言った。
「先輩、今日すごくいい音ですね!」
「えっ、そうかな……? ありがとう」
美咲は照れながらも、心の中でそっと思った。
――あ、私……逃げなくていいんだ。
その気づきが、美咲の音をさらに優しくした。
部室の隅。
昨日まで美咲のメモに宿っていたリンクは、
もうそこにはいなかった。
リンクは、夕陽の光に溶けるように漂いながら、
校舎の廊下をふわりふわりと進んでいた。
(みさき、えがお……
よかった……
つぎは……だれ、たすける……?)
幼い声が、風の中に溶けていく。
リンクは今日も、誰かの小さな願いを探して漂う。
人が気づかないところで、そっと寄り添うために。
お読みいただき、ありがとうございました。




