ひとつの違和感
それから、スライムは蠢くこともなく、力を失った水のようにとろけていった。
形を保っていた透明な塊は、ゆっくりと崩れ、やがてただの濡れた跡のように石の床へ広がる。
残ったのは、手袋にまとわりつくぬめりと、核を抜いたあとの頼りない残滓だけだった。
「なんか、戦ってる気がしないね。薬草採取みたい」
その様子を見ながら、エルネが残骸を剣でつつきながら、ぽつりと呟いた。
確かに、と思う。
戦いというより、作業。
抵抗もしない相手の素材を取るだけ。
剣を振るう緊張もなければ、命のやり取りの気配もない。
「薬草みたいに密集してたら、すぐに集まりますね」
「ね、先輩。手間が省けますもんね」
エルネは少し考えるように口を閉じたあと、嫌そうな顔をした。
そして間を置いてから、肩をすくめる。
「……集まってるスライムも気持ち悪いかも。
嫌、やっぱり一匹ずつかなぁ」
私はスライムで濡れたレザーの手袋を、軽く振ってぬめりを払う。
乾くはずもないが、つい癖のように振ってしまう。
「もう少し奥に行こう」
そう言うと、エルネは「はい」と短く返事をした。
二人で並んで歩き出す。
洞窟の空気は変わらず湿っている。
エルネが松明を振って炎が揺れるたび、岩肌の影が伸び縮みする。
ランタンの灯りは柔らかいが、小さい。
それよりも松明のほうが、少しだけ遠くまで光を押し出してくれる。
足音が石に響く。
その間に、風の流れる音がある。
どこか遠くから、細く吹き抜ける空気の音。
ぽつ、ぽつ、と雫が落ちる音も聞こえてくる。
靴の滑る感覚。
ただそれだけ。
前に来た時を考えるとジャイアントバットの羽音はしない。
ふと、考えが浮かぶ。
あのスライムは、どうして地面を這っていたのか。
以前、天井から降ってきたスライムのことを思い出す。
あれは私を狙っていたのか。
それとも、近くを走っていたネズミを捕食するつもりだったのか。
結局、あの時はよく分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
バルクとロニオと一緒にいた時、教わったことだ。
スライムは熱に反応する。
だから、人が近くを通ると、天井から落ちてくる。
もし落ちてきたスライムなら。
それは、誰かがここを通った後ということになる。
私たち以外の誰か。
人かもしれない。
それとも魔物かもしれない。
……けれど。
もし、最初から地面を這っていたのなら。
そこまで考えて、思考を止める。
考えすぎだ。
杖を握る手に、少しだけ力が入る。
振り返る。
エルネは特に何も気にした様子もなく歩いていた。
視線が合う。
エルネが少し首を傾げる。
「どうしたんですか? 先輩」
私は首を横に振った。
「何でもないです」
そう答えてから、また前を向く。
そしてもう一度、天井を見上げる。
松明の光が届ききらない場所。
ごつごつとした岩肌が暗闇の中で影になっている。
緑の影もない。
ぶら下がるものもない。
あれだけいたジャイアントバットが、一匹もいない…。
いないことに、ほっとする。
だけど。
それが、かえって少しだけ不安になる。
説明できない違和感。
胸の奥に、小さく引っかかるもの。
以前の私なら、きっと気にもしなかった。
それでも。
オーク程度なら、全然平気で倒せる。
そのくらいの自信はある。
足を止めた。
何かが見えたからだ。
進む道の先。
松明の光の届くぎりぎりの場所に、小さな影。
私は杖を構える。
その瞬間、背中にエルネがぶつかった。
少し前に押し出される。
「んぶっ、ちょ、先輩」
私は一歩踏み出して、また止まる。
「止まるなら止まるって言って」
エルネが文句を言いながら、松明を高く掲げた。
炎の光が前方を照らす。
岩の床。
濡れた石。
そして――
ゆっくりと地面を這うもの。
そこにいたのは。
ただ一匹のスライムだった。




